瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

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食べることへの自覚

2010年01月22日 | 断食・少食
昨日、「今回はある程度の空腹感はある」と書いたが、その後、23時頃からは全く空腹感がなくなった。それは今日、昼に復食するまで続いた。以前(2006年)、週一回ほどのペースで一日半断食を行っていたころは午前0時前後に空腹感がなくなっていた。

今回1時間ほど早かったのは、前日夕食だけで過ごし、摂取した食べ物のネネルギーが切れるのも早かったからだろう。それで、体内に蓄えられた脂肪をエネルギー源として使用するかたちにスウィッチして、同時に空腹感がなくなるのも早かったのかもしれない。昼に復食せずそのまま断食を続けたとして空腹感を感じない状態がどれほど続くのか、これはやってみないとわからない。ぜひ試してみたい。

今月、11日に一日半断食を再開した。2年数ヶ月ぶりだ。二年まえは60キロ前後に下がっていた体重も70キロにまで増えた。10日夜に体重を量ったときには、70.8キロだったが、今朝は67.6キロに減っていた。12日間で3キロは減ったわけだ。

それもうれしいが、小断食を行って何よりもよいと思えるのは、食べるということに自覚的になれるということだ。食べることへの気づき、サティを深く行うことができる。もちろん食べることだけではなく、食べたいという欲求へのサティ、食べることで補償しなければならない欲求へのサティ、空腹感も含めた様々な生理的な感覚へのサティ、胃の感覚へのサティ‥‥‥。生きているということへの気づきが、生理的なレベルで深まるようだ。2年数ヶ月前に行っていたときよりも、断食による新たな発見が多い、多くなるような気がする。

最近の私は、食べることで何らかの欲求不満を補償する面が強かったと思う。だからこそ断食で、食をめぐる気づきを深めることが大切だ。
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一日半断食

2010年01月21日 | 断食・少食
◆一日半断食
最近二回の一日半断食は、前日たっぷり食べていたので、空腹感もそれほどなく楽であった。今回は、昨日夕食しか摂っていないので、これまでとは違う。朝から腹がすっきりしていて気持よくはあったが、午後はかなり空腹感があった。

豆乳を入れたコーヒー三杯、もずく合わせて7キロカロリーほどとみかん一つを食べた。合わせて300キロカロリーくらいか。このまま行くつもりだ。空腹感があればあるなりにサティのし甲斐がある。寒く暗い道を歩いているときは、空腹がわびしく、熱いラーメンが恋しい。しかし、帰宅してこうしてブログに向かっている今は空腹感はない。

朝食抜きや一日半断食の医学的な効果や根拠などについては、かなり前に紹介したこともあるが、甲田光雄などの著作に詳しい。

断食・少食健康法―宗教・医学一体論
少食の力
朝食抜き!ときどき断食!―免疫力・自然治癒力健康法 (講談社プラスアルファ新書)
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昨日の夢

2010年01月20日 | 夢日記
◆昨日の夢
痛々しいほどに弱く甘えんぼの少年は、妻の子供でありながら、私には見知らぬ少年であった。私が知らなかったのは当然で、それは私が自分の心の奥底に隠していた自分自身だったからだ。初めて出会ったその少年を、しかし私は好きであった。そういう少年を何とか支えたかった。私は、そういう少年の姿の自分自身を、拒否せずに受け入れる準備ができたということなのかもしれない。

人が自我という殻をもつかぎり、その殻におさまりきれない真実の自分は抑圧される。自我とは、小さな殻におさまりきれない心や命の深さを、どこかで遮断するための装置だとも言えるだろう。自我という殻が存在するかぎり、抑圧された無意識も存在する。悟りとは、心のなかの一切の抑圧が、かぎりなく解放されたあり方だ、といえるかも知れない。逆に言えば悟りは、自我という殻が溶解することでもある。


瞑想も、そして恐らく断食も、自我の殻によって遮断された一切を解放する方法のひとつなのだ。

◆最近、心がけていること
瞑想や断食はいうまでもないが、机やパソコンに向かったりしていて、眼や頭が疲れたり、集中できなくなったとき、すばやく立って、呼吸法やゆる体操、気功などを効果的に取り入れるようにしている。気功は自発動気功が中心だ。また、家に持ち帰ったやるべき仕事をぐずぐず先に延ばす悪いクセがあるので、気がついたらたとえ数分でもいいから、とにかくとっかかって見るということを心がけている。やり始めたら意外と面白かったりする。

朝食はいつも食べないが、今日は昼食も抜かした。そのまままた一日半断食に入ろうかと迷ったが、夕食は食べた。明日から明後日にかけてまた一日半断食を入れたい。
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断食と夢

2010年01月19日 | 夢日記
◆明け方トイレに立ったとき、夢を見ていたことに気づいた。印象的な夢だった。ここしばらく夢を見たという記憶がないが、断食をしたときや少食をしたときは印象的な夢を見ることが多い。これまでもしばしば、断食の最中に意味深い夢を見ている。やはり断食や少食は、心の深い層を刺激する何らかの効果があるのだろう。

10日間の瞑想合宿ではその間、極端な少食をし、意識をクリアに保とうとする。瞑想合宿中に、これまで抑圧していた心の問題に気づいたりしたのも、瞑想のためだけでなく少食が、からだに生理的な変化を起こし、それが心の状態にも変化を与えた面があるのだろう。瞑想のためにも、断食や少食は続けていくべきだ。

夢は、小学校低学年くらいの少年の夢だった。見知らぬ子だったが、私はその子と遊んでいた。その子は、極端に心が弱く、甘えん坊の、お母さんっ子だった。その弱さや甘えがちょっと痛々しいほどだった。その子の母は、私の妻だったが、夢の中ではそこに矛盾はなかったようだ。たぶん、その少年は私だからだ。

私は、その少年を励ましていた。「何も自分から思い切ってやろうとせずに、逃げて甘えてっばかりいてはダメなんだよ」と。その弱さと甘えに強烈な印象を持ちつつ。そんなところで目が覚めた。

職場へ通う道々、夢を振り返って、弱さはともかく甘えというのが意外だった。私の中に甘えたいという欲求があるのだろうか、この歳になっても。表層の意識は、とても自覚することができたいような甘えの意識が、自分の中にあるのだろうか。まったく新しい発見のような気がした。

◆いつもの通り、目覚めたあとは空腹感はほとんどない。快調に通勤、そして仕事。11時半ごろ、リッツクラッカーを10枚ほどで復食。ただし、その一時間後には小さなコロッケやほうれん草の和え物、リッツクラッカーを20枚くらいを食べた。復食としては食べすぎなのかも知れない。復食のあり方は今後、気をつけなければならない。いずれにせよ、こんなに楽にできるなら、一週間に2回のペースでもよい。
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思考を突き放して「見る」

2010年01月18日 | 断食・少食
◆今回の一日半断食も順調だ。職場では、紅茶二杯と、コーヒーに豆乳を入れて三杯。豆乳の量は、合わせてカップ一杯分ぐらいか。夕食時に野菜スープの汁だけ二杯。一日で300キロカロリーくらい摂取したと思う。そのせいか、ほとんど空腹感はない。これぐらいだといつでも気軽にできる感じだ。一週間に一回のペースを保っていきたい。

今日は、空腹感を感じてのサティはほとんど行う必要がなかったが、思考への気づきは多かった。日常の中でとりとめもなく繰り広げられる思考に気づくことは、それを相対化して突き放して「見る」ということだ。思考に埋没しているかぎり、思考する自我から自由になれない。思考に気づけば気づくほど、思考する自我から解き放たれていくのだろう。

◆再び『臨死体験・気功・瞑想』>「瞑想世界の旅」>ヴィパッサナー瞑想を生活により。

「心が執着することからも拒否することからも自由なときには、怒りを怒りとして、欲求を欲求として見ることができる。「見る」や否や、心のプロセスは「見ること」に関心を奪われ、その瞬間に怒りは自然な死を遂げる。この見るということ、すなわち洞察は、般若と呼ばれ、練習したり訓練したりすることもできない内発的な気づきとして生じる。この気づきは、人生に新しい洞察をもたらす。行動の際の新しい明晰性、新しい内発性をもたらすのだ。 それゆえ瞑想は、人生とその日々の浮き沈みとから切り離すことができない。この日常世界の中で平和を経験したいなら、怒りや欲求や無知をそれらが起こるがままに見、理解し、扱う必要がある。」

「その瞬間に怒りは自然な死を遂げる」ほどの深い洞察が、かんたんにできるとは思わない。しかし、感情や思考といった様々な心の動きを「見る」とき、それらを、根拠のないはかなく消えるほかない泡沫のようなものと感じとることは難しくない。自我が、突き詰めれば何の根拠も土台もない、もろい「壁」である以上、自我に根ざした思考や感情もまた、その本質は、壁に描かれた「落書き」にすぎない。
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