瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

私たちに共通する盲点(3)

2009年07月30日 | 瞑想日記
日常的な思考が私たちにとっての盲点になっている、ということには二重の意味があると、最初に書いた。ひとつは、まさに私たち自身が、自分の脳内おしゃべりに充分気づいておらず、多くの場合は、半ば無意識に、受動的におしゃべりが続き、時には強迫的に同じテーマをくりかえし考えている、ということだった。そして大切なことは、その受動的なおしゃべりの内容が、私たちの人格の質を決定しているということだ。無自覚な脳内おしゃべりが、私たちの「無明」を形づくっているということだ。

二つ目の意味は、学問的なものだ。これほどに多くの時間を脳内おしゃべりに費やし、しかもそれが、私たちの人格にとって決定的な意味をもっているにもかかわらず、日常的な思考のあり方を真正面からテーマして研究する学問分野がない。私たちの日常のこれほと基本的な営みであるにもかわらずである。思考心理学というのはあるようだ。しかしそれはあくまで意図的、意識的な思考のあり方を研究するもので、私たちの誰もがひまさえあれば行っている日常的な思考を研究するものではない。

なぜなのか。まさに盲点だからなのだが、ではなぜ盲点なのか。おそらく私たちのあまりに主観的で、しかも日常の意識にとって盲点になっている営みなので、学問的な研究の対象になりにくいからだ。瞑想を行えば、私たちの日常的な思考のあり方がある程度見えてくるが、瞑想を行うなどしなければ、私たちの頭の中をたえず流れている思考のざわめきを問題としてとらえることもないだろう。ましてや、学問的な研究の対象として捉えることもない。

もし、このブログを読んでくださった人のなかで、上述のような意味で日常的な思考を研究した例を知っている方がいれば、ぜひお教えください。

私たちに共通する盲点(2)

2009年07月27日 | 瞑想日記
私たちの脳内おしゃべりは、なかば夢に似ている。

多くの場合それは、何かを意識的に考えようとして始まるのではなく、自分の自覚的な意図とは関係ないところで始まり、展開していく。夢が自分の意図とは関係なく展開していくように。

脳内おしゃべりが展開する仕方にはいくつものパターンがあるだろう。よくあるパターンをひとつあげてみよう。

(1)家の外のクラクションの音→(2)クラクションの音に関係する思い出Aのこと→(3)その思い出にかかわる人物Xのこと→(4)人物Xにかかわる別の思い出①‥‥‥

こんな風に思考が展開していったとしよう。きっかけは家の外で聞こえたクラクションの音だが、そこから、なぜ関係する思い出Aが連想されたのかは、ほとんどの場合、無自覚だろう。関係する思い出BやCが思い出されず、Aだったのはなぜか。意図的に振り返れば理由がわかるかもしれないが、わざわざ振り返ること自体が特殊ケースだろう。多くは、無意識のうちにAが連想されるのだ。(3)の人物Xについても同じことが言える。人物YやZが連想されても不思議ではないが、なぜXだったのか。これについても無自覚のうちに連想されたのだ。

このようにして無自覚のうちに、次から次へと連想が展開していく場合が、日常的な思考の多くの部分を占めている。その意味で日常的な思考は、同じように無自覚のうちに展開していく夢に似ている。

また、夢の内容が無意識層に関係する意味をもっているのと同じように、他の何かではないAや、他の誰かではないXが連想されて展開していく思考にも、無意識に関係する何かが、次になにが連想されるかを方向付けているかもしれない。

夢と日常的な思考は、似ていない部分もある。夢はイメージ中心に展開するが、脳内おしゃべりは、言葉による。しかし、ぼーと何かを考えているうちにイメージの展開が中心になっていたなどということもあるだろう。ハッと我に帰って今日の仕事の段取りを考え始めたとすれば、それは意図的な思考となる。

テーマは、私たちの盲点としての日常的思考(脳内おしゃべり)であった。問題は、私たちは絶えず脳内おしゃべりを続けていながら、そのおしゃべりについて、無自覚で受動的だということだ。自分で充分コントロールもできず、なかば気づくこともない何かが、頭の中でたえず活動しているのに、とりたててそれを問題にしない。問題にする必要も感じていない。それが「盲点」という言葉で言いたかったことだ。

私たちに共通する盲点(1)

2009年07月26日 | 瞑想日記
私たちほとんどに共通する盲点とは、日常くりかえしくりかえし行っている脳内のおしゃべりのことである。なぜそれが盲点なのか。二重の意味で盲点だといえそうだ。

瞑想をし、サティを心がける人間にとっては当たり前のことなのだが、一般にはそうではない。私たちは、日常たえず脳内おしゃべりを続けながら、その事実およびおしゃべりの内容にほとんど無自覚だ。それが第一の盲点である。

たえず脳内の独り言を続けているという事実そのものに無自覚である場合もあるが、たとえその事実に気づいても、その内容についてはほとんど無自覚である場合が多い。「そんなはずはない」と思うなら、数分前、いや一分前に自分が考えていたことを思い出してみるとよい。ほとんど忘れている場合が多いだろう。

なぜ無自覚の脳内おしゃべりが問題となるのか。それがほとんど受動的に続けられていく習慣性の思考だからだ。同じようなことをくりかえしくりかえし考えながら、そのくりかえしに気づいていない。そして何回もくりかえされる脳内おしゃべりにこそ、本人が無意識のうちに執着している何かが隠されている。その思考に気づき(サティ)が入る度合いが多くなればなるほど、執着からの解放につながっていくだろう。

ほとんど受動的に延々と続けれていく日常的思考にサティが入るようになるということは、その受動的な営みからわずかでも解放されていくことにつながる。意識の新しい次元が開けるプロセスといってもよい。自由への道といってもよい。

『人類は「宗教」に勝てるか』(2)

2009年07月25日 | 読書日誌
◆『人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)

一神教的コスモロジーを批判したあと著者は、「多神教的コスモロジーの復活」、さらには「無神教的コスモロジーの時代へ」と論じていく。

いわゆる近代化とは、西欧文明の背景にある一神教コスモロジーを受け入れ、男性原理システムの構築することだともいえる。ところが日本文明は、近代化にいち早く成功しながら、完全には西欧化せず、その社会・文化システムの中に日本独特の古い層を濃厚に残しているかに見える。日本列島で一万年以上も続いた縄文文化は、その後の日本文化の深層としてしっかりと根をおろし、日本人のアニミズム的な宗教感情の基盤となっている。それは、キリスト教的な人間中心主義とは違い、身近な自然や生物との一体感(愛)を基盤としている。日本にキリスト教が広まらなかったのは、日本人のアニミズム的な心情が聖書の人間中心主義と馴染まなかったからではないのか。これは、日本にキリスト教がほとんど受容されなかった理由の考察として興味深い。

著者のいう多神教的コスモロジーの要点とは、「単一原理で世界が支配されるのではなく、世界は不確定な要素で動いていく」「男性原理と女性原理は敵対するのではなく、相互補完的関係にある」「他者を断罪する権威は何人ももたない」等々である。

アニミズム的な多神教的コスモロジーは、一神教よりもはるかに他者や自然との共存が容易なコスモロジーである。「日本は20世紀初頭、アジアの国々に対して、欧米列強の植民地主義を打ち負かすことができることを最初に示した国だが、今度は21世紀初頭において、多神教的コスモロジーを機軸とした新しい文明を作り得るということを、アジア・アフリカの国々に範を示すべきだ。日本国民が自分の国の文化に自信をもつことは、そういう文明史的な意味があるのである」と著者はいう。(P134)

ただし著者は、多神教的コスモロジーに留まることをよしとしているわけではない。人類社会から一神教と多神教の双方が消え去ることが理想だという。「人間の力を超えた偉大なるものに対して、全身が震えるほどの敬虔な気持さえあれば、神仏を語る必要はない、寺や教会に行かなければ、神仏に合えないというのは、酸素ボンベにしか酸素はないと思い込むようなものだ」と著者はいう。そこが、既成宗教が自己否定を経験したのちに復活する真の宗教、つまり「無神教」の地盤である。

この著者の素晴らしいところは、抽象的になりがちなテーマを、つねに具体的な事例を挙げながら進めることだ。またどのページにも必ずといっていいほどに深い洞察力を感じさせる文章が散りばめられている。著者の宗教についての考え方に強い共感をもつから、それだけ多く共感する文章に出会うということなのかも知れないが。とくに最後にふれた「無神教」の考え方は、私自身のサイトでも長年発信してきた考え方と同じである。