瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想と呼吸

2009年09月20日 | 瞑想日記
◆今年の2月に奥野 宣之 の『情報は1冊のノートにまとめなさい 100円でつくる万能「情報整理ノート」 (Nanaブックス)』を読み、さっそくズボンのポケットに入る小さなノートに仕事上のメモも、個人のアイディアも、ちょっとした切り抜きも、このノートに一元化して整理するようになった。メモの量は増えたし、ちょっとしたアイディアはすぐメモするようになったし、簡単な日記の役割にもなっているし、小さな必要な書類は貼り付けて失くさないようになったし、私にとって効果は抜群であった。

同じ著者の『読書は1冊のノートにまとめなさい 100円ノートで確実に頭に落とすインストール・リーディング』も読んで、同様の小さなノートに読書ノートをつけるようになった。小さなノートなので自分にとって本当に大切なところだけをせいぜい数ページぐらいでメモし、メモ内容ごとに感想をかきつけておくだけだ。しかし、これがばかにならない。メモをとらないと読んだ内容のほとんどを忘れてしまうことが分かる。しかしメモをしておくと、自分にとって本当に大切なその部分だけは確実に自分の中に残る。繰りかえしメモを読み返すから定着率は抜群だ。複数の本のメモ内容相互の関連に刺激されて、新しい着想が次々うまれてくる効果もある。

◆読書ノートの効果があまりに素晴らしいので、時間を見つけて過去に読んだ本もかつてアンダーラインをしたところから、さら重要箇所をいくつか選んで読書ノートに記入するようになった。昨日から齋藤孝の『呼吸入門 (角川文庫)』の読書ノートをとっていた。3年前に読んだ本だ。その中でとても参考になる文章に出会い、さっそくメモした。

「自分の呼吸の波に自分自身を浸すようにする。潮の満ち引き、波の打ち返しのように、お腹で息を感じるようにしながら、呼吸の波を感じとる。息がゆったり入ってきて、波が頂点に行ったら、それでゆっくり落ちて、吐き切ったら上がってくる。呼吸をじゃませずにに感じとるだけ、これが呼吸の基本だ。その波に自分を浮かばせておくコツが分かると、脳が疲れてしまった時などちょっと横になって5分ほどやると、疲れがすぐに回復する。」

自分のメモ用に省略しながら抜書きしたものだ。素晴らしいのは、これがまさにヴィパッサナー瞑想でやっていることだからだ。「呼吸の波に自分を浸す」という表現が気に入った。「波に自分を浮かばせておく」というのもいいな。まさに呼吸に任せて「呼吸を感じとるだけ」。なれないと雑念が途切れなく湧いてくるのだが、そのつど息をする腹にもどってその動きに任せる。雑念が消え始めると、ゆったりと波のようなお腹の動きに浮いて漂うような感じになるだろう。

今朝も、起きてすぐ40分ほど瞑想。

相手のエゴに反応しない

2009年09月13日 | 瞑想日記
◆エックハルト・トール『A New Earth』(訳書は『ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-』)より

Nonreaction to the ego in others is one of the most effective ways not only of going beyond ego in yourself but also of dissolving the collective human ego. (p87)

「他者のエゴに反応しないことは、あなたのエゴを乗り越えるだけではなく、集団的なエゴを解体するのにももっとも効果的な方法のひとつだ。」

相手のエゴに反応しないでいられるのは、そのエゴが、人間の集団的な歪んだ無意識の表れだと認識できるときだけだという。それが集団的な心の歪みから出てくもので、個人的なものではないと分かれば、相手個人に反応する気はなくなるだろう。そして、エゴに反応しないでいると、相手の気づき、相手の正気を引き出せる場合も多いという。

私のエゴも、相手のエゴも、そして私の歪みも相手の歪みも、社会や文化の歪みを反映して成り立っているのだろう。その歪みからいかに解放されるか。とりあえず、相手のエゴに反応しそうになったその瞬間、その背後の集団的な意識の機能不全に気づくことができるかどうか。私自身が気づき、意識的であるとき、相手もまた歪んだ衝動から解放されるの可能性があるのだとすれば、私自身が気づくことの重要性がます。

現実に人に激しく攻撃されたとき、相手のエゴに反応しないでいられるかどうか、今の私には自信がない。相手も私も、そのエゴと無意識が、社会や文化という網の目の結節点として成り立っていることを知っておくことはとても大切だ。人に攻撃されたとき、網の目の結節点としての相手のエゴに焦点を当てるのではなく、網の目全体を見渡す視点に立つことが重要なのだ。

この夏、瞑想の時間を比較的多くとれた。朝と夜の二回、40分くらいづつか。瞑想のときだけでなく、日常生活の中でも、エゴの思考が少しづつ相対化されていくのを願いつつ。それは、とりもなおさず、エゴという結節点への焦点付けから解放されていく過程でもあるのだ。

縄文への旅

2009年09月11日 | 普通の日記
8月18日に、青森の三内丸山遺跡を訪れた。以前から行きたいと思っていた遺跡だ。7月中旬には、所用のあと諏訪を訪れ、諏訪大社や近くの諏訪市博物館を見学して、縄文時代に関係する展示を見た。

青森に発つ前、途中で読む本を何にしようかと思いながら手にとった本を開いたら、最初に開いたそのページに「三内丸山遺跡」と「諏訪大社」の文字が目に入ったので、その本『山の霊力―日本人はそこに何を見たか (講談社選書メチエ)』(町田 宗鳳)を持っていくことに決めた。旅で見たことと列車の中やホテルで読んだ本の内容とが重なり、響きあって印象深かった。

相沢忠洋が旧石器を発見した群馬県の岩宿をずっと昔に訪れたことがあった。(その発見のいきさつは、『岩宿の発見―幻の旧石器を求めて (講談社文庫 あ 16-1)』に詳しい。)その時、おそらく10万年も前にこの地に暮らしていただろう人々と現代の自分とが、強くつながっているという不思議な感慨をもった。それ以来、縄文時代にも引かれるものを感じ続けていた。

三内丸山遺跡では、岩宿を訪れたときのような感慨はなかったが、実際にその地を訪れ、その大地に立ち、見て感じたことが、その後の自分に深いところで影響を与えていることを感じる。「六本柱建物跡」の穴も、復元された「掘立柱建物」の柱の太さも、数多く見た土偶の一つ一つの表情も、ますます縄文時代への想いを強くするものであった。

『山の霊力』は、タイトルからはやや分かりにくいが、山をめぐる著者独自の観点から原始から古代までの日本の精神史を論じた本だ。縄文人にとって山は生き物であり、神であったということが、印象深く語られる。さらに山に重ねあわされた動物のイメージは、大蛇(おろち)ではなかったかという。大蛇信仰は、やがて巨木信仰へと移行する。三内丸山遺跡のやぐら(六本柱)も巨木信仰のルーツか。大蛇の化身である山の巨木を切り、ふもとにつき立て、おろちの生命力を住む場所に注入しようとしたのか。諏訪の御柱祭は、そのような巨木信仰を残すものかもしれない。蛇体、巨木への信仰は、縄ひも(蛇の変形)への信仰につながる。神社のしめ縄は、二匹の蛇がからむ姿そのものだ。さらに縄文土器の縄目模様も、山、大蛇、巨木‥‥と連なる信仰に関係するのか。

19日は、岩手の花巻に立ち寄り、宮沢賢治記念館や花巻市の博物館を見学した。宮沢賢治もまた、古代人の心を持った詩人だった。記念館に飾られる『日輪と山』という賢治の大きな水彩画は、『山の霊力』の中でも触れられており、「あの構図こそ古代日本人が山に抱いていた宗教感情を如実に表現している」のではないかという。

ともあれ、これからも私は縄文時代への旅を続けていくことになるだろう。