瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

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主夫をしながら

2006年04月25日 | 瞑想日記
最近、週日はほとんど瞑想をできず、土日に少し長く行う程度だ。日常のサティは、職場への行き帰りの歩行時間(あわせて40分ほど)を中心に行っている。その他の時間は忘れがちだ。一日断食は、日曜日に行った。職場の昼食で復食となるが、玄米おかゆを作ることができないので、生の玄米をわかめスープに入れて少しやわらかくして食べた。

今日は、開校記念日で休み。朝夕各40分の瞑想。研究誌の原稿を少し書き進んだ。それ以外は洗濯物を干したり、掃除をしたり、買い物に行ったり、夕飯を作ったりと主夫に徹した。最近、瞑想が心地よいので、その影響を受けてか、家事の最中のサティも少しは続く。というより思考している自分を相対化し客観視することが多い。

平日もたっぷり瞑想の時間がとれればよいのだが。そのためには、夕飯を抜いたりなど食べる量を減らすのがいちばんよい。

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研究誌の連載のこと

2006年04月23日 | 普通の日記
依頼されて、サイト臨死体験・気功・瞑想の覚醒・至高体験事例集の個々の事例をいくつかの視点から取り上げていくという内容の連載を、ある研究誌でおこなっている。といっても毎号の連載ではなく、間隔があきがちだ。編集者に催促されてやっと原稿を送るということの繰りかえしである。昨日も電話をいただき、ようやく連載の続きを書く気になった。

これまで8回掲載したが、今後は瞑想や修行との関連からいくつかの事例を取り上げる予定である。次回は、禅宗の座禅がきっかけとなった事例が中心となるだろう。しばらく禅宗関係の本を読まなかったが、これをきっかけにいくつか読み直したり、新たに読んだりするだろう。ヴィパッサナー瞑想のささやかな経験から、かつてとは少し違った読み方ができるかもしれない。何か気づいたことがあったら、ここに書くこともあるだろう。
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意欲がない

2006年04月16日 | 普通の日記
◆意欲がない
しばらく記入を休んでしまった。とくに理由があるわけではない。それほど書くべきこともなかったというところか。ブログの更新にもホームページの更新にも、最近それほど熱心になれなくなっている。ホームページの方は、もう5ヶ月も更新していない。

昨日と今日、ある程度は時間はあったが、以前ほどどうしても、という気持ちにならない。また、次の本のため、あるいは雑誌の原稿を書いたり、ということにもあまり心を動かされない。かといって他にぜひこれをやりたいということもない。

他にとくにやることがなければ瞑想をしようかな、と思うが、これもそれほど熱意をもってということでもない。昨日も今日も、朝40分ほどか。今日は、就寝前にも瞑想をしようと思う。

一日断食も昨日も行わず、今日も途中で止めた。明日、仕事をしつつ行うつもりではあるが。瞑想をするには、断然、断食や少食がよい。

◆国家エゴ
ここ数日、ウェッブ版(日本語)の朝鮮日報と中央日報に関心をもってかなり時間を割いて読んでいる。中央日報の方は、それぞれの記事に読者がコメントを記入できるので、そのコメントもかなり読んだ。

新聞記事そのものの中に、日本を強烈に意識する韓国の人々の心が濃厚に反映されているのは、驚くばかりだ。日本の新聞がアメリカを意識する度合いと比べものにならない。常時これほどに日本を意識せざるを得ないことは、相当の心の負荷であろうと思う。個人の心理にたとえれば、相当の「囚われ」だと思うが、逆に言えば、そうならざるを得ない歴史を背負ってきたということだ。

そういう記事に対する日本人のコメントが、またまたかなり強い囚われ、執着に動機づけられて、延々と続くのだ。一面私の心のなかにも同様の心理が働いていると感じるのだが、限度を超えているものも無数にある。

エゴがそのまま国家と自己同一化している。そして強い差別意識を生み出す。日本人のコメントの中にその見本を見る思いだ。
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自分のあり方が問われている

2006年04月10日 | 瞑想日記
職場の方も、いよいよ本格的に動きだした。忙しいが、順調な滑り出しだ。何か失敗がなければよいがという不安もあるが、ともあれ、その時々、自分にできる最善を尽くしたい。

原点は、やはり去年の夏の瞑想合宿だ。つねにあそこで学んだことに帰って行きたい。その原点とは、以下のようなことだった。

「しかし、徹底的に捨てていく道は、身近な人間関係や社会関係においても開かれているではないか。「自我」の損得勘定に惑わされずに徹底的に家事や家族サービスに打ち込んでいくことは、そのままひたすら捨てていく道ではないか。「自我」の利害関心を超えたところで徹底的に職場の仕事に打ち込んでいくことは、そのまま捨てる道に通じているではないか‥‥。家に帰ったら徹底的に家族サービスをしよう。仕事をしよう。捨てていく道として。」

ただし、あのレポートの最後には、次のようにも書いた。

「ひとつ課題がある。それは仕事の面である。仕事の面では、この仕事は楽しいけど、できればあの仕事は避けたいというのがかなりある。今後どんなふうに変わっていくのか。それは、受動性に徹して、与えられたものをことごとく受け取っていく覚悟が、心の底でどれだけ定まっていくかにかかっている。」

最近は、この仕事は楽しいという範囲がかなり広がっている感じがする。仕事の一瞬一瞬において自分自身のあり方が問われている。
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「日本人」というアイデンティティ

2006年04月09日 | 心理
2月下旬のトリノ・オリンピックでの荒川静香選手の金メダル。そしてWBCでの日本の優勝。私も、それぞれ楽しんで見たし、うれしかった。しかし、これに関係して、ずっと書きたいと思っていたことがある。

こうした国際試合で、日本の選手が勝って我がことのように喜び、負けるとがっかりしたり、悔しがったりする心理がずっと気になっているのだ。自分自身の中にそういう心理が強くあるので、自分自身の問題として気になるのである。

結局は、「日本人」ということへの自己同一化が強ければ強いほど、日本人の勝敗に喜んだり、悲しんだりする度合いも強くなる。「日本人」の勝敗や優劣にこだわる度合いが強いほど、自己の勝敗や優劣にこだわる度合いも強いと言えそうだ。しかし、逆は必ずしも真ではない。自己の勝敗や優劣に強くこだわる人でも、「日本人」との自己同一化が弱い日本人なら、日本の勝敗には無関心かも知れない。

私自身は、たとえば国体での東京の勝敗には全く無関心だが、それは、ふだん「東京都民」ということに自己のアイデンティティの基盤を置くことがないからだろう。

一方、「日本人」ということは、私のアイデンティティの中でかなり中心的な位置を占めているようだ。日本の社会と文化の中で育ち、「日本人」に共通する日本語を話すことで、「日本人」は私の「自己」の重要な構成要素であるらしい。だからWBCでの日本の優勝についつい拍手して喜んでしまう。

しかし、私にはこの心理がかなり不思議に感じられる。そして気になる。どうして「日本人」ということにかくも自己同一化してしまうのか、もう少しつっこんで確認し、自分に納得のいくような言語的な表現をしてみたいのだが、まだあまり深めることが出来たとは言えない。

自己の勝敗や優劣にこだわるのはエゴだが、「日本人」としての勝敗や優劣に一喜一憂するのも、やはり同じエゴに根ざしている。同じエゴが「日本人」というアイデンティティに同一化した結果なのだ。

話しは飛躍すると言われるかもしれないが、戦争の心理的な背景の一つには、個人のエゴに根ざした国民エゴがあるのは確かだろう。

このテーマは、私の中でずっと重要なものであり続けるだろう。
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