瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

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現実を打ち破る夢

2013年12月24日 | 普通の日記
今年は、高校3年生を教えている。卒業文集の原稿の依頼が来たので、次のような文を書いた。文集が出来るのは卒業直前だろうが、偶然私の原稿を見たという若い先生が私のところへ来て、感動しましたと伝えてくれた。その原稿とは以下のようなものだ。

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「現実を打ち破る夢」

夢が現実によって打ち砕かれることはいくらでもある。しかし、夢が現実の壁を打ち破ることだってある。夢を持ち続けてこそ、それが現実になっていく。

どうすれば夢がそれだけの力をもつのか。「創意工夫」は、その答えの一つだと、今の私には思える。

私は、創意工夫が好きだ。たとえば勉強での創意工夫。勉強なんて嫌いと思うなかれ。知識をばかにする風潮が今の若者にはあるという。しかし、日本をここまで築いてきた先輩達がどれほどの情熱をもって新しい知識を吸収してきたか。だからこそ、日本はいち早く明治維新をなしとげ、めざましい発展を遂げた。

そんな大きな話でなくとも、君たちがこれから社会に出て、知識がどれだけ人生を豊かにするか、思い知るだろう。自分自身の創意工夫があれば、勉強は楽しくなる。これは私の実感だ。たとえば本を読みっぱなしにせず、小さなノートに大切なところを抜き書きする。あとからそれを数回読む。これだけで知識は確実に身につく。人との会話が楽しくなる。人脈が広がる。様々な意味で、それが君の人生を豊かにし、夢を実現する力になる。

自分なりの創意工夫をし続けることで、夢に現実を打ち砕く力を与えよう。

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その若い先生が、「いつかゆっくりお話しを聞かせてください」とのことだった。もし「創意工夫」のことを知りたいのなら、私はほかにどんな創意工夫をしているだろうと思った。ノートを取るというのはもう何年も続けている。読みっぱなしにすると残るものがあまりないが、小さなノートにメモを取り、気軽に持ち歩いて何回か読み直すと確かに頭にしっかり残る。

他にやっている主なことは、インターネットを自分なりに利用していることだろう。今は主にクールジャパンのブログの方で、日本文化関係の読んだ本については、その本に触れながら自分の論も展開するという形でアウトプットするので、その意味でも読みっぱなしにならない。

ツイッターは、インターネット上のニュースを小まめに見て、関心のあるもものは、かんたんなコメントをつけてツイートするようにする。ただ記事を読むより能動的な行為なので、これも自分なりの視点の世の中の動きを見る訓練になる。

ともあれ、私は自分なりの「創意工夫」をすることが好きだ。元来不器用な人間だが、少しずつ工夫を積み重ねることで、少しづつ改善していくというのが好きだ。それを続けているかぎり、たとえわずかでも毎年成長していくのを実感する。

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実践コミュニケーション

2013年05月05日 | 普通の日記
現在、埼玉県の高校で週2日半、「政治経済」と「国際関係」を教えている。これまで「現代社会」や「世界史」を教えてきた蓄積があるので、それらの経験を活かしながらともに楽しく教えている。時間的な余裕があるので準備に充分時間を使ってあれこれ工夫ができ、自分の勉強にもなるので、教えることがすごく楽しい。それに最近の高校生は、全体としてすごく落ち着いてきていると感じる。これについては追って書いてみたいが、ともあれ授業でほとんどストレスを感じない。

また一昨年から都内のある短大で「実践コミュニケーション」という講座をもっている。これは週に一回、それも後期だけなので本年度はまだ始まっていない。講座名通り、ほとんど実践というか演習を主とするものだ。その内容については以下のブログに少し実践内容を報告してある。→実践コミュニケーションの講義をめぐって

これもある程度、演習内容の蓄積ができてきたので、本年度はさらに改良して楽しくできそうだ。

本年度、新たに取り入れてみたいのは、ロールプレイ的な要素を取り入れた演習だ。これまでもペアを数分ごとに次々と変えながら「雑談力」を鍛える演習をしたりしていたが、本年度はこれをさらに発展させて、たとえば一方が幼稚園児や小学校低学年の子どもの役割をおこない、子どもとコミュニケーションをとる演習をしたり、さらには一方が老人の役割を演じ、老人とのコミュニケーションの演習をしたりすることを考えている。子ともとのコミュニケーションのロールプレイでもいくつかのバリエーションが考えられる。たとえば落ち込んでいる子どもとのコミュニケーションのロールプレイは、次のステップへの橋渡しとなるだろう。

これらをウォーミングアップとし、最終的には一方が何かでひどく落ち込んだ人の役割を演じてもらう。その場合、会話の内容はフィクションでよいが、自分が落ち込んだ時の状態を思い出しながら実感を込めてロールプレイをしてもらう。こうして落ち込んでいる相手との深いコミュニケーションをとる演習をするわけだが、一方落ち込んだ人を演じる人も、ある程度自分の体験をもとにするので、期せずして自分の内面に直面する体験にもなる。

これまでの演習の実践から、学生たちは表面的なコミュニケーションの演習にはほとんど抵抗なく入ってくるが、少し個人の悩みなどに話題を深めて演習をしようとすると、あまり話が深まらない傾向が強かった。しかし、以上のようなロールプレイをしながら、段階的に深いコミュニケーションに進んでいけば、学生もあまり抵抗がないのではないか。

落ち込んだ人を「演じる」という形で、しかも自分の落ち込んだ時の状態を思い出しながら演じるので、あくまでもフィクションとして語りながら、しかも自分の体験に根ざして語ることになる。相手の話を傾聴する側も、どのようにすれば相手の話により沿いながら聴けるか、現実の場面に近いかたちで体験し、学ぶことができるだろう。

これはまだ演習として実際に試してはいないので、学生にとって意味のある演習になるかどうかは分からないが、ともあれ、今からこうして演習のいろいろなパターンを工夫しておくのが、すごく楽しい作業になっている。いまから後期の演習が始まるのを楽しみにしている。
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『宮廷画家ゴヤは見た』

2013年03月30日 | 普通の日記
ミロス・フォアマン監督の「宮廷画家ゴヤは見た」(2006年)という映画を見た。スペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤ(1746~1828)の目を通して、ナポレオンの侵攻前のカトリック教会の腐敗や、ナポレオン軍の蛮行、スペイン独立後の歴史の激変に翻弄される人間たちを描く。

この映画をブログで取り上げる気になったのは、映画のテーマがここ数年の私の関心にかなり重なるからだ。そのためもあって久しぶりに充分に見ごたえのある映画だった。以下に書くのは映画そのもののレビューではなく、私自身の関心と重なる面からこの映画をどう見たかについての論考である。

この何年かは、クールジャパン★Cool Japanというブログの方に力を入れている。日本文化のユニークさを8つの視点から考察しているのだが、この映画とかかわりがあるのは次の3視点だろう。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。

(7)以上のいくつかの理由から、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。

(8)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった。

(以下あらすじ、ネタバレ注意)
18世紀末、フランスは革命の動乱の最中であったが、スペインはまだ絶対王政と教会の支配下にあった。宮廷画家ゴヤは、富裕商人の娘イネスを壁画の天使や肖像画のモデルとしていたが、彼女はちょっとしたことで教会の異端審問にかけられてしまう。異端審問は、神父ロレンソが教会の権威を取り戻すため仕組んで再開したのだが、たまたま居酒屋でブタを食べなかったイネスは、ユダヤ教徒ではないかと疑われ、拷問のすえ事実に反し自分がユダヤ教徒だと告白してしまう。

ばかげた理由で異教徒と疑われ、密室でおぞましい拷問に晒される恐怖がひしひしと伝わる。魔女裁判にも似た愚かしい審判が、フランス革命の前夜においてさえ、キリスト教の名の下にスペインで行われていたのである。宗教がこのような狂気を内包し、罪なき人々に地獄の苦しみを与えるという現実を、私たち日本人はそれほど経験していない。

神父ロレンソは、イネスの父親に追い詰められて娘を救うと約束するが、逆に牢獄で苦しむイネスを犯す。その上、イネスの父親と取引したことが教会に知られてしまい、逃亡する。

ところがロレンソは15年後、スペインに侵攻したナポレオン軍とその傀儡政権の高官となってマドリードに姿を現す。今や彼は、かつての信仰をかなぐり捨て、フランス革命の理念の信奉者となっている。革命や解放、自由や平等、博愛といった理念は美しいが、現実のナポレオン軍はスペインに対する解放者であるどころか、残虐な侵略者であり征服者であった。映画はそのようなナポレオン軍の本質を短いが印象的なショットで描いている。イネスの家族もこの侵略の最中にすべて殺される。

一方フランス軍は解放者らしきことも少しは行っていた。異端審問を行った神父らを裁き、異端審問で牢獄に拘束されていた無実の人々をすべて解放したのだ。その裁きの中心に、かつて異端審問の復活を提案した神父ロレンソがいた。彼は自分が仕えたグレゴリオ神父に死を宣告する。

牢獄から解放された人々の中にイネスがいた。かつての天使のような面影はなく、やつれた痛ましい姿でよろよろと街をさまよう。自分の家にたどりつき、そこで家族の死骸を発見する。ゴヤの家にたどりついたイネスは、牢獄で起こったことをゴヤに伝える。ゴヤは当初気づかなかったのだが、その時すでに彼女は精神を病んでいた。牢獄で神父ロレンソの子を産んだが、すぐに赤子と引き離され、赤子を奪われた苦痛もあって正気を失っていたのだ。

やがてイギリス軍が上陸しスペイン軍とともにマドリードに向かったとの知らせを聞いたロレンソは、フランス軍とともに国外に逃亡しようとするが、途中で見つけられ連れ戻される。立場は逆転し、グレゴリオ神父がロレンソを裁くことになるが、改悛すれば死を免れることを宣告する。これまで保身のために自ら信奉する理念を何度もかなぐり捨ててきたロレンソだったが、改悛を拒むことによって自らの矜持を守り、民衆の罵声を浴びながら死を選ぶ。

イネスは、混乱するマドリードの路上にとり残された見ず知らぬ赤子を見つけ、奪われた自分の子どもを取り戻したと喜ぶ。死刑執行を見守る群衆の中でイネスは、死の恐怖におののくロレンソに、見つかった自分たちの子どもを見せようとして叫ぶが、その直後にロレンソは処刑される。

ロレンソの遺体を運ぶ荷車に寄り添うのは、自分から奪い去られた赤子と、赤子の父とを取り戻した幸せに満ちたイネスであった。近所の子供達がイネスとロレンソを囲うようにして歌い踊り、荷車は、あたかも天に昇るかのように坂道を遠ざかっていく。

この映画は、日本の歴史がほとんど経験しなかったいくつかの歴史的な背景のなかで展開される。まずは国境を越えて繰り広げられる、異なる民族相互の熾烈な戦い。そうした戦いの結果、異民族に支配されたり、異民族を支配したりという関係を、ヨーロッパ大陸は数えきれぬほどに繰り返した。この映画もそうした歴史の一部が切り取られているが、日本の歴史は、異民族による暴力的な支配を経験していない。

民族と民族の戦いは同時に、異なった宗教やイデオロギー相互の戦いでもある。大陸では、キリスト教とイスラム教、カトリックとプロテスタントとの戦いなどが延々と繰り返されてきた。映画では、スペインのカトリック教と、ナポレオン軍のフランス革命の理念との対立が描かれているが、フランス革命の理念は、反キリスト教的な「理性宗教」という一種の信仰という側面ももっている。ロレンソは、カトリック教会から追われたが、フランス傀儡政権の高官として支配者となってからは、かつて自分も率先して行った異端審問の罪でグレゴリオ神父に死の宣告を与える。しかし状況が急変し、あやうく死を免れたグレゴリオ神父が、今度はロレンソを宗教裁判にかけて処刑することになる。人々の運命の中に、イデオロギーの対立が凝縮されたような物語展開である。

日本の歴史は、激しく大規模な宗教戦争をほとんど知らない。織田信長の比叡山焼き討ちや、島原の乱などがあったにせよ、異なる宗教相互の戦争というよりも、支配者の都合による宗教弾圧である。異民族の侵入という危険にさらさられず、また国内にほとんど異民族を抱えていなかった日本は、強力な宗教やイデオロギーで国内を一元的に支配する必要もなかった。仏教や儒教によるイデオロギー支配があったにせよ、それは大陸にくらべ不徹底なものであった。まして他民族による宗教やイデオロギーの押し付け、他民族による自分たちの信仰の弾圧などは経験していない。

フォアマン監督は、米国への亡命前、祖国チェコの共産党政権時の体験とスペイン異端審問が重なり、映画化を決意したという。宗教やイデオロギーと、それに翻弄される人間というテーマは普遍的であるが、一方で日本の歴史と文化は、宗教やイデオロギーとのかかわり方が、大陸、とくにヨーロッパ大陸と比べるとかなり特殊であった。その比較に思いを馳せるのは、映画のテーマとは外れるが、私自身はそのような関心が強烈であるため、そのような視点からもこの映画をいっそう興味深く見ることができた。
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実践コミュニケーションの講義、第五回目まで

2012年01月02日 | 普通の日記
実践コミュニケーションの講義内容と学生の感想については、友人と運営している次のブログに、第5回目までの内容をアップした。この5回目や6回目あたりまでは、学生たちのワークの様子や感想からも、学生たちが他の参加者たちとワークというかたちでコミュニケーションをとることに、深い意味を感じていることが見て取れた。しかし、その後、中盤ではやや低調になる。その様子も今後アップしていく予定である。

忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす
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新海誠『秒速5センチメートル』と至高体験

2011年12月31日 | 普通の日記
◆新海誠『秒速5センチメートル』(2007年)

今日は、このブログの一連のテーマとは少し違うが、この作品のレビューを書きたい。新海誠は、宮崎駿の次の時代を担うほどの才能をもったアニメ作家、映画監督ともいわれた。その息をのむような映像の、詩的な美しさとストーリー展開の魅力は、『ほしのこえ』(2002年)や『「雲のむこう、約束の場所」』(2004年)のときから目立っていた。

とくに2002年公開の『ほしのこえ』は、監督・脚本・演出・作画・美術・編集などほとんどを一人で行った約25分のフルデジタルアニメで、自主制作としては信じられないほどクオリティーの高い作品であった。この作品は、第1回新世紀東京国際アニメフェア21公募部門で優秀賞を受賞し、実行委員会委員長の石原慎太郎都知事から「この知られざる才能は、世界に届く存在だ 」と絶賛を浴びた。

『秒速5センチメートル』は、前二作のようなSF的な要素は消えたが、映像はさらに美しく、物語は詩情にあふれている。

この作品の本格的な評としては、前田有一の超映画批評でのレビューをお勧めしたい。私は、前田有一や他のさまざまなレビューが取り上げていない視点からこのアニメを語ってみたい。

作品は、ある少女を思い続けた男の十数年間を三話構成で綴っている。第一話「桜花抄」は主人公の遠野貴樹と同級生・明里の小学生時代の出会いから始まる。 転校を繰り返した共通の経験を持つ二人は、互いに思いを寄せ合うようになる。明里が、東京から栃木の中学校に進学してからも文通を続けていたが、その後、鹿児島への転校が決まった貴樹は最後に明里に会うため、栃木県の小山の先まで行く決心をする。しかし彼の乗るJR宇都宮線は記録的な豪雪に見舞われ、待ち合わせの駅に着いたのはすでに深夜だった。 明里はその駅の待合室で一人待っていた。

二人は雪の中を外へ出る。あたりは静寂につつまれ誰もいない。大きな樹の下に二人だけがいる。その時の貴樹のモノローグ。

「その瞬間、永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか分かったような気がした。13年間生きてきたことのすべてを分かち合えたように僕は思い、それから次の瞬間たまらなく悲しくなった。明里(あかり)のそのぬくもりを、その魂をどのように扱えばいいのか、それが僕には分からなかったからだ。僕たちはこの先もずっといっしょにいることは出来ないとはっきり分かったからだ。‥‥‥でも僕をとらえたその不安はやがてゆるやかに溶けていき、あとは明里のゆるやかくちびるだけが残っていた。」

この時、貴樹は一種の「至高体験」をしたのだ。「永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか分かったような気がした」という言葉がそれを表している。そしてこの「至高体験」に、彼はその後ずっとこだわり続けることになる。(「至高体験」が何かについては、次のサイトを参照されたい。「覚醒・至高体験の事例集」)

第二話は「コスモナウト」。遠野貴樹は種子島の中学に転校し、その地の高校の三年生になっていた。貴樹をひたすら想い続ける同級生・澄田花苗は、貴樹が卒業後は東京の大学へ行くと知り、自分の想いを貴樹に告げようと決心する。それは、いつも二人で帰る畑中の道でのことであった。彼女が逡巡していたその時、種子島宇宙センターからロケットが発射され、空を割り裂くような轟音と軌跡を残して宇宙に旅立っていく。二人は、ただ黙ってそれを見つめる。

「‥‥ただ闇雲にそれに手を伸ばして、あんな大きな塊を打ち上げて、気の遠くなるくらい向こうにある何かを見つめて。‥‥‥遠野君は他の人と違って見える理由が少しわかったきがした。そして同時に遠野君は私を見てなんていないんだということに私は気づいた‥‥‥。」

ロケットの軌跡を見ながら、同時に花苗は自分の失恋に気づく。遠野君は、気の遠くなるくらい向こうを見つめていて、自分なんか見ていない。それに否応もなく気づいてしまった。では、貴樹が見つめていた宇宙のような遠くとはなんだったのだろうか。それは、一度垣間見た「永遠とか心とか魂とかいうもの」の在りかではなかったのか。「至高体験」ではなかったのか。

ロケットの噴射が描く、大空を引き裂くような美しい軌跡を二人は黙って見続ける。それは、二人の世界の分離を暗示するかのように残酷なほどに美しく空に描きこまれていく。

第三話は映画のタイトルとなった「秒速5センチメートル」。貴樹は、日々仕事に追われ、疲れ果てていく。3年間付き合っていた女性からも、彼の心が彼女に向いていないことを見透かされてしまう。

「この数年間、とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのかも、ほとんど脅迫的ともいえるようなその思いがどこから湧いてくるのかも分からずに僕はただ働きつづけ、気づけば日々弾力を失っていく心がひたすら辛かった。」

「貴樹の心は今もあの中学生の雪の夜以来ずっと、彼にとって唯一の女性を追い掛け続けていたのだった…」(wikipedia)というのが、一般的な解釈だろう。しかし、「届かないものに手を触れたくて」、しかもそれが何なのかも分からず、その思いがどこから湧いてくるのかも分からないというのはどういうことだろうか。それが明里だったなら明里だと、彼にもはっきり分かったはずだ。彼が求めていたのは、明里というよりも、明里との間で一度限り体験した「永遠とか心とか魂とかいうもの」の在りかの秘密だったのではないか。それはあまりに幼き日に体験した魂の高みだったからこそ、失われ、忘れ去られて彼を脅迫的に突き上げる得体のしれない思いにまでなっていたのではないか。

私には、遠野貴樹という主人公の名前も、初恋の少女の明里という名前も、雪の夜の「至高体験」を暗示しているように見える。そして、遠くの高い樹(魂の高み)を見つめている遠野君は、私のことなんか少しも見ていないと、花苗は気づいた。空の高みを目指すロケットが打ち上げられるその光景を見ながら。
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