瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

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プラットホームのサティ

2005年06月29日 | 瞑想日記
帰宅時、自転車がパンクしていたので、駅まで自転車を引いて歩く。その間ずっとサティ。来ては去る無数の感覚に次々とサティが入っていく。乗換駅で5分ほど待ち時間があった。立ったままっサティ。またふいに例のかすかな悲しみが来る。悲しみはどこかで三人の子どもたちに関係しているような気もした。三人が、無明の人生の中で出会って行くだろう苦しみ‥‥そこに触れると私の中に悲しみが立ち上がる。

私も無明の人生を生きているけど、ここまではそこそこ幸せに生きて来た。しかし、この世に投げ出された無明の人生は、すべてどこかで苦しみや悲しみを予想している。その苦しみを子どもたちが苦しむだろうことへの悲しみ。そういう「いのち」であることへの悲しみ‥‥。

正月の瞑想合宿中、ふいに自分の「求める心」の愚かしさが分かってしまったことがあった。笑い出したいような解放感があった。しかし、それは一瞬のことで、執着するいつもの自分にすぐに戻った。ただ、その一瞬の記憶はどこかに残っていていつか大事なはたらきをするような気がした。これも立ちながらサティしていたときの感覚だった。

帰宅後すぐ、少し体をほぐしてから瞑想。20分くらいか。帰宅途中からのサティの影響か、静かな瞑想であった。

最近の小食の件は、明日にでも。
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宿便は?

2005年06月26日 | 瞑想日記
昨日はその後、結局寒天等は食べなかったが、小さな黒砂糖の塊を二つ、野菜ジュースをコップで二杯ほど飲んだ。空腹感は夕方になってわずかにあったが、何かし始めれば忘れてしまう程度だ。調子はいたってよく、ふらふらしたりはまったくない。

一日断食を始めた一回目、二回目ごろはエネルギー切れになるのではないかと慎重だったが、そういう心配はまったくないことが分かった。快適にごく普通の生活でまったく問題ない。

読書日誌に方に取り上げた、甲田光雄の『朝食を抜いたらこうなった』では、朝抜きや断食で病気が治っていく過程で様々な好転反応(一時的な症状の悪化)が出ることが多くの事例で紹介され、それへの対処法が詳しく書かれている。私の場合は、とくに病気があるわけではないのでとくに問題は出ないが、実践に関心のある人はぜひ読んでおいてほしい。

この本で印象に残ったのは、甲田療法で体質が改善され病気が快方に向かう転機で多いのは、やはり大量の宿便が出ることのようだ。私の場合、便通は非常に良くなったが、信じられないような大量の宿便が出たことはまだない。宿便が出るのを楽しみにしている。今午前9時過ぎだが、今日これからもしかしらたという期待がある。

今朝の体重は、58.8キロだった。起きてすぐ40分ほど、瞑想。しばらくしてもう止めようかと思う時があった。そんなときは、その気持ちにサティする。気づくと姿勢が悪く背中から首に疲れがある。これがもう止めたいと思ったひとつの理由のようだった。
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一日断食7回目

2005年06月25日 | 瞑想日記
◆今週の食事のことなど詳しく
今、午後2時だが、午前中すでに2回の便通があり、それぞれかなりの量だった。腸がすっきりしている。すべて出たという感じではない。朝はお茶を2杯飲んだが、それ以降は天然水を飲んでいる。今日は暑いが、以降はできるだけ水だけで行こうとと思っている。午前中だけでも掃除や買い物で汗をかなりかいているので、水は大量に飲み続けよう。

今朝の2回の便通で感じたのだが、先週の状態も含めて判断すると排泄機能が高まっているのは確かなようだ。今後もかなり変化が起こってきそうな気がする。そこで、体の変化および何をどれほど食べたかを詳しく記録したほうがよいと思うようになった。自分のためにも、小食に関心を持つ人のためにも。

まず今週から出勤前は、天然水一杯であった。午前中は野菜ジュースやお茶でコップにして数杯の水分をとっている。午後は、それにコーヒーやココアが加わる。しかしコーヒーは最近あまり飲んでいない。昼食は、野菜サラダ数種(400グラム弱)と「フルーツグラノーラ」を食べる日と、「フルーツグラノーラ」だけで済ます日が交互にあった。先週から始めた変わったこととしては、昼に玄米を生で食べ始めたことだ。量は手のひらに乗るぐらいだ。ウエットタイプの玄米は、生でもよく噛めば充分食べられる。といっても二日おきぐらいだったが。その効能はいずれ書くことがあるかも知れない。

夕食は、家族とともにふつうにとっている。自分の感覚で少し食べ過ぎたかなと思うことが多かった。しかし体重そのものは減り続けている。先週、土曜の朝は60.8キロぐらいだったと思うが、今朝は、60.2キロである。便が出た後は、59:8キロである。ちなみに体脂肪率は19。

便通は、先週は日に一回であった。昨日腹にかなりガスがたまった感じがあった。帰宅後、ヨーガのガス抜きのポーズなどですっきりし、その後2回便通があったから、昨日も3回便通があった。そして今朝さらに2回の便通があったわけだ。
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サティ、めんどう

2005年06月24日 | 瞑想日記
一日調子がよかったのだが、帰宅のころになったら急に疲労がやってきた。けったるい感じで自転車に乗った。今日はサティはめんどうくさいなと思った。こんな日はだらだらと雑念を追いながら行くのが楽しい。と思った瞬間、その気持ちをサティし始めていた。「めんどうくさい、と思った」、「疲労」‥‥。

サティなんかしたくないときでも、「したくない」とサティすることは苦ではないし、そのめんどうくさい気持ちにそってサティしていけばいいのだから、気楽なものだ。要するにどんな状態や気持ちでも、まずはその状態にサティすればよいのだ。

電車の中で『シャンカラ』を開いた。理論的な考察があまり胸に響いてこない。眠くなった。目を閉じてサティをし始めた。かすかな体の感覚の変化やイメージや思考の断片にサティが入っていく。その合間合間に「悲しみ」というサティが入る。心は確かにかすかな悲しみを感じている。それが、どこから来るのかはわからない。
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「私」は何?

2005年06月24日 | 瞑想日記
◆「私」は何?
Mercyさんの Mercy Blog をほぼすべて読ませていただいている。最近ふたつ印象に残った文章があった。

ひとつは、2005/06/21 (火) 付けの「わたしは何処に?」という記事。

『わたしはこの身体だと思っている人、多いんじゃないかな。

わたしはこの身体でしょうかね。

手のなかにわたしがいるでしょうか?

足のなかにわたしがいるでしょうか?

胃や腸、肝臓、心臓にわたしがいるでしょうか?

いや頭がわたしだと言う人がいるかもしれませんね。脳みそがわたしですか?

あなたは脳みそなんですか。?

わたしとはいったいなんなんでしょう?

あれこれ考える心がわたしでしょうか?

だとすると思考がでてこない熟睡中、わたしはどこへいっちゃんたんでしょうか?

わたしはいなくなったんでしょうか?

熟睡中、行方不明ですね(笑)

わたしはいったいどこにいて、誰なんでしょう?』

なるほどな、と思う。逆にこの文章をきっかけとして、私は私を何であると理解し、どのような私に執着しているのかと。確かに自分の脳みそを見せられて、「これがお前の正体か」と聞かれれば、ハイとは答えられない。でも、私は自分のからだ全体を自分の体だと思い、それに執着している。では、自分の体に執着する私は、どこにいるのだろうか。脳みその中にいるのか。脳みその神経インパルスの活動が私なのだろうか。いやいや‥‥。

では、やはり私は、思考によって生み出された幻影なのだろうか。熟睡中は、確かに思考はなない。しかし、私には、「私」という記憶があって、その「私」は、睡眠中も潜在意識の記憶として行き続けている。

それにしても、からだを超えたこころが「私」なのか。では、そのこころとは? 

うーん、問いは果てしなく続いていきそうだ。

◆もう一つ

『修業したから、頭が輝くわけではない。

*1瞑想したから、ハートが開くわけでもない。

「わたしは誰か」と問いかけても、マントラを何千万回唱えたとしても、

悟れるわけではない。

それらは恩寵と縁による。

それが、ハートを一瞬に開き、

「わたしは誰か」を一瞬に理解させてくれる。

大切なのは、熱意、穏やかさ、尊敬の念だと思うよ。

*1:瞑想等が必要ないということではない。』

この言葉もまた、こころに深く留まるだろう。
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