瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

中学校学習指導要領・道徳編の内容項目・再構成のための一試論(2)

2015年06月29日 | 瞑想日記
引き続き文部科学省の中学校学習指要領・道徳編に関する小論を掲載する。小論中で24項目とあるのは、リンク先にあるような、中学校での「道徳の時間を要として学校の教育活動全体を通じて行う道徳教育の内容」を指している。リンク先を参照されたい。(なお、小論中で図への言及があるが、技術的な問題で、図の掲載は数日後になると思う。ご了承いただきたい。)

中学校学習指導要領・道徳編の内容項目・再構成のための一試論

[5] 内面へ深まる視点
次に二つ目の「内面に向かって視野と気づきを深めていく視点」を検討しよう。「人間が、道徳的、精神的に向上し、成長していく力を持っているという認識が、道徳教育の前提となっていることに異論はないだろう。では、ある生徒が、以前よりも「成長した」という場合、そこにどのような変化が起こっているのだろうか。もちろん、24の内容項目のそれぞれにおいて変化の内容は違うとも言えるし、個々の生徒もそれぞれも個性に即した変化・成長を遂げていくのだともいえる。
しかし「四つの視点」や個々の内容項目が相互に関連しあっている以上、変化・成長していくプロセスに何らかの共通の構造が見て取れる面もあるはずである。そのプロセスを簡潔に表現するなら「自己中心性からの脱却」といえるのではないか。「視野と行為の領域を外界へと拡大していく視点」でも、狭い自己中心性や「自己の属する集団」中心性から脱却していくプロセスが、大筋において道徳的・精神的な成長のプロセスに重なることを示唆した([4])。「内面へ深まる視点」においても「自己中心性からの脱却」が、各道徳項目における変化・成長の一つの目安となるであろう。

「自己中心性」とは、自分の利害関心を通してしかものを見ることができず、行動もできない状態である。人間は、多かれ少なかれ自己中心的な見方をし、自己中心的な行動をしている。極端に自己中心的であるとき、周囲の現実は自己中心の見方で極端に歪められ、その歪んだ現実認識に基づいて行動するので、人や社会とのかかわりも軋轢が多くなる。それは、道徳的な価値の実現とはかけ離れた状態である。人間の内面的な成長は、自己中心性からどれだけ抜け出しているかどうかに関係しているといえるだろう。

人間は、多かれ少なかれ自己中心性を保持しながら、周囲の人々や社会との関係でそれを制御しつつ、社会生活を送ることができる。自己中心の見方と、他者や自他の属する集団の見方とを調整し、一定の妥協点を見出すという方向である。その調整の過去における蓄積が何らかの形をなしたものが、「礼儀・きまり・法」などだともいえよう。それらを重んじる行動は、道徳性を考える上での重要な一側面である。

一方で人間は、「内面に向かって視野と気づきを深めていく」方向で、自己中心的な見方から徐々に解放されていく可能性ももっている。人間は、多かれ少なかれ自己中心的に現実を歪めて見ているが、その歪みは限りなく少なくなっていく可能性である。現実が現実として歪みなく見られ、受容される方向への可能性である。

それは同時に、「自己の在り方のより深い自覚」のプロセスであり、内面への気づき・洞察のプロセスである。今まで自覚していなかった利己心・自分の利害へ極端なとらわれ・執着心などが自覚され、意識化されればされるほど、自己中心的な見方から解放されていく。自己の内面の現実が、歪みや抑圧なしに自覚され、受容されていくプロセスである。自己の内面の、より歪みのない認識に基づいた行動は、外界の現実認識も歪みがより少ないため、周囲とより調和するようになる。人間の道徳的、精神的な成長のプロセスは、内外の現実を自己中心的な歪みからどれだけ解放されて受け止められるかに関係するといってもよいだろう。内面への自覚と気づきのプロセスが深まるほど、行動も、道徳的により調和したものとなるのである。

[6] 「人間の力を超えたもの」と「自己の向上」
①「人間の力を超えたもの」
 ここからは図Bを参照しながら考えたい。まず「内面に向かって視野と気づきを深めていく視点」を示す三重の円の中心に「人間の力を超えたもの3(2)」が置かれていることについて説明したい。3(2)の文言は「自然を愛護し、美しいものに感動する豊かな心をもち、人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深める」であった。この文言を読む限り、「人間の力を超えたもの」は自然との関連で語られているようにも見える。とすればこれは、内面の問題というよりも外界に関するものではないかという疑問が出て当然だろう。

しかし一方、人間が自然の一部であることは紛れもない事実である。むしろ人間が自然と一体であり、自然の一部であるという自覚こそが、環境破壊に直面する現代に生きる私たちに強く求められている。私たちの命の営み、鼓動や脈拍を素直に感じるだけでも生命現象の不思議、「人間の力を超えたものに対する畏敬の念」は感じられる。
「自然の生命を感じ取り、自然との心のつながりを見出す」のは、私たちの心である。私たちの生命や心が自然の生命や心とつながっていることの自覚が重要である。自然と生命とつながる自分の生命に「畏怖の念」を感じる心は、現代の子供たちの命をまもるという視点からもとりわけ大切であろう。

さらに「人間の力を超えたもの」へ気づきは、「内面に向かって視野と気づきを深めていく」方向の最も深い部分にかかわっている。内面に向かう気づきのプロセスは、自己中心的な見方、自我やその利害関心への極端なとらわれ・執着心などに気づき、そこから解放されていくプロセスであった。そのプロセスの最深部においては、自我の力の限界が自覚され、「人間の力を超えたもの」への感受性に開かれていく。「人間の力を超えたもの」への「畏怖の念」は、外界の自然に接するときだけではなく、自己の内面に秘めたれた「成長する力」を実感するときにも生じるだろう。図Bの中心部で(自我の力を超えたもの)という表現を付け加えたのは、以上のような理由に基づく。

ともあれ、私たちの心、内面の世界を深く洞察し、「自己の在り方を深く自覚する」ことは、「人間の力を超えたもの」が私たちのうちにも秘められていることの発見につながるのだ。こうした「内面化」の視点から24の内容項目のいくつかを整理すると、項目相互にどんな構造が見えてくるかを探っていこう。

②「自己の向上」と「生きることの喜び」
図Bの下から中心に向かって矢印が伸び、その線上に「自己の向上」と「生きる喜び」という項目が置かれている。それぞれ「1(5)自己を見つめ,自己の向上を図るとともに,個性を伸ばして充実した生き方を追求する。」と「3(3)人間には弱さや醜さを克服する強さや気高さがあることを信じて,人間として生きることに喜びを見いだすように努める。」という内容項目に対応する。これらの項目は、同心円のどこかの領域に属するものではなく、矢印の向かうプロセスそのものにかかわるものとして図示されている。

まず「自己の向上」とは、自分の学力・技能・才能などを高めるという意味もあるだろうが、「自己を見つめ」、自己の人間性や道徳性を向上させるという意味もあるであろう。それらが一体となって自分の向上が実感されるときに「充実した生き方」・人生も実感される。

一方、「人間には弱さや醜さを克服する強さや気高さがある」という表現は、今どんなに弱さや醜さに満ちていようと、人間は精神的に成長する力を秘めているということを示唆している。それは、人間が限りなく向上する力を秘めているということであり、その向上し、成長するプロセスにこそ、「充実した生き方」や、「生きることの喜び」があるということである。

もちろん、この成長するプロセスは、「自己中心性からの脱却」であるともいえる。内面の弱さや醜さを自覚し、受容することによって、そこから解放されていくプロセスである。
また、弱さや醜さを克服して成長しうるところに人間の「気高さ」があるといわれるときの、「気高さ」という表現に注意されたい。自己中心的な人間が、自己中心性から解放される可能性を秘めているのは、人間の心が本来、その深奥で「気高いもの」「崇高なもの」(3の表題)、「人間の力を超えたもの」に支えられているからだともいえよう。その意味で、円の中心に向かう矢印は、個人の内面的な成長の方向を示すと同時に、「自己の在り方を深く自覚する」、自己がよって立つ基盤をより深く自覚する方向を示しているともいえよう。
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中学校学習指導要領・道徳編の内容項目・再構成のための一試論(1)

2015年06月27日 | 瞑想日記
ある友人が、道徳教育の研究をテーマの一つとしており、横浜の中学校の先生と小さな研究会を長年行っている。私も、10年ほど前にその研究会に誘われ、2・3ヶ月に一回のペースで会合を持っていた。道徳教育そのものに特別の関心があるわけではなかったが、テーマ以外の様々な話題も楽しく、次第に深く関わるようになった。

最近、様々ないきさつの中で、その研究会に発表する小さな論文を書いた。
文部科学省の中学校学習指要領・道徳編に関するものである。この小論の後半は、とくに私が長年探求して来たテーマにも関係するので、この場にも数回に分けて掲載したいと思う。小論中で24項目とあるのは、リンク先にあるような、中学校での「道徳の時間を要として学校の教育活動全体を通じて行う道徳教育の内容」を指している。リンク先を参照されたい。

中学校学習指導要領・道徳編の内容項目・再構成のための一試論

[1]はじめに
 周知のように文部科学省の中学校学習指導要領・道徳編は、生徒の道徳性を「四つの視点」からとらえ、その内容項目を分類整理している。その内容の全体構成は、内容項目の相互の関連性や発展性を示す一つの「全体的な視点」を提供するものであろう。それは、中学校の道徳教育を考え、また実践していくうえで基盤となる重要な視点である。
 一方、これらの内容項目を分類整理し、構成する「全体的な視点」は一つである必要はない。道徳教育を実践する現場から、あるいは道徳教育の発展を願う様々な分野から、指導要領に提示された内容項目の関連性や発展性を示す、様々な「全体的な視点」が提示され、議論されることはきわめて重要なことである。それは個々の内容項目を複数の視点から検討し理解を深めることを可能にする。そうした議論の活発化は、道徳教育の考え方を深め、発展させ、実践の質を向上させるうえでも欠かせないであろう。本論は、そうした「全体的な視点」の一つを提示するささやかな試みである。

[2]「全体的な視点」を検討する意味
 文部科学省の中学校学習指導要録解説・道徳編では、「四つの視点」が相互に深い関連をもつことが指摘されている。たとえば「1及び2の視点から自己の在り方を深く自覚すると、3の視点がより重要になる。そして3の視点から4の視点の内容をとらえることにより、その理解は一層深められる」(p37)というような相互関連である。
 とするなら、各視点のそれぞれの内容項目が、「四つの視点」という枠組みを超えて個々に深い関連をもつことも当然ありうるであろう。そこで本論で試みたいのは、「四つの視点」とは違う角度からひとつの「全体的な視点」を構成し、その視点から個々の内容項目の関連性を見直すことである。こうした試みによって、全体構成についての複眼的な視点が得られれば、個々の内容項目のとらえかたも多面的で深い議論や見方が可能になるかもしれない。そうした多様な視点の一つを検討したい。

[3]「二つの視点」からの再構成
 本論では、「四つの視点」を参考にしながらも、若干異なる「全体的な視点」を、図を中心として視覚的に提示し、そこから24の内容項目の分類整理、再構成の道を探る。その「全体的な視点」は「二つの視点」からなる。一つ目の視点は、「自分自身」を中心として外界へと視野と行為の領域を拡大していく視点である。二つ目の視点は、「自分自身」の内面に向かって自覚・気づきを深めていく視点である。この二つの視点から24の内容項目を整理しなおすことよって、それぞれの項目とその関連性を見る「いろいろな(多様な)ものの見方や考えかた」の一つが提示されるであろう。

[4]外界へ拡大する視点
 まず、一つ目の「視野と行為の領域を外界へと拡大していく視点」を検討したい(図Aを参照)。これは、「四つの視点」で言えば、4「主として集団や社会とのかかわりに関すること」と重なる部分が多い。しかし、1や2から引かれた項目もある。各項目に共通するのは、自分を律する生活習慣であれ、人々や社会に支えられた礼儀や慣習、きまりや法であれ、それを守ることが決め事やルールに多かれ少なかれかかわっていることである。さらに、自分自身の外側に無限に広がる様々な範囲の社会に、そうしたきまりや法を意識しつつ、いかに関わるかという視点である。そのような意味でこれは、自己の「内面への深まり」とは逆方向の、「外界へ視野の拡大」というベクトルからの分類整理となる。
図Aに沿って検討しよう。自分を中心に外に向かって(図では下方向に向かって)、

「健康・生活習慣1(1)<充実した家庭生活4(6)<学級・学校・郷土4(7)(8)
<日本人・国への愛4(9)<世界・人類の幸福4(10)」

という形で領域が拡大していく。(数字は該当する四視点と内容項目の番号。なお図に収める関係でそれぞれの項目から重要語句を選び、内容項目を便宜的に代表させている。以下同様。)

図Aの右肩にはまた、五重の円をまたがるかたちで、

「集団生活の向上4(4)・勤労・奉仕の精神・公共の福祉4(5)」

「礼儀2(1)・公徳心4(2)・きまり・法4(1)」

が並ぶ。上段は家族から始まり、さらに大きな集団や社会にかかわるさいの、基本的な心構えや態度、精神にかかわる項目を連ね、下段はそれらの集団や社会を貫いて重要なルールにかかわる項目を列挙している。
図Aのような分類整理の仕方で示された内容項目は、自分の外側に存在する決まりや法との関係で自分の行動を律する面に焦点が当てられている。しかし、視野の拡大は、大筋において成長のプロセスと重なるともいえる。それは「自己中心性」から、次第により広い視野へと脱却していくプロセスとも理解できる。自己中心の見方から家族中心の見方へ、自己の属する小さな集団中心の見方からより大きな集団中心の見方へ、そして日本という国家中心の見方から世界全体を視野に入れた見方へ、より広い視野を獲得していくプロセスである。
そして、この視野の拡大というプロセスは、「自己の在り方を深く自覚する」という「内面への深まり」と密接に関連し、それに支えられている。それぞれの段階における「自己中心性」は、そうした自己の在り方への深い自覚・気づきによって乗り越えられていくからである。

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