瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

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朝の瞑想

2005年07月31日 | 瞑想日記
◆起床時
起床時、体重は58キロで前回と同じ。生水を二杯飲んですぐに瞑想、40分くらい。体調はすこぶるよく、空腹感もまったくない。今日も昼ごろ復食のおかゆを食べる予定。便通がなければ復食を遅らせるつもりだ。

◆朝の瞑想
最近、朝と就寝前と2回瞑想を行っているが、何となく意欲の減退を感じていた。期待するような「成果」や「変化」がないからだろうか。今朝の瞑想でもそれを感じていた。そんなとき、そういう自分の状態にこそサティすることだと気づいた。最初はラベリングの言葉が見つからなかった。やっと「意欲の減退」という言葉が見つかった。どんな状態であれ、その状態をこそサティしていくこと。

相変わらず様々な音を「音」とラベリングしても、一瞬にして概念化がなされている。バタンという音は、一瞬にして車をドアを閉める音と理解されている。何か分からない音でも、分かる範囲で一瞬のうちに概念化されている。たとえば「近所の人が出した音」と。明確な言語化がなくともそういう判断が伴ってくる。そんな風に一瞬のうちに自分がなしている判断に気づいていることも大切だろう。
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一日断食12回目

2005年07月30日 | 瞑想日記
◆一日断食12回目
前回の一日断食のときに軽い頭痛があったが、今回はまったくなかった。やはり断食とは関係なかったのだろうか。それとも何かしら体調の悪さと断食とが絡んで頭痛が起こっていたのだろうか。いまのところはっきりしたことは分からない。

今日は暑かったが調子はよかった。午前1時半、就寝前にかなりの便通があった。今朝9時ごろにはまた大量の便通があった。その後も2回便通があったが、わずかに残っていた便を絞り出すような感じであった。ただ宿便といえるような強烈な臭いや便器一杯になるほどの量はなかった。

空に近い胃や腸を感じることは、満腹時にはない独特の身体感覚を思い出させる。一種のさわやかさに近い。この感覚を味わいたいため断食をしているようなところもある。

汗をかきながら掃除、そして買い物など、普通に動いたが、疲れやふらつきなどはない。寒天を一回食べ、すまし汁を一回飲み、あとは大量に生水を飲んでいる。前回から、柿の葉茶も飲んでいる。空腹感は、相変わらず夜になって少しあるかな、ぐらいの感じである。

◆スティーヴン・レヴァイン『めざめて生き、めざめて死ぬ』(春秋社、1999年)より
「われわれの真の本性、存在の真理に心を開くためには、死を先延ばしすることを止めねばならない。死を自分の内部に取り入れることで、われわれは死を超え、死ぬと思われているものを超えることができる。多くの人が不死なるものと呼んでいる、存在のあの広大無辺に行きつくこと――自分が隠れている場所、自分の心(ハート)を締め出している場所に直面する方法として死を利用することによってそれが可能となる。」

明らかに私は、「死を先延ばし」にし、抑圧し、忘却している。本当の意味で死に直面することを避けている。意識的に直面しようとしてもそれは、表面的なものにすぎない。それでも、「私の身体はすでに壊れている、私はすでに死んでいる」と意識することは、たとえわずかにせよ私を日常性への埋没から目覚めさせる。そして、限りあるいのちを生きていることの意味を問わせる。
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「私」という幻想

2005年07月29日 | 瞑想日記
◆「私」という幻想
どう考えてもやはり、私が私であることの根拠は何もない。たとえ輪廻があったにせよ、輪廻する私を何代さかのぼったとしても、私がなぜ私なのかを説明することはできないし、私が私であることの根拠を提示することもできない。

しかし、世界を経験する、その経験の中心としての主観性はある。(経験の中心としての主観性を、脳科学は、どうあがいても説明できない。)世界を経験する主観は、経験主体にとって唯一のものとして経験される。

その唯一性が「私」の根拠ではないのか。確かに、いまここで世界を経験している、その中心を基盤として「私」があるのだが、その経験の中心を、これこれという性格と属性をもった「石井のぼる」という名の「私」とアイデンティファイする根拠は何もない。そこに確実にあるのは、ただ純粋主観性だけなのである。

純粋主観性は、経験を成立させる場として以外には、元来、どんな規定も限定もない。本性上、それはタブラ・ラサ(白紙)なのである。ただし、事実上は、生来の身体的条件や遺伝的性質が、もともと何らかの限定として働くかもしれない。しかし、その純粋な経験の場に、「私」とそれに関係するもろもろの規定が書きこまれていくのは、白紙の上に気まぐれに描かれる落書きのようなものだ。それほどにはかない「私」という幻想。実際に「私」という幻想から自由になれているわけではないが。

◆瞑想
昨日、今日と朝の瞑想。今は出勤時間が少し遅いので、瞑想の時間をとれる。最近、帰宅したあと夕食までの時間に間食をしてしまうことが多い。
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純粋主観性

2005年07月28日 | 瞑想日記
私の経験は、この世にひとつしかない。今感じている私の痛みは、私以外の誰の痛みでもない。痛みが発生する物質的なメカニズムもいくら説明できても、私の主観的な痛み、痛みのクオリアを脳神経の客観的な組み合わせによってのみ明らかにすることはできない。そういう意味での主観の唯一性。客観科学によってはどうしても説明することのできない、異質の存在原理・主観性。

今この場所での私の経験として、「私」によって限りなく分節され、色づけられた、「私」の経験世界。しかし、この主観的世界においては、「私」と「私」による分節化という限定作用をかぎりなく小さくしていくことが出来る。「私」が限りなくゼロに近づいたとき、この主観性は純粋主観性と呼ばれる。そして全一性の体験。

「私」が時空を限定するものであるとするなら、この純粋主観性は、時空を超えて存在する。それは、主観性でありながら、「私」によって持ち込まれた時空という枠組みを超えている。

以上は、きわめてラフなスケッチだが、脳科学などとの対話を通して、私のなかでだんだんと形をなしてきた理解だ。これに輪廻の主体は何かという問題がからんでくるが、これは難しい。
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すでに壊れている

2005年07月27日 | 瞑想日記
◆スティーヴン・レヴァイン『めざめて生き、めざめて死ぬ』(春秋社、1999年)より
有名なタイの瞑想の師が言った、「このコップを見てごらん。私にとって、このコップはすでに壊れている。‥‥これで水を飲むことができる。‥‥だが、コップを棚に置いたときに、風がそれを吹き倒し、‥‥コップは床にぶつかって粉々に砕けるだろう。‥‥コップがすでに壊れていることを理解しているなら、コップと共にいる一瞬一瞬が貴重になる。」

コップと同様、私たちの身体もすでに壊れている、実際にすでに死んでいる。それを理解するなら、そのとき生は貴重なものとなり、生が生じてくるその瞬間にいて、あるがままの生に心を開くだろう。私たちが愛するものすべてが、子供も妻も友人も、すでに死んでいることを理解するなら、彼らがどんなにか貴く思えるだろう。127

私の身体はすでに壊れている、私はすでに死んでいる。何と印象深い言葉か。私の体は、いのちは、すでに死を内包している。死を孕んでいる。しかし、そんな言い方より「すでに死んでいる」と端的に言ったほうが、はるかに真実をついている。そのとき、人生を見る見方が変わる。

昨日、台風が近づいていた。5時過ぎ雨の中を帰えろうとするとき、同僚が「帰りはどうするの」の気遣ってくれた。カッパを着て自転車で駅に向かうつもりだったので、車に乗せてもらう必要はなかったのだが。お互いの生がすでに死に続けているという意識で、そんな何気ない会話を思い出すと、そんな一瞬の会話も貴重に思えてくる。
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