瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

主観的体験とクオリア05

2010年03月22日 | 読書日誌
◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』より;脳の中のホムンクルス(小人)

《まとめ》「私」という視点が成立するメカニズムの、もっともナイーヴなモデルは、脳の中に小人(ホムンクルス)がいて、脳の中のニューロン活動をモニターしているというものである。現在では、脳の中にホムンクルスがいると信じる脳科学者はいない。

しかし、脳のある特定の領域に「自我」の中枢があり、他の脳の領域の活動がここに伝播されると「私」にそれが感じられるというようなモデルがあるとすれば、それは、暗黙のうちにホムンルクスの存在を仮定するといえよう。

そのような説明で脳全体に宿る主観性の構造を説明したとしても、今度は、脳の特定の領域のニューロン活動によって支えられるであろうホムンクルスの主観性自体がどのようにして生まれたのか、その起源を明らかにするという新たな問題が生じる。つまりホムンクルスに基づくモデルは、無限後退に陥ってしまう。(46)

◆非物質的なホムンクルス?
「ニューロンを一つ一集め、ある関係性を持たせるとなぜそこに心が宿るのか、その第一原理さえ皆目検討がつかない」という茂木の率直な告白から、一歩進めて、ニューロンの物理・化学的な過程から主観性を説明することは、原理的に不可能なのだと認めたらどうなるだろうか。

それは非物質的なホムンルクスの存在を認めることになる。「脳のある特定の領域に「自我」の中枢がある」ともせず、したがって、その中枢を特定することもしない。

とすれば、ホムンルクスを、脳の特定の領域のニューロン活動として説明する必要はなくなるから、「無限後退」に陥る必然性はなくなる。

つまり、まったく別の説明原理を導入すると、脳と主観性に関する難問は、違った照明の下で、違った姿で見え始める。クオリア、主観性、心という問題には、物理・化学的な原理では説明し尽くされない次元が含まれるということを勇気をもって認めるということだ。

しかし、そのためには、物理・化学的な過程によって主観性の根本的な特性を説明することができないということを、原理として説明する必要がある。
 
今の私の考えでは、主観性を根本的な特性を説明するためには、目的論的な説明原理を持ち込まなければならないはずで、物理・化学的な説明原理からは、目的論的な説明原理を導き出せないということが、しっかりと論証できればよいのではないか。

基本的に「主観性」とは、世界を、生命維持という「目的」のために、意味的な統一として把握する機能だからである。

ところで、ホムンクルスについては、茂木の他の著書『脳内現象 (NHKブックス)』では若干違った解釈、違った視野のもとで論じられている。これもいずれ触れることになるだろう。

主観的体験とクオリア04

2010年03月21日 | 読書日誌
◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』より

《まとめ》
クオリア問題は、意識や心を問題にするうえで本質的であるが、では意識の問題は、クオリアの問題に尽きるのか。

例えば「自己意識」の問題は? 世界の中に「私」という視点があり、私が私であると感じられ、私が、他の誰でもない、まさにこの「私」であることの不思議さは、クオリアとどのようにかかわるのか。

クオリアは、客観的に存在する物質のように、それ自体としてあるのではなく、必ず「私が○○のクオリアを感じる」という形で表象される。「赤のクオリア」が単独に存在するのではなく、「私が赤のクオリアを感じる」というように、「私」という視点と対になって成立する。

つまり、クオリアが、脳の中のニューロン活動からどのようにして生まれるかを説明する理論は、必ず「私が○○を感じる」という自己の成立の構造をも説明する理論でなくてはならない。このように考えることは、脳をシステムとして考察する方向につながる。実際、脳のシステム論とは、脳の中で進行している様々な感覚情報、運動情報の処理のプロセスがいかにして「私」という形で統合されるか、という問題だとも言える。(43~45)

◆痛みと主観性
ここで私は、「自己意識」、「私」意識の問題と、主観性の問題とを区別して論じる必要があると思う。例えば痛みとは主観的なものである。ある主観がそれを感じた限りで「痛み」となる。生理的な痛みにつながるニューロンのどのような活動を解明したからと言って、感じる主観がなければ痛みはない。失恋を失恋と感じる主観がなければ、「失恋の痛み」もないのと同じである。ただし失恋の痛みの場合は、失恋した私という「自己意識」が伴う。

逆に言えば、肉体の「痛み」は、失恋と違い「自己意識」を伴う必要はない。私たちは、犬や猫も「痛み」を感じていることが分かる。しかし「痛み」は、必ず「誰か」(人)や、「何か」(生物)にとっての「痛み」であり、それを感じる主観性がなけれは、そもそも「痛み」は成立しない。痛みも、主観に感じとられるクオリアなのだが、必ずしも「自己意識」を伴う必要はないのである。

だから、「クオリアが、脳の中のニューロン活動からどのようにして生まれるかを説明する理論」は、「自己の成立の構造をも説明する理論」である以前に主観性の成立構造を説明する理論でなければならない。

「痛み」は、いかにしてニューロン相互の物理・化学的過程であることを超えて「主観」に感じ取られる「痛み」になるのか。

そして「痛み」その他いっさいのクオリアを感じる中心としての「主観」は、客観的な過程のなかにそもそも位置づけることが出来るのか。それが問われるべき大前提なのである。

主観的体験とクオリア03

2010年03月20日 | 読書日誌
◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』より:クオリアと主観 

《まとめ》私たちが知覚する世界の特徴は、それがさまざまな質感(クオリア)に満ちているということだ。目覚めている限り、私たちの心の中にはクオリアが溢れている。「私」とは、「私」の心の中に生まれては消えるクオリアの塊のことだとも言える。

クオリアが、物質である脳の中のニューロンの活動からどのようにしてうまれるのかという問題は「難問」とされ、意識とは何かに答える上で最大の鍵と言われる。

脳の中で起こる物理的・化学的過程は、全て数量化できる。しかし、脳のニューロン活動は、私たちの心を生み出す。主観的体験を生み出す。主観的体験は、さまざまなクオリアに満ちている。このクオリアは、数量化を拒絶する。

私たちの心の中には、ほとんど構造化が不可能に思われるユニークな質感の世界が広がっている。こられ全てのクオリアが、それ自体は物理的現象として数量化可能なニューロン活動によって生み出されている。これは、まさに驚異だ。

物理・化学的にいくら脳を詳細に記述してみても、例えば、私が現に感じている「赤」という色の生々しさ、それがニューロン活動によって引き起こされているということの驚異自体には、全くたどりつけない。(39~42)

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ここで問題にしたいのは、「主観的体験は、さまざまなクオリアに満ちている」という捉え方だ。クオリアとは、結局、主観にどう感じられるかという問題なのだ。主観を前提としないクオリアなどありえない。クオリア的な体験こそが主観的体験なのだ。

さらに言えば、『「私」とは、「私」の心の中に生まれては消えるクオリアの塊のことだとも言える』という言い方は正確ではない。「私」という主観性がなければ、クオリアはそもそも感じられないのだから。


だから、「クオリアが、物質である脳の中のニューロンの活動からどのようにしてうまれるのか」という「難問」の根本には、物質である脳の中のニューロンの活動からどのようにして主観性が生まれるのかという問題が横たわっているはずだ。

そして私には、脳の物理・化学的過程をどのようにほじくり回したところで、主観性が生まれてくるメカニズムを解明することなど出来ないと思われる。クオリアに満ちた主観的な体験は、脳の物理・化学的過程とはまったく異質な説明原理の上に成り立っているのだ。それは、失恋した時の、脳の物理・化学的過程をどれほと解明できたにせよ、私にとっての失恋の痛みや悲しみを説明したことにならないし、それが理解されたことにならないのと同じである。臨死体験や至高体験、覚醒も、それが主観にとってのクオリアとして体験される以上、脳の物理・化学的なメカニズムを超え出てしまう次元をつねに含んでいるのである。

付け加えるなら、近代科学のパラダイムそのもの変換が必要なほどに、この問題は根源的なのである。そしてそのような変換を示唆するような主張は随所に現れはじめている。ただそれは、体制的な科学の側からは無視されているに過ぎない。

主観的体験とクオリア02

2010年03月19日 | 読書日誌
◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』をめぐって

「現代の科学的世界観を前提にすれば、神経活動といえども、やはり一つの物質的現象に過ぎない。なぜ、神経細胞が活動すると、そこに主観的体験が生まれるのか――その必然性を、現時点で「科学的」根拠から説明することはできない。実際、私たちが意識を持つ存在であることは、物理学を一つの典型とする科学的世界観からすればあまりにも奇妙な事実なのである。」

「私たちが意識を持つという事実をいかに説明するかということは、今日の科学にとって最大の課題の一つである。脳科学の進展にもかかわらず、そもそも、神経活動に伴ってなぜ意識がうまれなければならないのか、その第一原理は未だ明らかにされていない。」

これは実は、『心を生みだす脳のシステム』のなかにある文ではなく、『脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』の監訳者あとがきでの茂木の文章である(254・255)。しかし、彼の一貫した問題意識が鮮明に出ている。

意識の存在が、典型的な科学的な世界観からすればあまりに奇妙な事実なのだとすれば、科学的な世界観の延長線上でそれを説明しようとするのではなく、その世界観そのものを疑ってみればいいのに、と私は思うのだが。

「現時点では、私たちの意識がニューロンの活動からいかに生み出されるかについて、確実に言えることはとても少ない。ただ、一つだけ確実なのは、私たちの意識が、脳のニューロンのネットワーク全体のシステム論的性質から生み出されているということである。」(『心を生みだす‥‥』26)
 
しかし、ニューロンのネットワークといえども、物質的な現象の集まりであることには変わりない。物質的な現象の集合から、どうして非物質的な意識が立ち現われるのかを脳の科学はまったく説明できない。

科学的な世界観は、方法論上、意識という非物質的な存在を認めないのだから、科学的な世界観そものが変わらない以上、この問題は解けないのではないか。これは、非常に明白なことのような気がするのだが。
 
なぜ意識問題、クオリア問題が従来の科学的世界観では解決不可能なのか、意識というものの根本的な特性にさかのぼって考える必要があるだろう。これは、私自身の課題であるが。

主観的体験とクオリア01

2010年03月18日 | 読書日誌
最近、読者の方からコメントで「脳は今の科学ではほとんど未知の領域だと思いますが、今後解明領域が拡大していくと臨死体験も至高体験も脳内現象である可能性が高くなると思われますか」という質問をいただいた。

この問題は、人間の主観的体験や意識、「こころ」を脳科学によって説明しきれるか、という問題と言い換えてもよいだろう。脳の生理化学で「悟り」を説明できるのか、という問題の根底には、そもそも意識を化学記号で説明しきれるのかという問題が横たわっている。

これについては、かつて別のブログで一連の書評という形で考察したことがある。私自身、もう一度再確認したい気持ちもあるので、これを整理しながら、再録したい。

◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』(茂木健一郎)をめぐって

この本の基本的な主張は、「心を生み出す脳のシステムは、単純な機能局在説では理解できない」こと、「生化学的な知見や機能局在は、脳というシステムの、いわば断面図に過ぎない。断面図をいくら集めても、私たちの心を生み出す生きた本質はには迫れない」ということである。

一方では、「心を生み出すのは、脳全体にまたがって、1000億のニューロンが作り上げる、複雑で豊かな関係性である。つまり、心を生み出すのは、脳というシステムなのだ」として、脳が心を生み出すとはっきりと断言する。

前書きで、そう断言しながら、最後には、著者は、実は「ニューロンを一つ一つ集め、ある関係性を持たせるとなぜそこに心が宿るのか、その第一原理さえ皆目検討がつかない」と告白するのである。

タイトルやまえがきの勇ましさにくらべると、最後の弱腰の言葉には、明らかなギャップがあって、その落差の大きさにちょっとびっくりする。最近の脳の科学の成果を読むことは刺激に満ちていたけれど、筆者は、およそ困難な課題に取り組んで、最後に弱音を吐いているような気もする。

私たちは、みなそれぞれ主観的な体験をもっている。「朝の空気のすがすがしさ、午後のけだるさ、ビールの最初の一杯の爽快さ‥‥‥これらの主観的体験に満ちた意識は、一体どのようにして生じるのか。この問題は、私たち人類に残された最大の謎と言ってもよいだろう。」(18) 
 注:( )内の数字は本のページを示す。以下同様。

この問題は、「物質に過ぎない脳のニューロン活動から、いかにして薔薇を見ている時の生々しいクオリア」が生じるのかという問題に置き換えることもできる。クオリア=「薔薇を見た時に心の中に浮かぶ赤い色の感じのように、私たちの心に浮かぶ質感」(12)

茂木は、クオリアのめぐるこのような問題は、「従来の意味での科学的記述を脳に関していくら積み上げても、根本的に解決することはできないだろう」ともいう。クオリア問題は、「従来の物理学に象徴される科学的世界観に開いた穴なのである。」(13)

こうして書き出してみると、茂木が、本の出発点において問題の本質をしっかりと表明していることが分かる。にも関わらず、一方では科学的世界観の延長線上でこの問題を解こうと必死になっている。そういう矛盾した姿勢が見て取れる。

「何もないところから、私たちの意識が立ち上がる」過程を明らかにするためには、脳の中で1000億のニューロンがお互いに結ぶ関係性(システム)を第一原理として、それ以外の何ものも仮定せずに議論を進める必要がある」(21)と著者はいう。

まるで、脳における機能局在説から関係説に変えれば、意識の問題はすべて解決するかのごとき言い方だが、一方では「ニューロンを一つ一集め、ある関係性を持たせるとなぜそこに心が宿るのか、その第一原理さえ皆目検討がつかない」という弱腰なのだ。この二重性はいったい何だろうか。表現にはっきりとした揺れがある。

私には、茂木が提出したような問いに含まれる根本的な問題性をまず明らかにする必要があると思われる。それは、心とは何か、主観性とは何か、意識とは何かという問題だ。

クオリアでいう質感とは、つまり主観に感じられる性質であり、結局は主観性の問題にいきつくのだ。だから問題は、ニューロン相互の関係性を完璧に解明するという方向が、どうして主観性の解明につながるのかという問題になる