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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

記憶喪失で考える

2005年02月26日 | 輪廻説
◆輪廻する主体17
今仮に「純粋主観性」というものを想定する。蛭川氏が、「純粋意識」といっていたものに対応する。私たちは多かれ少なかれエゴでゆがめた現実を経験しているが、そのエゴ性が一切剥ぎ取られた純粋な状態を「純粋主観性」とするのだ。見るものと見られるものとの関係を、つぎつぎに深めて行けば、ついに、けっして見られることのない究極の見るもの、けっして知覚されることのない究極の知覚者に達するだろう。それが「純粋主観性」である。ラマナ・マハリシのいう純粋意識であり、本性であるといってよい。「いわゆる自分とは、心である。その心は限定されている。純粋な意識は限定の彼方にある」(ラマナ・マハリシ)

ところで今、思考実験として完全な記憶喪失ということを考えてみる。仮に昨日までの一切の記憶を失ったとする。その時、昨日までの「私」をAとする。そして今日からの「私」とBとする。AとBとは、記憶の上で一切のつながりがないが、同一の主観と言えるだろうか。もちろんこの場合は、肉体は同一のままだから、第三者から見れば、Bは記憶を失ったとはいえ、あくまでも「Aさん」であろう。しかし、記憶を失ったBにとっては、主観的にはAは一切存在しなかったも同然である。

根源的には、記憶を失ったとしても、つまり自我(エゴ)のレベルではAではなくなったとしても、経験の主体(「純粋主観性」)としては、AとBは同一であると言わざるを得ない。記憶があるなしにかかわらず同じ経験主体なのである。

ところで、仮に私(A)が、明日にまったく記憶が失われ、Aとして自分が生きたこれまでの人生の記憶は一切失われる知ったとする。その場合もBとして生き方やその喜びと悲しみに無関心でいることができるだろうか。たとえ今の自分の記憶を失ったとしても、Bとしての自分の幸せに無関心でいることはできないだろう。

たとえば明日から、Aとしてのこれまでの記憶を一切失うとしても、Aとしての私が今感じている猛烈な歯痛は続くとしよう。その場合には、無関心どころか何とかしてこの歯痛を止めたいと思うだろう。なぜなら、記憶は失っても、痛みに苦しむのはまさにこの「私」であることが分かっているからである。もし今日の内に歯科医院に行って土曜、日曜の歯痛は何とか抑えられる可能性があるなら、すぐさま歯科医院のところへ飛んでいくに違いない。Aとしての記憶はなくなっても続く歯痛は「他人ごと」ではないからである。

輪廻する主体はあるのか

2005年02月26日 | 輪廻説
◆輪廻する主体16
去年の4月から5月にかけて「輪廻する主体」というタイトルでの考察を続けていた。通し番号を見ると15までで終わっていた。昨日、ちょっとしたきっかけで輪廻の主体は何かという考察をするうえでヒントになりそうなたとえが思い浮かんだので書きとめておく。

「輪廻する主体」の考察は、蛭川立氏の『彼岸の時間』がきっかけとなって始まった。その最後のあたりの議論を復習しておく。

仏教は無我、つまり自我(アートマン)は存在しないと説く。記憶の集積も、身体も自我ではなく、癖や嗜好の集まりも自我ではない。つまり「空間的な身体イメージや、過去の記憶や、未来への欲望などによって構成される自我は、すべて『自我意識』の働きによってつくりだされてきているもので、そもそも自我などという実体は存在しないとうのが仏教の主張だ。「じっさい、深い瞑想状態では、自我というイメージは消失し、瞬間瞬間に現われては消えていく感覚と、それをただ目撃している『観察する意識』が存在するような意識状態になる。そして蛭川氏は、「はじめから『私』が存在しないのなら、『コピー人間』は『私』なのか、つまり輪廻した人間は私なのかという問い自体が意味を失う」と結論めいた言い方をする。つまり蛭川氏は、輪廻の問題には否定的な見解をもっているようだ。

ところが問題は、そんなに簡単なことではない。『観察する意識』には、執着すべき自我イメージは確かにないだろう。しかし、経験する主体としての中心性は残るであろう。「観察する意識」として自分の身体が置かれた今ここを中心に経験し、観察している。痛みを主観的に体験している。どんな場合でも、このような経験の主体としての「私」性は残るだろう。それがないと経験の観察すら成り立たない。問題は、この経験の「私」性が存続するかどうかなのではないか。

つまり執着される自我という粉飾物をそぎ落とした最後に残る『観察する意識』とは何か。それは肉体とともに滅びるのか、それが輪廻の主体と考えられるか、という問題意識をもつべきなのではないかと思う。それをもっと突き詰めて言えば、主観性とは何かという哲学的な問題にいきつくだろう。

以上の問題を考える上でのちょっとしたヒントになる話を、項を改めて書いてみたい。

■唯識の構成

2004年11月22日 | 輪廻説
竹村牧男の『知の体系・迷いを超える唯識のメカニズム』は、これまで読んだ入門書の中ではいちばん優れていると感じた。唯識理論の全体的な構成がきわめてわかりやすく説明されているのだ。唯識の基本的な理論構成で、これまで読んだ本では分からなかった部分を、なるほどと納得できるように説明してもたった感じだ。

それにしても唯識での述語の多様さ、詳細さ、複雑さには今さらながらに驚く。どの本を読んでも始めて知る述語の三つや四つには出会うと書いたが、それはあくまでも主要な述語でという意味だ。細かい述語については、次から次へと私にとっての新述語が続出する。「唯識三年倶舎八年」と言われるのもうなづける。

輪廻についての唯識の考え方も、この本で少しは分かったような気がする。しかしそうなるとまた疑問も生じてくるのだが。その辺の考察については、エポケーの方で行いたい。少し後になるかも知れないが。

■関心の変化

2004年11月13日 | 輪廻説
おそらく、このダイアリーで輪廻の問題を追ったことがひとつのきっかけとなって、談話室でも輪廻についてのやりとりが続いた。私自身は、最近、輪廻の問題への関心が薄れてきたようだ。それはたんに他に関心が移ってしまったからという一面もあるだろう。

私は、もともとは「縁起説と輪廻説はどのように両立するのか」という知的な関心から出発した。あるいは、仏教が、その成立時からそのような問題をかかえ、その後の仏教はこの問題をひとつの軸にして展開した一面がある。それがどのように論じられたのかという関心だった。仏教そのものへの関心から生まれた問いだったかも知れない。

一方、この問いへの関心の根底には、限りあるいのちとして投げ出された「不思議」への感覚が横たわっているかも知れない。自分の過去生を知りたいというような気持ちはほとんどまったくない。しかし「魂の成長」に輪廻が前提となっているのかどうか、という関心はある。またいつ何をきっかけ関心がよみがえるか分からない。あるいは、次に唯識関係の本を読むことでよみがえるかも知れない。

■輪廻の話題

2004年11月07日 | 輪廻説
◆談話室の復興
談話室(掲示板)は、私の管理上のミスで一時アクセス不能となったが、OTBに依頼したところ、すばやく対処をしてくれて、比較的早く復興した。過去ログが消えてしまうこともなく、ほっとしている。

もし過去ログが消えたとして、貴重な書き込みは参照できなくなるものの、それはそれでしょうがないだろうと思った。それとは別に、これで談話室が復興しなかったら、掲示板の運営を止めるいいきっかけかな、とも一瞬思った。一方で、そうすることは、このサイトを公開し続けることの、ひとつの大切な意味を失うことだなと感じた。

◆輪廻の話題
とくに最近は私が、このダイアリーの方で輪廻の問題を取り上げてきたことがきっかけとなり、談話室はこの話題がひとつの流れになっている。もう一つはヴィパッサナー瞑想の話題だ。

私が、このサイト上で様々な探求をしたり体験したりしたことを書く。それについての反応を誰かが談話室に書いてくれる、それがきっかけとなってそのテーマでの様々な意見交換がある。私もその影響を受ける。このようなプロセスは、私にとってかなり重要なことだと思った。
談話室

自分のペースで探求を続けたいという気持ちもあり、ある意味でそうしているのだが、一方で自分とは異質な意見に耳を傾けるということは、非常に大切な要素だ。少なくとも独善に陥る危険性が少なくなる。

ところで、輪廻転生問題については、賛成であれ反対であれ、反応は真剣であり、また多少の感情的な思いも付随することがあるようだ。精神世界に関心の深い多くの人が、かなり気になっている問題なのかも知れない。談話室に書いたような「開かれた態度」で、冷静にさまざなな理解の可能性を互いに探っていくことは必要だろう。