瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

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慈悲の瞑想による出会い

2006年06月28日 | 瞑想日記
輪廻転生があるのかどうか、断定的なことは何も言えない。確実に言えることは、限りある肉体、いのちとして、この時間的な世界に投げされているという事実。そして誰もが、その限りあるいのちのうちに魂の成長と覚醒の可能性を秘めているということ。

特定の誰かに集中的に慈悲の瞑想をすることは、その人のいのちに与えられた成長と覚醒の可能性に働きかけるということなのだ。自分の中にある成長と覚醒への可能性が、他者の成長と覚醒の可能性に出会い、自分と他者のその可能性に働きかけるということなのだ。

慈悲の瞑想をすることで私は、その人の限りあるいのちの場、成長に向かう可能性の場に出会っているような気がする。
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お願い

2006年06月26日 | サイト更新管理
先日、メールをいただいた千葉県の方へ。
かってながらお願いです。
毎日200を超えるジャンクメールを整理しているときに、間違って削除してしまったようです。申し訳ありません。
かってながら、もう一度、メールをいただけないでしょうか。
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何が大切なのか

2006年06月26日 | 瞑想日記
限りあるいのちを生きていることの「意味」が、さらにずしりと胸に落ちるようになった。生きることにおいて何が大切なのかが、得心できるようになった。この1・2週間、そんな思いを強くしている。端的に言えばそれは「自我」において死ぬこと。そのように行為し、そのように生きることだ。他者との関係を、そのように生きることだ。

先週、「慈悲の瞑想」への意欲が衰えていたが、今日はまた行き帰りにずっと行った。その人を思い、その人をイメージしながら「慈悲の瞑想」を続ける。続けていると、その人の「限りあるいのち」が意識される。その人を、「限りあるいのち」という視点から見ている。

私と言う「限りあるいのち」が、たとえば家族の誰か、たとえば子どもという、もうひとつの「限りあるいのち」の生き方、その開花に、「慈悲の瞑想」を通じて、あるいは他の言動によって、どれほどにかかわっていくことができるのか。そこでもまた、私自身の「自我」の死が問われている。そのかかわりにおいて、どれだけ無私になれるか。

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大地の母と偉大な女神

2006年06月24日 | 読書日誌
◆一日断食、挫折
今日、一日断食を試み、4時頃までは食べないでいたのだが、居間で家族とテレビを見ながらしゃべっているうちに、テーブルの上のせんべいなどをつまんでしまい、挫折。また明日、挑戦である。

先週も挫折しているので、最近週一回の一日断食というペースが崩れはじめている。

それとどこかで関係しているかも知れぬが、土日には必ずやっていた朝40分ほどの瞑想も今日はやっていない。

◆偉大な女神
父が、10日ほど咳き、痰が止まらないというので午前中、病院に連れて行った。それほど心配するほどのことではないとこのこと。病院での待ち時間の間、ケン・ウィルバーの『エデンから』を読んでいた。

以下のような部分(第7章)を読んでいた。

神話・共同体期の自意識は儀式のなかで「いけにえ」をささげ、様々な秘儀をとりおこなったが、それは大地の母(地母)をなだめて作物の豊穣などを呪術的に請願し自立する意識にまとわりつく罪の意識を打ち払うもためのものであった。

ところが社会一般が黄泉の国の母のもとであがいている最中にも本ものの覚醒を得た人々がおり、彼らは超意識の世界での救済をしっていた。自己滅却を通して全体との統合を直観できる精神があったのである。全なるものが理解されたときそこに到達するためには分立した自意識を滅却させねばならない。唯一の全が登場するためには自意識の「いけにえ」が必要だ。いわば永遠(偉大な女神)に至るために自我を十字架にかけ、炎に身を焼きつくしてはじめて真の解放があることがわかっていたのだ。(P148-150)

「自我の滅却」というようなところを読んでいるとき、限りあるいのちをどう生きるかという問いが、私のなかで重なっていた。限りあるいのちに問われているのが、自我の死、自我の「超絶」であることが、ますます明確になっている。一瞬一瞬、生きることの質が問われている。それは無明の自我に振り回されることではない。無明の自我の働きを自覚し、それに影響されないところで行為することだ。

私のなかにまだまだ無明の自我がうごめいている。深い怒り、まだ深く巣食っている優越-劣等意識。ただ、優越-劣等意識については、囚われが少なくなってきた部分もあるな、と感じる。

限りあるいのちを生きているがゆえに、そのなかでどれほどに成長し、解放されるかが、『絶対的な」意味をもった課題として迫ってくる。

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『グレース&グリッド』05

2006年06月22日 | 読書日誌
◆『グレース&グリッド(上・下)』ケン・ウィルバー(春秋社、1999年)
「ぼくは最後になってようやく、不平や不満を言わなくなった。ことに、彼女につかえるために五年もの間、自分の仕事を顧みられなかったことに対する不満を(‥‥)。そうした不満をぼくは完全に手放してしまったのだ。全然後悔などしていなかった。ただ、彼女の存在そのものと、彼女につかえることの、途方もない恵みに感謝していた。‥‥ぼくたちはシンプルかつ直接的な方法で互いを助け合い、互いの自己を交換しあった。だからこそ、自分や他者、「わたし」とか「わたしのもの」といった観念を超越した、永遠の〈スピリット〉をかいま見たのだった。」(P342-343)

ここでケンが体験したことに比べれば、あまりにも些細な体験かもしれないが、しかし何かしら通じるものを自分の中に感じる。千分の一、いや万分の一かもしれないが、しかしやはり同質だと感じる何かがある。私の場合は、「不平や不満」を感じることも多い。しかし、今の私にとって、家事をすることも原稿を書くことも、同様の意味をもっている。家事を厭う気持ちが、以前に比べるとはるかにすくなくなっている。

トレヤとケンの生き方を読んでいると、この限りあるいのちを限りあるいのちとちて自覚したうえで、それをどう生きるか、がもっとも大切だということ、一瞬一瞬その問いを自覚して生きることが大切だということが、強く心に迫って来る。

限りあるいのちと自覚した上で、そこで何を学ぶのか、何が大切なのかを問い、それを生きるとくこと。この問いの根源性を思い起こすために、私はこの本の最後の部分を何度も読み返していくことになるだろう。

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