瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

心随観

2006年01月07日 | 瞑想日記
朝トイレに行き、もう一度寝床に入った。どうしてその気になったのか、きっかけは覚えていないが、寝床の中で心随観を始めていた。もしかしたら、子供のことで悲しみの感情が甦っていたのかもしれない。最初は「悲しみ」などとラベリングしたような気がする。半分寝ぼけながらだからよく覚えていない。次に「あせり」というラベリングが来た。

一気に苦しみ、悲しみの根源まで突きぬいて、解放されていかない「あせり」かもしれなかった。そして地橋先生の今日の一言を思い出した。

『心が簡単に変わるものだと誤解すれば、落ち込んでしまうよ。
 怒ってしまう。後悔する。「後悔」とサティを入れる。
 貪ってしまう。悔いる。「後悔」とサティを入れ、後悔は悪なんだよな、と確認する…。
 こんなことを数え切れないほど繰り返して、徐々に心が変わっていく。』
(2006年01月06日のこの一瞬をとらえる、ヴィパッサナー瞑想の世界

要するに、一気に自我の根源をえぐろうとしてあせっているのだと思った。あせっている自分にサティした。こうして一歩後退して自分の状態を見て行く心随観が大切なのだ。

そこから次々と心随観が続いていった。すべては覚えていないが、こうして日記を書き続ける自己表現欲求の中にある「自我」、誰かに承認されたい欲求。‥‥だいぶサティが続いて、そろそろ再び憩いたい(安らかに眠りたい)と感じ、「憩いたい」とラベリングした。その時、安らかな眠りなき人のことを思った。自覚せずとも、誰もが将来への不安、怯え、苦悩を心の底に押し込めて一夜の眠りにつく。実は、安らかな眠りなどない人の心の奥底の苦悩を私はほんとうに分かっていたのか。

心随観、心随観といいながら、日常の中では、集中して心随観をすることがほとんどなかったような気がする。合宿などでは心随観の方向へと追い込まれていくが、日常においては、本気でやったことがなかったような気がする。

不条理

2006年01月07日 | 瞑想日記
かなり気分に起伏の大きい一日であった。生徒相談室で箱庭療法もできればと思い、前の職場で使っていたものを暮れに修理した。きれいにペンキを塗りなおして、今日職場へ運んだ。駅前にタクシーがいなかったので、その重い箱をさげて寒空を職場まで歩いた。

子供との関係では、自分のコンプレックスの投影はないにしても、やはり親としての自我へのとらわれが苦しみを生み出している面はある。それがはっきり分とわかった。そのせいでもないだろうが、帰宅時、同じ道を駅まで歩いたときは、気分がかなり軽かった。単に重い箱が手になかったからだけかも知れないが。どんなことがあっても軽やかに生きる姿勢を保ちたい。

二回引用したクリシュナムルティのあの言葉にこだわっている。自我の奥底まで気づく。そんなことが一瞬のうちに出来れば誰も苦労はしない。出来ないからこそ、内面に気づいていく一歩一歩の道が必要なのだ。一瞬一瞬のサティが必要なのだ。「自我」のうごめきを一瞬一瞬気づいていくこと。

理由も分からず、世間に、この世界に投げ出された限りある「いのち」としての私たち。生きようとする根源的な力も、その力の衰えも、死も、私の理解を超えたところにある。その「不条理」。その不条理をぎりぎりつき詰めて見据えれば、おそらく自我から解放されるのだろう。解放されていない、ということは、見据え方にごまかしがあるのだろう。人生という「演劇空間」の中に多少とも埋没して、不条理を忘れているのだろう。