瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

気づこうとする夢

2005年12月31日 | 夢日記
この2日ほど共通する要素を持つ夢を何回か見ている。

たとえば、ある友人と議論しているときに、マルティン・ブーバーをめぐる話になった。私が、マルティン・ブーバーについての自分の見解を述べた。友人は、英語で「It is practical mistake!」と叫んだ。私は、その言い方に非常に腹を立てた。腹を立てたと同時に自分の感情を観察していた。しかし、「あるがまま」の観察がどのようにすればできるのか、自信がなかった。

次の夢は、授業をしている夢だった。インドの現代史についてだっただろうか。あるところまで話すと、次がどうしても思い出せなかった。しかたなく、「ちょっと自分のノートを持ってくるから」と生徒に言った。そういった直後に自分の気持ちにマインドフルになろうとしていた。しかし、このときも、充分マインドフルになれたか自信がなかった。

別の夢は、前の職場の夢だった。「あなたにはこの役職は任せられない」と面と向かって言われた。自分のリーダー性が疑われていると思った。このときも、そう言われた自分の反応に気づきを入れようとしていたと思う。しかし、充分にはできなかった。

いずれも夢の中の自分の感情にマインドフルであろうとして、充分できない自分へのとまどいの中で目覚めている。たぶん、クリシュナムルティが「あらゆる思考と感情への無選択の自覚、すわなちその動機やメカニズムを理解し、思考と感情を開花させること」という、その「無選択の自覚」がどのようなことであるのか、自分の感情に充分にマインドフルであるということがどんなことなのか、得心がいっていないことが夢に表れているのだろう。

成長、開花、死滅

2005年12月30日 | 瞑想日記
◆『クリシュナムルティの神秘体験』より
「あらゆる思考と感情は、生きそして死ぬために開花がなくてはならない。あなたの中のあらゆるもの、大望、欲望、憎悪、喜び、情熱の開花。この開花の中にそれらの死と自由が存在する。何かが成長できるのはただ自由の内においてのみであり、抑圧、制御、規律の内においてではない。」295

実に興味深い。成長し、開花できるのは、自由の内においてのみであるという。つまり、「あるがまま」を受容するときにのみ、成長と開花がある。善悪の判断なく、「あるがまま」が認められ花開く自由が与えられたとき、それは終焉を向かえる。

「羨望の事実がその色、形、深み、特性をあらわにするのはただ自由の中においてのみである。もし抑圧されているならば、羨望はそれ自身を十分かつ自由に顕わしはしないだろう。羨望がそれ自身を完全に開示する時、他の事実、すわなち空虚、寂しさ、恐怖をあばきだしてこそ、羨望の終焉があり、そして各々の事実が、自由の中で、その全体性の中で花開くことを許される時、観察者と観察するものの間の争いが止む。検閲者はもはや存在せず、ただ観察、見ることだけがある。‥‥花開くことと死滅することの中にのみ完成がある。」295

自分自身の羨望を抑圧しない自由、「あるがまま」の羨望が自由に花開くのを受容する自由。しかし、羨望が自由に開花するのことが許されるなら、それと同時に、「空虚、寂しさ、恐怖」も顕わになる。それとともに花開いた羨望も死滅する。

一般に充分に受容することを許された感情は、受け入れられ花開くことで消えていく。それは心理療法の現場でもよく知られた事実である。こうした無数の過程こそが、心理的成長の一歩一歩の歩みなのである。思考と感情の完全な開花は、同時に完全な死滅だろうが、開花に至るには成長の事実がある。成長と開花は分かちがたく結びついているというのが私の見解である。クリシュナムルティは、こうは言わないだろうが。

無選択の自覚、開花

2005年12月29日 | 瞑想日記
◆「ゆる体操」から自発動功へ
今日は一日掃除などで少し疲れた。父は脳梗塞のリハビリで入院中だが、一月半ばには帰ってくる。そのため父の居住空間や玄関周辺を、父の障害に合わせて改造中である。この数日は、父の部屋の掃除と整理が中心だ。介護保険でベッドを借り、介護しやすい環境を整えなければならない。

今日は瞑想ができなかった。掃除中のサティは? うーん、完全に忘れている。明日は、しっかりやろう。最近、瞑想前は「ゆる体操」をみっちりやることが多い。しかし、かなり自発動功の要素が入っていて、自分のからだでいちばんほぐす必要のある部位の運動が自然に出る。回転のスワイショウも時々入る。気功の動きもよく出る。瞑想は日々充実を増している。

◆『クリシュナムルティの神秘体験』より
「瞑想は目的への手段ではない。‥‥あらゆるシステム、方法は思考を時間に縛りつけるが、あらゆる思考と感情への無選択の自覚、すわなちその動機やメカニズムを理解し、思考と感情を開花させること、それが瞑想の始まりである。思考と感情が成育し、そして死滅する時、瞑想は時間を超えた運動となる。その運動の中に法悦がある。完全な空の中に愛があり、愛と共に破壊と創造がある。」298

ちょうど談話室(掲示板)で話題となっている「あるがまま」とも関係があるので取り上げて見た。瞑想が目的への手段となれば、何ものかを目指すことになる。それはすでに「あるがまま」の否定である。システムや方法は、時間の中で目的の達成を目指す。そこには「今、ここ」の否定がある。

それに対して「あらゆる思考と感情への無選択の自覚」こそが「あるがまま」を見ることでる。一方で、「あらゆる思考と感情への無選択の自覚」は、ヴィパッサナー瞑想の精神でもある。ここに瞑想の実に微妙な難しさが隠されている。ヴィパッサナー瞑想は、システム、方法と言えば言えるのだが、そのかなめは「無選択の自覚」である。

一方ここで、「思考と感情を開花させる」と言っているのも興味深い。 「開花、成育」は、つまり成長である。これも、談話室で少し触れたテーマと重なる。これについては、引用箇所の数ページ前に興味深い記述があるので、明日にでも触れたい。

七覚支4(In This Very Lifeより)

2005年12月28日 | In This Very Lifeより
1)念覚支(続き)
◆四諦を理解する
修行者は、すべての肉体的・心理的現象が苦という性格を分け持つことを理解するであろう。つまり苦諦が理解される。すると他の三諦も理解される。なぜならマインドフルネス(気づき)があるとき、渇愛は生じない。渇愛は苦の根であり(集諦:じったい)、渇愛が捨てられれば苦も消える。こうして無知や他の煩悩が消えれば、苦の滅(滅諦)が実現される。第四の道諦を理解することは、八正道を発展させることにかかわる。八正道の発展は、気づきの一瞬一瞬に同時的に起こる。

それゆえ、気づきと知恵があれば四諦は、あるレベルにおいて理解される。マインドフルネスは、リアリティの本質への洞察を含む意識の一部であり、悟りの知の一部なのである。こうしてマインドフルネスは、悟り(覚)の一部(支)なのである。

◆気づきが気づきの原因である
気づきの最初の原因は、気づき以外の何ものでもない。もちろん、初心者の弱い気づきと、悟りに至るような高度の気づきとがある。実際においては、ある瞬間の気づきが次の気づきを生むことで、気づきが発展していくのだ。

☆マインドフルネス(気づき)が、いかに大切であるかを改めて思う。そしてマインドフルネスは、苦諦を洞察するところまで深められなければならないということである。

もうひとつ確認したいのは、ヴィパッサナー瞑想では、悟りへの道が段階的、発展的なものとして理解されているということである。これは、たとえばクリシュナムルティなどとは、根本的に異なる点だろう。

呼びかける働き

2005年12月27日 | 瞑想日記
◆復食
一日断食はいつもそうだが、夜10時以降ぐらいになると胃がすっきりしてとても気持ちがよくなる。食べたいという欲求もなくなる。この状態が、胃にも体ににもよい状態だということがよく分かる。そのままぐっすり寝て、今朝も空腹感は全くない。瞑想も調子よくできる。今朝の体重は、58.2キロで、9月下旬には、復食時の朝、57キロだったから、やはり1キロは太ったということだ。しかし70キロを超えていたころと比べればベストに近い。

昼になっても空腹感はないが、玄米のおかゆを食べると、そのあと俄然食欲が湧く。毎回そうなのだが、復食後の食欲に勝てない。今日は夕刻の瞑想のことを考えて少し控えようと思ったのだが‥‥。瞑想は、遅々たる歩みだが少しずつ充実度を増している。だからこそ、腹にあまりたまっていない状態で行いたいのだが。

ところで、座禅中のサティは確実に進歩しているが、日常生活の中ではあまり進歩がない。ラベリングを思い出すのは、歩行中ぐらいか。しかし、瞑想時のサティの充実とともに、その影響を徐々に日常生活にも及ぼしていければと思う。

◆『クリシュナムルティの神秘体験』より
「頭脳がその制約、羨望、野心を自ら浄化した時にのみ、それは完全なものを理解することができる。愛がこの完全なものである。」11

「頭脳が自己中心化された存在を保護するために作り上げたあらゆるものを、死によって一掃することなくして、創造はありえない。」105

「観念や達成、目的に対する死がなければ、事実というものもない。観念や目標は事実からの逃避である。事実には時間も空間もない。」175

「強さは弱さの対極ではない。‥‥それは完全な〈独りであること〉から生まれ出るあの強さである。それはいっさいの争いと企てが完全に終熄した時に到来するあの力である。それはいっさいの思考と感覚が終熄し、ただ見ることだけが存在する時、そこにある。それは野心、貪欲、羨望がいかなる強制もなく終熄する時、そこにある。それら野心、貪欲、羨望は理解と共に消滅する。愛が死であり、死が生であるとき、あの強さが存在する。」210

クリシュナムルティのどの言葉も、強烈な「指し示し」になっている。これを自ら見よという呼びかけである。あるいは「呼び覚ます」働きである。私の中の何かが呼び覚まされるような気がするのである。とくに私は、最近「行為」において、その呼びかけを感じている。「観念や達成、目的に対する死」において行為すること。家事においても、仕事においても。それが夢における白鶴=僧の意味であった。