瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

■思考に気づく

2004年11月30日 | 瞑想日記
◆思考に気づく
出勤途中からかなり意識して思考に気づくようにしていた。思考に気づく度に、そのつど歩いている足の感覚や視覚や音に注意を戻す。職場では若干のトラブルがあったりして一時サティを忘れたが、帰宅ごろにはまた思考の観察が始まった。徹底的に自分の思考(雑念)を客観視し、相対化していく。思考に気づくとは、自我の無明を客観視し、脱自化していくことだ。それはやはり、毎日意識して継続することで徐々に深まりを見せていく。

22時前後に15分ほど座禅。座禅の深まりへの期待に気づき、サティする。一方で進歩のない自分への劣等感を感じていることにも気づき、サティする。

◆心-脳問題
『図説・現代哲学で考える〈心・コンピュータ・脳〉』(宮原勇、丸善株式会社)を読んでいる。現代哲学が心-脳問題についてどのような議論をしているのか、その代表的な議論が紹介されていて、非常に興味深い。夢中で読んでる。クオリアについての議論だけでなく、現代の研究者たちが議論してきた基本的な論点を、しっかり押さえておくには、便利な本だ。

■掃除の瞑想

2004年11月28日 | 瞑想日記
瞑想のあと少しパソコンに向かい、それから2時間弱、掃除や片付け。しかし、そうした作業中のサティがほとんどできていない。以前は、作業中の一つ一つの動作にラベリングして一生懸命やろうとしていたのだが、最近は掃除の時などはさっぱりだ。自動食器洗い器にしてしまったので、皿洗い瞑想もしなくなった。

しかし、ティク・ナット・ハンの『禅への鍵』の影響もあって、これではいけないと思うようになった。ティク・ナット・ハンはいう。修行者はどんな行為をおこなうときでも、ある特定の思念をもってそれをおこなう。たとえば、手を洗うときは、「水が両手の上を流れていく。かけがえのない地球を保つために、どうかこの水を上手に使えますように」。こういう「思念」も大切だろう。掃除で言えば、「家族が少しでも居心地よく生活できるように」だろう。

多くの場合、気づけば掃除とは関係ない様々な思考を追っている。まずは、それに気づいて「思考」とサティを入れる。そして「掃除をしている」とラベリングする、あるいは上のような思念で確認をする。途中、何かの音に注意が向いたら「音」とラベリングする。そんな感じだろうか。こうして文章で確認しておくことで、次の作業からは少しはマインドフルネスを取り戻しやすくなるだろう。

■気づきの瞑想

2004年11月28日 | 瞑想日記
今日も午前中、10時前より35分ほど座禅。また何人かの人の顔とその人へのいつもは気づかないような感情がサティされた。浮かんで来るのは身近な人とは限らない。ほとんど話したことさえない人であることも多い。そんな人に対しても、私の中には様々な反応がある。多くは、自分の中の何か、漠然とした不安や劣等感や、同質と感じられる肯定的なもの、そのほか様々な心理を投影しての反応である。この人にこんな感情を投影していたのかと気づく。ある人に対する私たちの印象というのは、自分でもふつうは気づかない無意識の複雑な要素を投影し、それらが微妙に影響し合うことで成立しているのだな、と感じる。

瞑想合宿のときは、これまで気づかなかったような劣等感に気づいたが、ここ数日の瞑想では、不安や恐れが浮かび上がることがおおい。劣等感と関係してはいるが、やや角度が違う。これも日常の中ではほとんど気づかない。そんなものにいちいち気づいていたらたいへんだから心の奥へ押し込んでいるのだろう。しかしそのためのエネルギーは相当であるはずだ。結局は、自分のあるがままが受容されていないのだ。

以上のように否定的な面を強調したが、瞑想そのものは、静かな安らぎの中で進む。脳の深い静まりとバイブレーション。腹へのサティの持続。イメージの浮上。それに伴う感情への気づき。そして腹へのサティ、そんな繰り返しがクリアな静謐のなかで続いていく。

■午前中の瞑想

2004年11月27日 | 瞑想日記
午前中、50分ほど座禅。また、サティがある程度自動的に流れるような状態に早くしたいという期待があった。それに気づいて「期待」とサティした。一度「いい状態」を経験すると、次にはそれに期待し囚われてしまう。修行者が陥りやすい罠だ。

ランニングなどのトレーニングで2週間も間があくと前の効果は持続しないが、5・6日だったら持続する。瞑想にも同じようなことが言えるようだ。火曜日より深まり方が早い感じがした。今日も、腹へのサティを中心に落ち着いて時折の思考をサティした。後半思考が多くなったが。時々人の顔が浮かび、その人に対する微かな感情の動きを自覚することが多かったのは前回と同じだ。昨日の落ち込みは表面上は響いていないが、1・2度その関係の思考が湧き、ダメージが残っているのは自覚された。

今日はずっと瞑想をしていたい感じだった。仕事が一段落したら午後も座禅しよう。

■落ち込んだら

2004年11月26日 | 瞑想日記
◆落ち込んでいるとサティ
職場で、少し落ち込むようなことが重なった。それで帰宅時の駅までの自転車は、その関係の思考におぼれた。少しはサティをしようと思ったが、思っただけで実質はほとんどできなかった。電車の中は昨日書いた『禅の鍵』を読んだ。

帰宅後も意欲があまり湧かなかった。パソコンに向かってこのダイアリーも読書日誌エポケーの方も、別の原稿もあまり書く気になれなかった。時間に少し余裕があったから座禅をすることもできたが、どうせ思考に巻き込まれるだろうと、あまりやる気になれなかった。

毎日読んでいるブッダのヴィパッサナー瞑想の『今日の一言』を開いた。
             ☆
11/26(金) 心がグチャグチャになってくると何もしたくないし、何とかしようという気持ちも失せて固まってしまう。
 そんな時は、思い切って部屋の掃除をするとよい。善行はもっとよい。
 一番よいのは、「落ち込んでいる」「心がボロボロだ」「何もやる気がない」と現状を素直に認めて気づきを入れることです。
 …サティの瞑想をしましょう。
             
◆「自我」が意欲している
もちろん今日の私にぴったりの言葉であった。こんな日にこそサティの瞑想を。落ち込んでいるからこそ座禅を。そして今の状態を素直に認めること。これから座禅をしよう。

意欲が湧かない自分についてひとつ気づいた。「自我」がやる気を失っているのだな、ということ。「自我」が傷つけられ、傷つい「自我」の意欲がうせている。哀しいかな、再び立ち直って元気になると、再び「自我」の意欲が出てくるのだ。

ということで、そういう自分を批判するのではなく、そういう自分なのだと素直に認めること。そういう自分にただ気づく。