瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

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■脳のバイブレーション

2004年10月31日 | 瞑想日記
◆ヘミシンクCD音に似ている
今朝、8時ごろより30分ほど床の上で座禅する。はじめるとすぐ、脳のバイブレーションが響く。一瞬、これは何かに似ているな、と思った。今日発行したメルマガ『読書の旅』には、モンロー研究所のヘミシンクプログラムを紹介する『魂の帰郷』を取り上げたが、著者・藤崎ちえこ氏のサイト・心の森研究所では、市販されるヘミシンクCDの視聴ができる。昨晩それを聴いてみた。確か精神集中のためのCDだったが、そのバイブレーション音に、脳内で聞こえる音が似ているのだ。これは、CDを買ってみないと、と思った。本の内容は、下に紹介したブログ・エポケーにも取り上げた。

◆サイクル運動としての腹の動き
相変わらず、腹の動きは膨らみの「ふ」、緩みの「ゆ」でラベリングする。思考は「し」、音は「お」、イメージは「い」だ。これでほとんど用は足りる。小さな工夫だが、腹の動きは、膨らみ→緩み→膨らみ→‥‥というサイクルを一つの輪のように連続的なものとして観察していくと、観察の切れ目が生じないようだ。これまでは、膨らみから緩み、緩みから膨らみに移動するとき、無意識に空白を作ってしまい、観察にかすかな途切れがあったような気がする。そこに思考が入り込む余地があったかもしれない。

◆思考にもたんたんと
瞑想時、腹なら腹という中心対象に集中しようとする意識があるのは当然だが、そのため思考が起こるとどうしてもそれをたとえわずかでも否定的にとらえてしまうところがないだろうか。思考が起こっても、たんたんと(まったく否定的な意識を働かせず)サティし、再び何もなかったように中心対象に戻るということは、意外と難しいことかも知れない。
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■エポケー

2004年10月31日 | サイト更新管理
新にブログとして統合した読書日誌をリンクする。

エポケー:精神世界と心理学を中心とした読書日記

ちなみにエポケーの意味は、ギリシャ哲学の用語で、

1) 判断中止.何事に対しても確実な判断は下しえないから,一切の判断を中止してありのままの現象をうけ入れるべきだとする態度.
2) フッサールの現象学の用語.現象学的判断中止.自然的態度に基づく判断を中止すること.意識を純粋意識に還元する現象学的還元の第一歩.

学生時代に同名の哲学雑誌を主宰していたのでとてもなつかしい。また、自分が行っているヴィパッサナー瞑想の、ありのままを受け入れる態度とも通じ、かつ私の専門が現象学なので、いろいろと重なりあうものがある。ということで、このブログのタイトルとした。
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■統合

2004年10月31日 | サイト更新管理
これまでサイト臨死体験・気功・瞑想の「本の世界の旅」で、「研究ノート」と「精神世界と心理学・読書日誌」という二本立てのダイアリー形式での記録をしていたが、今日より、エポケーというブログに一本化することにする。

ブログではカテゴリーを設定できるので、日ごとに違う本や、違うテーマを扱っても、カテゴリーごとに閲覧できるので便利である。よって統合による不便は感じないであろう。

ダイアリーで研究ノートに過去に書いてきたものは、徐々にこちらに移動させ、カテゴリーごとに整理するつもりである。

こうした作業が私自身にとっての刺激となり、滞りがちだった研究ノートも進み具合を早めることができるだろう。

エポケーのリンクは、追って行いたい。
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■ヴィパッサナー瞑想の質問

2004年10月31日 | 普通の日記
臨死体験・気功・瞑想の掲示板(談話室)やゲストブックの方で、ヴィパッサナー瞑想に関する質問がいくつかあった。これからも増えそうな気がする。私も答えたが、他の人も答えてくれている。それらをまとめて、上のサイトの「瞑想世界の旅」に「ヴィパッサナー瞑想Q&A」というようなコーナーを作ろうかと考えた。もちろん地橋先生に監修をお願いすることは必要だろう。

そのためには、私自身が実践も含めてヴィパッサナー瞑想をより深く正確にしっていく努力をしなければならない。
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■瀑流の如し

2004年10月29日 | 輪廻説
◆輪廻と阿頼耶識
唯識関係の研究書や入門書のなかの「輪廻と阿頼耶識」の問題に触れている部分をざっと読み返してみた。唯識はやはり独特の用語が多用されるので、述語の説明をしないでその部分だけ要約するというのがどうも難しい。まずは、横山紘一の『やさしい唯識』(NHKライブラリー)にしたがってごく基本的なことをまとめると、以下のようになる。

◆瀑流の如し
あくまでも同一なるものとして存在し続け、しかも自分で自分を統御できる「常一主宰の我」としての霊魂を、釈尊はみとめず、無我を主張した。しかし、仏教が、無我を説きながら輪廻を認めるならば、輪廻する主体は何かという問いが生じる。

これに対して釈尊は、生じては滅していく業の相続体があり、それがこの一生を生き、未来にも続いていくと説いた。

ところが、業の相続体が輪廻の主体であるという主張も、すんなりは納得されない。そこで部派仏教の諸派がいろいろな説を出したが、どれも満足できるような説ではなかった。そこで、唯識派が阿頼耶識ことが輪廻の主体であると主張するに至り、この問題も一応の結論が得られたという。

が、ここでまた、阿頼耶識が輪廻の主体であれば、それは「我」のようなものであり、無我説に反するのではないかという問題が生じた。これに対し『解深蜜経』などでは、阿頼耶識は「瀑流(ぼる)の如し」というたとえで答えている。すなわち、阿頼耶識は実体として常にあり続けるのではなく、刹那に生滅する瀑流の如き不連続の連続体としての心があるだけだという。

のちの『成唯識論』では阿頼耶識の中の種子がそのように刹那生滅しながら相続するとらえ、それを「種子生種子(しゅうじしょうしゅうじ)」と表現するようになった。これによって唯識派は、深層心をも含めた心の全体を一大エネルギーにの変化体ととらえることになった。

◆少しづつ
正直言ってこれだけでは、唯識の説明が納得のいくものかどうか、皆目わからない。もう一度最初から再勉強をし、輪廻の問題をどのように理解したのかという視点からもとらえ直す必要がある。とりあえず、入門書でひとつ読み残していた竹村牧男の『知の体系・迷いを超える唯識のメカニズム』を読んでみよう。

私には、「経験の中心として私」の絶対唯一性という問題が、輪廻の問題と深くかかわっているように思える。阿頼耶識説は、それにどう答えようとするのか。
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