瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

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単純作業でのサティ

2006年05月30日 | 瞑想日記
仕事で、数字を入力したり、数を数えたり、採点したりなど、比較的単純な作業を行うことも多い。作業は単純だから、いろいろと「妄想」をめぐらせながらもできてしまう。しかし、そうするとミスが多くなる。実際、私はそういう単純作業でのミスが多い。

しかし、そんなときもサティのつもりで、「数字入力」という「中心対象」から意識がはずれたら、サティしてもとの「中心対象」に戻るということの繰り返しを意識して行えばよい。そうすると「妄想」は少なくなり、ミスも少なくなる。このような姿勢で行えば、単純作業そのものが瞑想になる。

昨晩から今日の明け方まで、そうした単純作業を行っていたのだが、「妄想」が湧き起るたびに気づいて、「中心対象」に戻ることを繰り返していたら、やはりミスが少なかった。

昨日書いた「恐れと怒り」については、これからも何度も確認していくことになるだろう。本当にそういう面があるのなら、いずれ瞑想の中でも「実感」として味わうことになるだろう。
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恐れと怒り

2006年05月29日 | 瞑想日記
持ち帰りの仕事で寝たのが午前3時頃だった。6時過ぎ、そろそろ起きなくてはと思いつつ、なお寝床にいた。その時、ある特定人物に向けられる自分の怒りのことを思っていた。それを相手に向けて直接ぶつけることはほとんどないが、自分の中につねにその怒りを感じていた。それが自分自身に向けられた怒りの投影であることは頭で分かってはいたが、自分の何に向けられた怒りなのかは今ひとつ分からなかった。

しかし、その時「あ、そうだったのか」と感じたことがあった。それは自分の中の特定の何かに向けられた怒りではなかったのだ。死すべき肉体をもって生きていることからくる、恐れや怯え。いつもはすっかり忘れさっているが、一瞬一瞬、次がどうなるか分からないことへの怯えや不安。そんなものが、私の根底に横たわっているのではないか。そういう不安定な状況そのもの(それが生きるということなのだが)への怒りなのではないか。

自分の底に潜む、恐れや怯えが少しは分かるような気がした。命というものが、つねにそういう危うい状況の中にあるということへの、深き怒り。その理不尽への怒り。そんなものが私の根底に横たわっているような気がした。その怒りが、外部へと投影されるのだ。
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すべてが進むべき方向に

2006年05月28日 | 断食・少食
◆瞑想
午前中、35分ほど瞑想。後半、腹への持続的な集中、ときおりの思考やイメージはあるが、すぐにサティが入り、再び腹の動きへ。ただ、一週間前と何か違うような、充実の喜びや自信につながる何かが欠けている。

そのような期待も自信も関係なく、淡々とサティを続けることこそが大切なのだろうが。

生活全体の基調としては、充実や喜び、すべてが進むべき方向に動いているような感覚がある。子どものことでは悩みもあるが、それさえもやがては好転していくような思いがある。

これは、どこから来る感覚なのか。行うべきことをしっかりと行う。毎日、瞑想とサティを続ける。慈悲の瞑想を続ける。そんなところから来るのだろか。

◆復食
断食明けの朝、体重は61キロジャスト。

甲田療法だと前日一日食べなかったあと、翌日は朝の復食になるが、渡辺正(「朝食抜きときどき断食」健康法)では、翌日、昼の復食をすすめている。

一日断食して一晩寝た翌朝というのは、不思議と空腹感がなくなっているし、ふだん朝食抜きをしているので、私は無理なく昼の復食とするようになった。玄米を軽いおかゆにして、そこにコンブの佃煮、スリゴマ、梅干一個を加えたものを食べる。

ただし、今日はそのあと反動が来て、さらに玄米少しにカレーをかけて食べたりしたので、反省。
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浄化の感覚

2006年05月27日 | 瞑想日記
午前中、35分ほどの瞑想。今しがた(23時10分ごろより20分ほど)、瞑想。最近また、集中はあまりよくない。しかし、こうしてパソコンに向かっている今も、瞑想の余韻が残っていて、たとえわずかでも心が浄化されたような感覚がある。

先週は一回休んだが、今日は一日断食をした。昼にトロロコンブのお吸い物を食べ、無糖のココアや野菜ジュースも飲んでので、200キロカロリーほどは摂取しているかも知れない。
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許し

2006年05月23日 | 読書日誌
◆二つの視点
「わけ」もわからずにこの世に投げ出されている、しかもいずれば消える命として。その死すべき肉体をベースにして「自己」という虚構を作り上げ、それに執着する。おそらくそこに苦しみの根源がある。

子どもの問題を「上手に」忘れていることもできる。心のどこかに押し込んでしまうこともできる。確かにそういう傾向もあった。最近の私は、その悲しみに出会うとき、上に述べたような視点をどこかに意識している。限りある命、「自己」という虚構、その二つをどこかで感じながら、子どもの問題や、様々な人間関係に出会っているような気がする。

◆『グレース&グリッド』
破局の寸前まで突き進んだケンとトレヤだったが、やがて二人は苦しみのどん底で互いに学んで、立ち直っていく。

「‥‥自我という分離した自己感覚は、認識によって構成されたものというだけではなく、感情的なものでもあるということ。自我は、概念によってのみではなく、感情によっても支えられているということだ。またこの教え(『奇跡のコース』)によれば、自我の主要な感情は、怒りを伴う恐れでもある。

‥‥本来つぎめなのい意識を、主体と客体に、自己と他者に引き裂くときはいつも、その自己は恐怖を覚えるということだ。理由は単純。今やあまりに多くの「他者」がいて、それがみな危害を加える可能性ともっているからだ。‥‥この恐怖から怒りが生じてくる。

‥‥自我が他人を許そうとしないのは、他人を許すことが自我そのものの存在を蝕むことだからだ。‥‥他人からの侮辱を許すということは、自分と他人との境界線を曖昧にし、主体と客体という分離した感覚を溶かしてしまう。そして、許しによって、意識は自我やそれにたいして加えられた侮辱を手放し、そのかわりに主体と客体を平等に眺める〈観照者〉、あるいは〈自己〉すなわち真我に立ち返っていく。

‥‥ぼくの自我はかなり打撃を受け、傷ついていた‥‥だから許し以外には、自己収縮からくる苦痛を解きほぐす方法はなかったのだ。」p283-284

トレヤはトレヤで大切なことを学んでいくのだが、それは明日にでも書こう。「許し」の問題は、私にとっても大きな問題だ。最近、たまたま、かつてかなり侮辱されたと感じた人物と出会った。しばらくは彼とともに過ごすことになる。自分にとってのよい課題ができた。
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