瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

詩に昇華された覚醒体験:芦田良貴 詩集

2014年02月14日 | 読書日誌
私が運営するサイト「臨死体験・気功・瞑想」の「覚醒・至高体験事例集」のなかに「芦田良貴 詩集」というページがある。詩ではあるが、書かれたご本人の体験に根ざし、事例集に集めた「覚醒体験」と深く通じる内容を詩として昇華されており、読む者の心を深く打つものがある。

先日、この芦田良貴さんよりメールをいただき、上に紹介した詩を含む詩集を出版したとのことで、送っていただいた。詩集のタイトルは「KAMI」である。このサイトに紹介した詩を含め、全部で18篇が掲載されている。

詩の中には、何かしら「臨死体験」を暗示するものも含まれる。いずれにせよ、ご本人の「覚醒」をもとに表現されたものに違いない。重要なことは、それが完成度の高い詩として私たちに与えられていることだ。つまり、私たちの「思考する意識」に訴えるよりも、魂に直接訴えかけてくるということだ。悟りや覚醒について書かれた本は多いが、詩という形で訴えかけるものは、私はほどんど知らない。その意味でも芦田さんの詩集は貴重だと思う。

この詩集のもうひとつの特徴は、それぞれの詩が英文に移されて読めるようになっているところだ。英文で読むと、日本語だと意外とすんなりと読んでしまう詩句が、とても新鮮な印象をもって迫ってきたりする。違った言語体系の中に置きかえられることで、日本語で書かれたものとまた違った力をもつ詩になっている。

日本語、英語それぞれのこれらの詩を読む人々のなかには、これをきっかけとして大きな気づきを得る人もいるのではないかと思う。私自身も何度も、じっくり読み返したいと思っている。



詩集
KAMI

著者:芦田 良貴
E-mail:ashidayoshiki@gmail.com
発行者:広瀬公治
発行所・制作:book bird

紀野一義氏の本に再び触れて

2013年08月17日 | 読書日誌
8月11日付のブログ「根源的ないのち」で、昔読んだ紀野一義の本を紹介した。その記事にコメントをくださった方がいて、紀野一義の『生きるのが下手な人たちへ』を手に入れ、読み始めてくださったとのことだった。こんなブログでも、読んで下さる方がいるのはありがたいことだ。それがきっかけとなって、私のサイト『臨死体験・気功・瞑想』の『覚醒・至高体験事例集』に、紀野一義氏の体験や氏の本から収録した体験を掲載していたのを思い出した。

実はこのサイトや姉妹サイトの『日本の気功家たち』の更新ができない状態になっている。Dream Weaberというソフトでこれらのサイトを作成したのだが、以前のパソコンにインストールしていたそのソフトが古いバージョンでそれが見つからない。新しいパソコンには購入した最新のバージョンをインストールしようと思いながらまだやっていない。古いバージョンのパスワード等も紛失し、再び更新できる状態になるかも不明だ。近々何とかいたいとは思っているのだが。

それはそれとして、紀野一義氏の体験を掲載したページは以下である。冒頭の部分だけ、ここにも載せておく。

「わたしは、広島に育ち、旧制の広島高校を出て東大の印度哲学科に学び、二年生のとき学徒動員で召集されて戦場に赴いた。終戦と同時に中国軍の捕虜になり、翌年の春ようやく帰国した。父母姉妹はすでに原爆で死に、故里の町はあとかたもなくなっていることは未だなにも知らず、ちょうど三月一日、新円切替の日に大竹港に上陸したのである。‥‥」

続きは、以下を見てほしい。

  ◇紀野一義氏

紀野一義氏のいくつかの本から収録したのは、以下の体験である。

  ◇高史明氏

  ◇北原敏直少年

氏の本は多く読んでいたので、それだけ事例集に載せたくなる体験例にぶつかることも多かったのである。ところで、氏の本を整理するに当たりノートを作っていると書いたが、その作業の中で拾った言葉を一つだけ紹介しておきたい。

「心の種々相」

この世に生きていると、いろんなことがある。
不思議としかいいようのないことが起こる。
人間が一人で生きているのじゃないこと、
何か大きなものにうながされ、生かされていること、
そういうことに気づかされる。
気づかない者も大勢いるが、
気づかされた者も、また大勢いる。
その大きなものを「こころ」という。
人間の小さな「心」ではない。
永遠の生命そのものとしての「こころ」、
その「こころ」に生かされていることに、
凡夫ながら、気づかなくはならない。

鈍い私も、二度の脳梗塞でようやくその大きな「こころ」に気づかされたようである。「ようである」という曖昧な言い方をするのは、油断しているとその「根源的ないのち」に背く生活を始めかねないからである。いや、まだその「こころ」に沿う生き方を徹底しているとはとても言えない。だからこそ、その「こころ」に背かないように「いつまた3度目があるかわからい」というリスクを与えられたのである。食生活の話だけではない。けちな損得勘定に囚われていると、3度目を誘発するストレスに晒されることになる。残り何年か分からないが「頂いたいのち」なのだから、一切の損得勘定から解放されてせいせいと生きれば、ストレスからも解放されるだろう。

根源的ないのち

2013年08月11日 | 読書日誌
本の整理をしている。かつて読んでもう読まないだろう本だが、捨てるに忍びずとっておくと家の中が本だらけになってしまう。それでやりはじめたのが、読んだ時にマークした大切なところだけ切り取ってノートに張り付けて残りは捨てるという方法である。これが意外と時間がかかり、遅々として進まない。しかし、この整理方法自体が、かつて影響を受けた本をもう一度ざっと振り返るいい機会になっている。

押入れの段ボール箱を開けたら、紀野一義の本が十数冊出てきた。昔、およそ30年ほど前にかなり読んだ。この人の主催する「真如会」という小さな会に入会して、間近にお話を聴いたりした。岩波文庫の『般若心経・金剛般若経』の共訳者でもあるから、仏教の好きな人なら名前を知っているかもしれない。彼の本でベストセラーになったのは『生きるのが下手な人たちへ (PHP文庫)』だ。平易で心に染み入るような美しい文章で大乗仏教を語る人で、この人の本が出版されるたびに買い求めて読んでいた。

彼の本の『新法華経入門―いのち充たすことば』を整理していたら、「仏心」、「根源的ないのち」、「永遠なるものの力」等々、なつかしい言葉に再会した。これがミンデルの言葉と重なった。

ミンデルは、かかわりをもつ人間の中に、あるいは人間同士の関係のなかに、さまざまな現実そのものの中に、それらに即して、全体性を回復するうねりのような力を見ている。押さえつけていたもの、無視したり抑圧していたりしたものを明るみに出し、それらが充分に働くようにすれば、それが展開することで全体的な調和が生み出される。「大きい力」を心身や社会という現実そのものに内在する運動と見ている。この「大きい力」こそ、「根源的ないのち」、「永遠なるものの力」なのだ。

私の二度の脳梗塞も、この大いなる力からの働きかけだったとしか思えない。かつて八王子のヴィパッサナー瞑想合宿で地橋先生のダンマトークの後、地橋先生から放射されるとしか思えない慈悲の波動の如きものに包まれた。その波動を地橋先生は、地橋先生を通して「仏法僧」から来ると言っておられた。これらの経験から私は、「根源的ないのち」の存在、そこからの働きかけが存在することをますます確信するようになった。

アーノルド・ミンデルの次の言葉。

「自分ひとりだけのプロセスなどはない。
私たちはみんな一緒に、ものすごく大き なひとつの場の中に生きていて、
その一部分を受け取っているだけなのだ。
だから、 私たちが感じるすべての感覚に感謝し、できるかぎり、
そのすべての感覚を活かさな ければならない。
こうなると、すべてのものが私であると同時に、
これが私だというものは何もない、といえる。」(『うしろ向きに馬に乗る―「プロセスワーク」の理論と実践』春秋社)

自分と、自分の周囲で起っているすべての出来事とは、ひとつの大きな場の中につながって、それらの出来事の一切が開花しようとするプロセスなのだ。それが「大いなる力」だ。開花するかどうかは、私たちがそれらをどう気づき、感謝し、活かすかにかかわっているのだろう。

話して学ぶ 英語・英会話

やさしいフォーカシング

2012年11月20日 | 読書日誌
◆『やさしいフォーカシング―自分でできるこころの処方』(アン・ワイザー コーネル)

フォーカシングとは、「からだを使って、自分の気づきを促し、こころを癒していく」現 代心理療法のエッセンスを凝縮した方法だという。 ジェンドリンが、カウンセリングの成功例を研究しているときに、成功事例にはクライエントの側にある共通の特徴があることを発見した。それはクライエントが、面接のどこかで 「話し方がゆっくりになって、言葉の歯切れが悪くなり、その時に感じていることを言い表す言葉を探し始め」るということ。自分の内側の「心とも身体ともつかない曖昧な漠然とした感じ」を確かめるように話していたのである。 この「内面の曖昧な感じに触れる」という内的な体験のプロセスをジェンドリンは、フォーカシングと名づけた。

以前に紹介した『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』の著者、トールは、 「自分 の感情を知るのが難しいなら、からだの内面にあるエネルギー場に、意識を集中させてみましょう。からだを内面から感じるのです。これで自分の感情を感じることができるはずです」 といっている。

トールも、からだの内への気づきを重視しているのだが、フォーカシングは、それを誰もがいつでもできる取り組みやすい技法(わざ)として方法を確立した。心理療法から生まれでたこうした細やかに洗練された方法を利用しない手はない。

「フォーカシングは、からだとの信頼関係を結んで、からだの気づきを通して、この自分 自身の豊かな部分が伝えてくれる智恵に耳を傾けられるようにしてくれます。フォーカシングは、からだが大声で叫び出す前に、ささやいているうちに、そのささやきを聴けるようにしてくれます。フォーカシングは、内なる正しさの感覚にかなうよう、人生を変えていきます。」  

その変化は、おだやかでゆっくりしたものであるようだ。  

ヴィパッサナー瞑想も一瞬一瞬の体内感覚への気づきを重視するが、あわせてフォーカシ ングを学ぶことは、体験を深めるのに役立つのではないかと思う。  

自分のからだを観察して、何か感じをつかんだら、その感じをただそのままそこに置いて おく。自分で判断を下したり、自分の感情を回避したり、なぜそう感じるのかを突きとめようとしても、結局同じところにとどまるか、もっと嫌な気分になるかだろう。  

「あなたの感情をあるがままに置いておくことができたなら、その時こそ、感じが変わる のです。変えようとすると、変わらないのです。」  

誰がやってもそれを感じ取り、意識の光にもたらす、つまりあるがままに置いておくことができるよう、ひとつひとつステップを踏んで進んでいけるよう、工夫されている。 私も、自分ひとりでいつでもどこでもできるフォーカシングの方法を学び、深めていきたい。文章はやさしく、説明はかゆいところに手が届くような細やかさだ。

ゆる体操、再び

2012年10月08日 | 読書日誌
自発動気功をやっていると、その途中でしばしば「ゆる体操」的な動きが出てきて、そちらをしばらく続けてから本格的な気功に入ることがある。気功をやる前にまず体をゆるめろと言われれいるようだ。昨日書いたように、これまで行ってきたいろいろなことを、それぞれがつながり全体として相乗的な効果がでるように工夫せよというのが、新しい私のテーマとなった。それでゆる体操も本格的に復習しておこうと思った。

私が最初に読んだのは、「「ゆる」身体・脳革命 不可能を可能に変える27の実証 (講談社+α新書)」だった。この本については短評しか書いていないが、その中で「高岡英夫氏の理論は、気功やヨーガその他、体を動かす東洋的な行法においてきわめて画期的で、今後、この方面における中心的な役割を果たす理論かもしれない」とまで言っているから、相当に高く評価していたのだなと私自身が驚く。再読しなくては!

以下に、かつて書いた別の本の書評を掲げておいた。「これは『本物』だという、強烈な印象がある。」と書いているのでわかる通り、そうとう入れ込んでいた時期がある。そのころの日記を見ると、ゆる体操をするようになって肩こりが治ったと書いてある。今は、かなり肩こりがあるので、ますますゆる体操を復活する気になった。

「体をゆるめる」と必ず健康になる―心と体が若返る究極のリラクゼーション「ゆる体操」

高岡英夫の「ゆる体操」の実践編である。「ゆる体操」の考え方の簡潔な紹介と、イラストを使った分かりやすい実践編と、症状別プログラムとに分かれる。

体をゆらしたりしてゆるめること自体は、誰でもときどき行うが、ゆらしてゆるめることの意味を体系的な理論と実践法としてまとめたことの意義は大きい。こんなにかんたんなことでも継続すれば、からだにそんな大きな変化が訪れるのかと、納得できる。誰でもどこでもかんたんにでき、継続しやすいことのメリットも大きい。少しやってみれば、からだにどんな作用を及ぼすが誰でも体感できる。この本を読んで改めてなるほどと思ったことを箇条書きする。

☆体のパーツの緊密な連結をときはなち、剛構造を柔構造に変えていく。そのためには体をゆすって、ゆらして、ゆるませるのがもっともよい。

☆ゆすって、ゆらして、ゆるめていく、このサイクルを何度もくり返しているうちに、体が徐々にゆるむ。ゆるめばそれだけ、ゆすりやすくもなり、さらにゆれやすくなて、各パーツの連結がどんどんゆるめられていく。

☆ゆっくり温泉に入ったり、マッサージを受けたりすれば心身がリラックスするが、その状態は長くは続かない。ゆる体操は、自分の脳神経の働きによって体をほぐしたり、ゆるめたりするので、自分の脳神経の側から体をゆるめるテクニックが身につく。ゆる体操で、自分の体を感じながらくり返しゆるませていると、自分の体の筋肉から来る情報に対して閾値(機能的境界)が変わる。

人生、ゆるむが勝ち

この本は、ゆる体操の人生への応用編といった本だ。ゆる体操によるゆるみが、私たちの実生活を円滑化させ充実させるためにも、どれほど大切なことであるかが、いくつかの印象的なエピソードとともに語られている。

「‥‥ゆする、ゆれる、ゆるむということを意識して、ゆすり方や気持ちの持ち方を工夫していくと、ゆする、ゆれる、ゆるむが、ぐるぐるとサイクル状になって回っていく。お互いに次々に影響し合い、らせん階段を上っていくようにどんどんいい状態になって、各パーツの連結が解放されていくことに気がついたのです。」

これは、同著者の『「余分な力」を抜けば、人生が変わる!』(三笠書房、2003年)の方からの引用だが、らせん状にゆるんでいくという感じが、ゆる体操を始めたばかりの私にも、何となく実感できる。このように自分でやってみての体感からも、本を読んで受ける直感からも、ゆる体操という理論と方法が、これからますます重要な意味をもってくるのではないかと感じる。これは「本物」だという、強烈な印象がある。

心が固まれば、体も固まる。体がゆるめば、心もゆるむ。これは、常識ないし生活の知恵としては誰もが知っている。しかし、その関係を科学的な姿勢で探究し、からだをゆるめる効果的な方法を確立したところに著者の画期的な業績がある。体がゆるむと、自律神経やホルモンの状態が改善し、精神が安定して頭脳が冴え、発想力までものが高まってくる。つまり、リラックスしながら集中力が高まってくるのだという。

私自身、ゆる体操は毎日続けている。そのためか、あるいは週末断食のためか、肩こりが軽くなってきたようだ。パソコンに向かっていてちょっと眠くなったときに立ってゆる体操を行い、交感神経を軽く刺激すると効果的だ。床についてからの「寝ゆる」はもちろん毎日続けている。実は「統一棒」も購入した。しかし、これを用いたトレーニングはまだ行っていない。そのうちこり出すかも知れない。