ブログを通じて知り合ったカトリック信者のacquaさん、そして彼女の友人のC神父。
これまで、表面上の宗教の違いを超えた、互いの宗教の根底にある霊性を通した交流をさせていただいている。
と言うと、大げさかもしれない。
禅、道元禅師、イエス、釈迦、聖フランチェスコ、良寛・・・私たちの中にそれらを隔てる本質的な意味での壁(断絶)がないと言うことだろう。
さて、昨晩は3人で、C神父の司祭叙階30年のお祝いをした。
場所は、新宿三角ビルのイタリアレストラン、「スパッカナポリ」というお店。
北イタリア、ベルガモ出身のC神父を唸らせるほどのイタリア料理。
料理長はじめ、お店の人々も気さくで、肩肘の張らない素敵なお店である。
しかも店内から新宿の夜景を見渡せる素晴らしいロケーション。
食事の前にはじめてカトリックのミサに参加させていただいた。
今回は多少略式ということであったが、法衣を纏ったC神父は、私たちがプレゼントしたストラを肩に掛けてミサを執り行ってくださった。
厳粛な中にも心温まるミサであった。
途中聖書の中でも私の好きな場面のひとつ、ルカ福音書(ルカ7・36~8・3)を神父が朗読した。
少し長くなるが引用したい。
あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこでイエスがその人に向かって「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話になった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多いほうだと思います」と答えた。イエスは、そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。私があなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人は私が入って来てから、私の足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されたことの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
涙で塗らした髪で、イエスの足をぬぐう女。
女の思い、女の行いを静かに受け止めるイエス。
罪人の行為、それを受け入れるイエスを訝しく思う周囲。
彼らの意を察して、明言するイエス。
「あなたの罪は赦された」と。
しかし、女の涙ながらの行為にすでにイエスのゆるしがあるのだ。
「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
この言葉で、完全に女は救われたのだ。
イエスは彼女のすべてを受け止めた。
それは罪人として蔑まれていた女にとって、はじめてのことだったに違いない。
まごころからのイエスへの思いが、彼女を救ったのだ。
私には残念ながら、この感動をうまく言葉で伝えられない。
しかし、この場面一つとっても、行間から、静かだが、同時に雷の如くほとばしるイエスの愛が感じられてならないのである。
今風に言えばこれは「あなたは、すべてオッケーなんだよ」というメッセージである。
それは、愛そのもののイエスが言うからこそ、はかり知れない重みをもって心に迫ってくるのである。
17:30から23:00まで、ゆっくりと会話を楽しみながら食事をした。
食事の終わりの方でacquaさんに促され、ためらいつつもイエスの復活について私の思いをC神父に打ち明けた。
「イエスの復活」はクリスチャンにとってもっとも重大なできごとである。
しかし、私にとってもそれは同じであった。
復活をどうにかして自分の中で昇華するかが、私がイエスとより親しくなるためには必要だったのである。
ここで、私の復活の捉え方について具体的には述べない。
だが、端的に述べれば、私は、外側に現象されるような物質的なイエスの復活よりも、精神的な、もっと言えば弟子たちの全心身にありありと脈打っているような復活の方が、より本質的で、霊的であると感じているのである。
私のこうした復活観は、私の師事する岡野守也先生のイエス像、また、acquaさんに紹介されたジャコモビッフィ師の言葉によって作られたものである。
C神父に話しているうちに、イエスへの思いが溢れてしまい涙が頬を伝う・・・。
イエスはやはり私にとっても特別な方らしい・・・。
C神父は、否定も肯定もせずに静かに、真摯に私の思いを受け止めてくださった。
C神父とも、acquaさんともこれまでよりいっそう心の距離が縮まったように感じられて嬉しかった。
素晴らしく豊かなひと時であった。
ワインを3人で3本も空けてしまった。
しかも、リキュールやグラッパを何杯も。
前日もたらふく飲んだにもかかわらず・・・。
というわけで今日は午前中は仕事にならないと諦めて、ゴロゴロしてしまった。
※写真はacquaさんにいただいた十字架。
C神父に祝福していただきました。
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これまで、表面上の宗教の違いを超えた、互いの宗教の根底にある霊性を通した交流をさせていただいている。
と言うと、大げさかもしれない。
禅、道元禅師、イエス、釈迦、聖フランチェスコ、良寛・・・私たちの中にそれらを隔てる本質的な意味での壁(断絶)がないと言うことだろう。
さて、昨晩は3人で、C神父の司祭叙階30年のお祝いをした。
場所は、新宿三角ビルのイタリアレストラン、「スパッカナポリ」というお店。
北イタリア、ベルガモ出身のC神父を唸らせるほどのイタリア料理。
料理長はじめ、お店の人々も気さくで、肩肘の張らない素敵なお店である。
しかも店内から新宿の夜景を見渡せる素晴らしいロケーション。
食事の前にはじめてカトリックのミサに参加させていただいた。
今回は多少略式ということであったが、法衣を纏ったC神父は、私たちがプレゼントしたストラを肩に掛けてミサを執り行ってくださった。
厳粛な中にも心温まるミサであった。
途中聖書の中でも私の好きな場面のひとつ、ルカ福音書(ルカ7・36~8・3)を神父が朗読した。
少し長くなるが引用したい。
あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこでイエスがその人に向かって「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話になった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多いほうだと思います」と答えた。イエスは、そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。私があなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人は私が入って来てから、私の足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されたことの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
涙で塗らした髪で、イエスの足をぬぐう女。
女の思い、女の行いを静かに受け止めるイエス。
罪人の行為、それを受け入れるイエスを訝しく思う周囲。
彼らの意を察して、明言するイエス。
「あなたの罪は赦された」と。
しかし、女の涙ながらの行為にすでにイエスのゆるしがあるのだ。
「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
この言葉で、完全に女は救われたのだ。
イエスは彼女のすべてを受け止めた。
それは罪人として蔑まれていた女にとって、はじめてのことだったに違いない。
まごころからのイエスへの思いが、彼女を救ったのだ。
私には残念ながら、この感動をうまく言葉で伝えられない。
しかし、この場面一つとっても、行間から、静かだが、同時に雷の如くほとばしるイエスの愛が感じられてならないのである。
今風に言えばこれは「あなたは、すべてオッケーなんだよ」というメッセージである。
それは、愛そのもののイエスが言うからこそ、はかり知れない重みをもって心に迫ってくるのである。
17:30から23:00まで、ゆっくりと会話を楽しみながら食事をした。
食事の終わりの方でacquaさんに促され、ためらいつつもイエスの復活について私の思いをC神父に打ち明けた。
「イエスの復活」はクリスチャンにとってもっとも重大なできごとである。
しかし、私にとってもそれは同じであった。
復活をどうにかして自分の中で昇華するかが、私がイエスとより親しくなるためには必要だったのである。
ここで、私の復活の捉え方について具体的には述べない。
だが、端的に述べれば、私は、外側に現象されるような物質的なイエスの復活よりも、精神的な、もっと言えば弟子たちの全心身にありありと脈打っているような復活の方が、より本質的で、霊的であると感じているのである。
私のこうした復活観は、私の師事する岡野守也先生のイエス像、また、acquaさんに紹介されたジャコモビッフィ師の言葉によって作られたものである。
C神父に話しているうちに、イエスへの思いが溢れてしまい涙が頬を伝う・・・。
イエスはやはり私にとっても特別な方らしい・・・。
C神父は、否定も肯定もせずに静かに、真摯に私の思いを受け止めてくださった。
C神父とも、acquaさんともこれまでよりいっそう心の距離が縮まったように感じられて嬉しかった。
素晴らしく豊かなひと時であった。
ワインを3人で3本も空けてしまった。
しかも、リキュールやグラッパを何杯も。
前日もたらふく飲んだにもかかわらず・・・。
というわけで今日は午前中は仕事にならないと諦めて、ゴロゴロしてしまった。
※写真はacquaさんにいただいた十字架。
C神父に祝福していただきました。
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