飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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1986年6月 大和三山

2010年01月18日 | 思い出の大和路探訪
 <1986年6月22日(日) 大和三山:「万葉の大和路を歩く会」>

 この時初めて奈良サンケイ新聞社と奈良交通が主催している:「万葉の大和路を歩く会」に参加した。参加者200人以上いただろうか。歩く会はちょうど満5周年を迎えるときだった。この会がきっかけで以降、10回程歩く会に参加し、大和路各地を探訪することができたのである。
 また、なによりもこの時の講師が万葉学者で名高い大阪大学名誉教授の犬養孝(1907-1998)さんであったことである。犬養さんの万葉を愛する人柄に接し、また万葉歌を高らかに独特の調子で歌い上げる姿に感銘したのであった。
(犬養孝さんは、この時は79歳で日焼けした元気な姿だったが、その後91歳で他界された)

コース:橿原神宮西口駅・・・畝火山口神社・・・畝傍山登山・・・本薬師寺跡・・・藤原宮跡・・・畝尾都多本神社・・・香具山中腹・・・大官大寺跡・・・水落遺跡・・・甘樫丘・・・橿原神宮前駅 (徒歩約11km)


畝火山口神社と畝傍山
畝傍山:標高199m、大和三山の中で最も高い山で、火山が噴出してできた山。山麓には橿原神宮神苑や神武天皇陵の森が広がり、荘厳な雰囲気でより神聖さを感じさせてくれる。畝傍山の麓は、神武天皇が宮を開いたところとされている。


畝火山口神社
気長足姫命(神功皇后)を祀り、安産の神として信仰されている。


畝傍山山頂


橿原神宮
橿原神宮の歴史は比較的新しく、明治時代に作られたもの。この神社の由来は、日本書記に書かれている、神武天皇が大和の難敵を次々と征服し、畝傍山のふもとに造営を思い立ったという事実に基づいている。橿原神宮は、当時の国策と密接な関係があり、富国強兵の「神国日本」のシンボル的な存在となっていた。


本薬師寺跡
藤原京にあった薬師寺跡で、奈良の薬師寺は藤原京から平城京に遷都されるときにこの地より建物が移されたとされている。移された薬師寺と区別する為、ここは「本薬師寺跡」と呼ばれている。現在はこの地に建物はなく礎石と土壇を残すのみである。


本薬師寺跡にある大友旅人の歌碑 →万葉アルバムへ


藤原宮跡から耳成山を望む
耳成山:標高140m、大和三山の中では最も均整のとれた円錐状の美しい姿をしている。元々は火山でもっと高い山であったが、盆地の陥没で沈下して山の頭部だけが残ったらしい。人の顔にたとえて、耳が無いように見えるので耳無山→耳成山と呼ばれるようになったそうだ。


解説している犬養孝さん(藤原宮跡の大宮土壇にて)


藤原宮跡をあとにし香具山に向かう
香具山:標高152m、香具山は他の二山と違って火山ではなく、多武峰(とうのみね)山系から延びた尾根が、侵食で残った部分が独立峰に見えるようになった山。風土記では天から降ってきた山との伝承があり、大和三山の中で最も神聖視された山で、そこから「天の香具山」とも呼ばれている。


香具山のふもとにある畝尾都多本神社
畝は、うねうねしているところ、尾は、鳥獣のように山が裾を長く引いている所をさし、畝尾は山の裾のことをいう。古来、この神社の境内地全体を泣沢の森といい、水神として特に延命の神として仰がれている。


香具山中腹へ向かう行列


香久山中腹にある舒明天皇の万葉歌碑 →万葉アルバムへ


天の岩戸神社(香具山南麓にある)
天照大神の岩戸隠れの場所と伝承され岩穴を神体とする神社。同神社に磐座があることに着目して、これを太陽の昇る穴として、畝傍山と同神社を結ぶラインが、飛鳥時代以前にあった古代の「太陽の道」とする説もある。


大官大寺跡
香具山から南に位置しており、塔と講堂の土壇がわずかに残っている。礎石は明治時代の橿原神宮造営の際に持ち去られた。聖徳太子が平群額田部に建立した熊凝精舎がその起こりという。浄御原と藤原京時代には最も位の高い寺で、高市大寺とも呼ばれた。


甘樫丘での犬養さんの解説が始まる
甘樫丘は、大化の改新以前に、蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子が権勢を示すために丘の麓に邸宅を構えていたと考えられている。
標高は148mで、丘の北側にある展望台からは、大和三山、藤原京、飛鳥京などの風景を望むことができる。


甘樫丘からの眺め 畝傍山(左)、飛鳥川(右)、藤原宮跡と耳成山(右端)


甘樫丘からの眺め 八釣山(左)、飛鳥坐神社(左手前)、多武峯(中央)、飛鳥寺(中央手前)、真神原(右手)


飛鳥坐神社(中央)参道沿いの大和風民家


甘樫丘中腹にある志貴皇子の万葉歌碑 →万葉アルバムへ

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