飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(関西):大阪・吹田、千里南公園 茜さす

2011年09月29日 | 万葉アルバム(関西)

茜(あかね)さす紫野行き標野(しめの)行き
野守(のもり)は見ずや君が袖振る
   =巻1-20 額田王=


 茜色に輝く紫草が栽培されている天智天皇御領地の野で、あなたが私に袖を振っているのを、野の番人たちに見られてしまうではありませんか、という意味。

額田王の有名な歌だ。これに答えた天武天皇の歌とセットでの相聞歌である。

詳細は、万葉アルバム(滋賀、蒲生野の船岡山にある万葉歌碑)を参照

 大阪吹田の千里南公園の中に千里石ぶみの丘があり、ここに芭蕉や与謝野晶子がうたった俳句や短歌、万葉集などの句碑・歌碑が18基建っている。
この万葉歌碑は、その中のひとつで、船岡山万葉歌碑と同様、万葉歌原文で記されている。

(原文)
茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

千里南公園は私の大阪転勤時代の思い出の地で、自宅があった緑地公園から近かったので自転車で度々散策した公園だった。


万葉アルバム(関西):大阪、豊中不動尊

2010年08月30日 | 万葉アルバム(関西)

玉かつま 島熊山の 夕暮れに
ひとりか君が 山道越ゆらむ
   =巻12-3193 鏡王女=


 島熊山の夕暮れに一人であたなは山道を越えるのだろうか。という意味。

 千里丘陵の高峰として知られた島熊山(132m)は万葉集にも詠まれ、昭和37年に豊中市緑丘2丁目に建てられた豊中不動尊境内にこの歌碑が建てられている。

 大阪の北部を東西に走るモノレ―ルで、千里中央と小路の駅の小路寄りの北側の小高い山が「島熊山」だ。モノレ―ルが架設される前は千里中央から大阪空港行きのバス停に「島熊山」の名の停留所があったが、今はない。

 豊中不動尊は、大阪府豊中市にある不動尊。豊中不動寺ともいう。宗派は真言宗。本尊は不動明王。近隣住民からは「豊中の不動さん」と呼ばれている。祈祷を中心とする祈祷寺でもある。


万葉アルバム(関西):吹田市、千里南公園

2009年07月05日 | 万葉アルバム(関西)

石走(いはばし)る 垂水(たるみ)の水の はしきやし
君に恋ふらく 我が心から
   =巻12-3025 作者未詳=


“石走る”滝の水が、いとおしい。君に恋してる。僕は心から。という意味。

 “石走る”の万葉歌は、志貴皇子の歌が、あまりにも有名だが、
私は志貴皇子の歌に隠れて目立たない、この歌に惹かれる。

阪急南千里駅近くに、「千里南公園」というかなり大きな公園がある。
公園内に芭蕉や与謝野晶子の俳句や短歌と、万葉集などの句碑・歌碑が建っている。

私は43歳の時、大阪に赴任し御堂筋線「緑地公園」に家族と共に移り住んでいた。
「千里南公園」は家から自転車で程なく行けるところで、散策した思い出がある。
写真はその当時、何気なく写した歌碑であったが、今万葉アルバムを整理していると、無性に懐かしさがこみ上げてくる。風景や歌碑の写真は写した当時の自分史と照らし合わせて想い出を鮮明にしてくれる。



万葉アルバム(関西):兵庫、明石海峡

2009年06月02日 | 万葉アルバム(関西)

天離(あまざか)る夷(ひな)の長道(なかぢ)ゆ恋ひ来れば
明石の門(と)より大和島見ゆ
   =巻3-255 柿本人麻呂=


遠く隔たった地方からの長い旅路に、ずっと故郷を恋しく思いつつ戻って来たら、明石海峡から懐かしい大和の山々が見えてきたぞ。という意味。

柿本人麻呂が旅の途上に詠んだ歌。「鄙(ひな)」は、都の外の地をいう。
ここで詠っている「大和島」とは、瀬戸内の明石海峡から難波の津(大阪)を見た時に大和の生駒・葛城連山があたかも大きな島のように見えることからきている。

万葉歌碑がある明石の柿本神社は付近が人麻呂生誕地と伝えらている。

防人として出兵した人が故郷へ帰ってくるときに、瀬戸内海を通って明石まで来て大和島が見えた時、本当に故郷へ帰ってきたという実感を抱き舟の上で小躍りしている情景が目に浮かぶようだ。


万葉アルバム(関西):和歌山、得生寺

2009年05月19日 | 万葉アルバム(関西)

足代(あて)過ぎて糸鹿(いとか)の山の桜花
散らずあらなむ還(かへ)り来るまで
   =巻7-1212 作者未詳=


足代を過ぎてやって来たこの糸我(いとが)山の桜の花よ、私が帰ってくるまで散らないでいてくれ。という意味。

 「足代」は、和歌山県有田市を流れる有田川河畔。
糸鹿の山は、有田市糸我町の糸我山。JRきのくに線「紀伊宮原(きいみやはら)駅」で下車して、有田川に架かる宮原橋を渡って東南方向へ少し行くと得生寺(とくしょうじ)がある。この得生寺から南東に見えるのが雲雀山(ひばりやま)、真正面奧に嶺を東西に連ねるのが糸我山。この糸我峠を越えて、湯浅へと向かう道が熊野古道になっている。

この歌は糸我山を越えて湯浅あるいは栖原(すはら)に向かう旅人が、峠道にあでやかに咲く桜の花(万葉の桜はヤマザクラ)に心をなごませ、帰途ももう一度見たいと歌っている。また「帰り来るまで」という言葉には、旅の無事を祈る気持ちも託されている。

得生寺は、中将姫伝説ゆかりのお寺で、聖武天皇の御世、右大臣藤原豊成の娘中将姫が、継母に疎んぜられて紀伊国に追われて、かろうじて生き延びたのがこの雲雀山であった。

散りゆく山桜と中将姫伝説が交錯し合って、この万葉歌に一段と彩り濃いものとしているように感じる。
(リンク)中将姫伝説 得生寺


万葉アルバム(関西):兵庫、須磨海岸

2009年05月09日 | 万葉アルバム(関西)

須磨の海女の塩焼き衣(きぬ)の慣れなばか
一日(ひとひ)も君を忘れて思はむ
   =巻6-947  山部赤人=


須磨の海女の塩焼き衣を着慣れるように、あなたに慣れ親しんでしまったら、一日でもあなたのことを忘れることができるでしょうか。という意味。

「塩焼き衣」は、海水から塩を取るために塩焼きをするときに着る作業着のこと。
塩の製法は古代から海藻を利用する「藻塩焼き」という方法だったが、やがて砂を利用して濃い塩水を採取して煮つめる方法に移行した。初めは海浜の自然のままの砂面で採かんを行う「自然浜」で、8世紀ごろにはこの方法による相当な規模の塩産地が存在するようになった。
山部赤人は聖武天皇代の下級官人で、行幸の供などで広く各地を旅して詠んだ歌が多い。

万葉アルバム(関西):滋賀、蒲生野

2009年03月11日 | 万葉アルバム(関西)

茜(あかね)さす紫野行き標野(しめの)行き
野守(のもり)は見ずや君が袖振る
   =巻1-20 額田王=


 茜色に輝く紫草が栽培されている天智天皇御領地の野で、あなたが私に袖を振っているのを、野の番人たちに見られてしまうではありませんか、という意味。

天智天皇7年(668年)5月5日、新都、近江大津宮から1日の行程の蒲生野(がもうの)で、宮廷をあげての薬狩りが催された。薬狩りは鹿の角袋や薬草を採る、夏の宮廷行事だった。その折に額田王(ぬかたのおおきみ)が大海人皇子(おおあまのおうじ)に歌を贈った。


それに大海人皇子(のちの天武天皇)が答えた歌がある。
紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎くあらば
人妻ゆゑにあれ恋ひめやも
   =巻1-21 天武天皇=


紫のように美しい君よ。君を憎く思うのなら、人妻なのにどうしてこんなに想うものか、という意味。

額田王は初め大海人皇子の妻となり、十市皇女(とをちのひめみこ)を生んだが、後に天智天皇となった兄・中大兄皇子の後宮に入った。この歌の贈答には、額田王がかつての夫・大海人皇子の人目をはばからない求愛の行為に対して、口ではそれをたしなめながらも心ではひそかに皇子に好意を寄せている複雑な女心、そして、大海人皇子の大胆で率直な男心がみごとに表現されている。

この2つの歌は万葉集の中でも屈指の歌であり、最も人気の高い歌のひとつである。

 ムラサキ
ムラサキは上代の紫色の染料に使われ、これで染めた紫色は最も喜ばれた色彩だった。
夏に白色の花を開く。今では数も少なくなりつつある。

 「蒲生野」の写真は蒲生野にある太郎坊宮本殿付近から撮ったもの。今は豊かな水田地帯に変わっている。中央の横に長い小山が万葉歌碑が建っている船岡山である。

「船岡山の万葉歌碑」は、自然の巨岩に「元暦校本万葉集」の原本そのままの文字を彫りこんだ石板になっている。船岡山は蒲生野の真っ只中にあり、近江鉄道市辺駅からすぐのところにある阿賀神社のうしろに位置している。


万葉アルバム(関西):大阪吹田、垂水のさわらび

2009年02月10日 | 万葉アルバム(関西)



石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の
萌え出づる春になりにけるかも
   =巻8-1418 志貴皇子=


岩の上を勢いよく流れる滝のほとりに、わらびがやわらかに芽吹いている。ああ、春になったのだなあ、という意味。

天智天皇の皇子である志貴皇子の代表作のひとつ。
自分は天皇になれずに、いつも日陰の存在だったが、
自分の子が光仁天皇になったという喜び、
その時に歌ったかどうかわからないが、じっと耐えてきた気持ちが出ている。

ワラビ