震災による死者は1万5899人。この10年間で3767人が関連死と認定され、今も2526人の行方が分かっていない。
避難者はピーク時の約47万人から減ったが、今なお4万1241人にのぼる。岩手、福島両県ではプレハブなどの応急仮設住宅に24人が暮らす。5人が暮らす福島県は来年3月末まで期間を延長した。
復興の証しは、いつ、何によって得られるのだろうか?
【震災10年】ゴールわからず走り続ける「廃炉」 法的義務なく…現状のまま“終了宣言”も
野村昌二2021.3.11
AERA 2021年3月15日号より抜粋
未曽有の原発事故から10年。今も続く廃炉の現場は、課題山積。しかも東電は、「廃炉終了の定義」を明確にしないまま「廃炉」を進める。残された年月は20~30年。AERA 2021年3月15日号で「フクシマ」の未来を考えた。
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「ピーピッピッピッ」
胸の線量計が、不快な電子音をあげた。異臭がするわけでも、空から何か降ってくるのが見えるわけでもない。だが、私服姿でいられるほどの低い線量であっても、放射線を浴びているのだと実感した。
福島を、日本中を震撼させた東京電力福島第一原発で起きた史上最悪レベルの事故。2011年3月11日、東日本大震災による津波で原発内の電気の供給が途絶え原子炉を冷却できなくなり、全6基のうち運転中の1~3号機が炉心溶融(メルトダウン)を起こした。さらに、炉心溶融で発生した水素が爆発し1、3、4号機の建屋が吹き飛び、大量の放射性物質が大気中に放出された。11年12月、国と東電は廃炉を「30~40年後」、最長で「2051年」に終了する「中長期ロードマップ(工程表)」を発表した。
未曽有の事故から10年。廃炉作業はどうなっているのか。2月下旬、原発構内に合同取材団の一員として入った。
■「廃炉」に向けて進むも当初の工程から大幅な遅れ
水素爆発を起こした1号機の原子炉建屋最上階は、ひしゃげた鉄骨がむき出しで残り、コンクリートのがれきが散らばっているのが高台から見える。
「昨年5月に、倒壊の危険性があった1号機横の排気筒を半分の高さに解体する作業が終わり、日本海溝で巨大地震が発生した場合に備えるための防潮堤の整備も進んでいます」
案内してくれた東電廃炉コミュニケーションセンターの木元崇宏副所長は、説明する。この1年で劇的な変化はなかったが、一歩ずつ廃炉に向け進んでいると。だがその歩みは、当初の工程から大幅に遅れている。
廃炉の最難関とされる1~3号機の原子炉に溶け落ちた高濃度の核燃料(燃料デブリ)の取り出しは本来、21年中に2号機から行う計画だった。そのために使用する専用ロボットアームを英国で開発していたが、新型コロナウイルスが猛威を振るい日本に輸送するメドが立たなくなった。昨年12月、国と東電は燃料デブリの取り出し着手を1年程度延期すると発表した。
ほかにも廃炉作業は課題が山積している。燃料デブリの次に重要な使用済み燃料プール内に残る核燃料の取り出しは3号機と4号機で終わった。だが、メルトダウンして建屋内の放射線量が高い1、2号機は手つかずのままだ。
敷地南側には、1千基余りの処理済みの汚染水を入れたタンクがびっしり立ち並ぶ。タンクが満杯になるのは「22年秋ごろ」(東電)。海洋放出が有力視されるが、風評被害を心配する漁業者の反発は必至で、これも難題だ。残り約30年で廃炉作業を終えることはできるのか。先の木元副所長は、
「工程最優先ではなく安全を大前提に、その時その時のベストをつくしたい」
とだけ話した。
廃炉制度研究会代表で、『原発「廃炉」地域ハンドブック』(東洋書店新社)の編著もある尾松亮さんは、廃炉の最大の問題点は「廃炉とは何かを規定した法律がないことに尽きる」と指摘し、こう続ける。
「このままだと、燃料デブリは取り出せない、原子炉も解体されない、廃棄物も敷地内に残ったままという状態であっても51年に廃炉終了宣言を出せます。しかし、それは違法ではない。ここまでやらなければいけないという法的義務がないからです。法的に定義がない以上、東電はここまでやらなければいけないという義務もありません。国も東電も、何が完了したら福島第一原発の廃炉完了かという法的定義のないまま、30~40年後の終了を目指し作業を進めているのです」
■ゴールがわからないまま走り続けるようなもの
何をもって廃炉を終えたとするのか。実は、このことが決まっていない。通常「廃炉」は、運転を止めて核燃料を運び出し、原子炉や建屋を解体して更地に戻すことを指す。だが、福島第一原発の工程表に、その姿はない。
本誌は、東電の廃炉部門のトップ、福島第一廃炉推進カンパニーの小野明氏(61)に話を聞いた。
「福島第一原発の廃炉の定義は、放射性物質によるリスクをどうやって低減していくか。ただ、『廃炉の最終的な姿』はわれわれ一事業者が決められるものではない。いろいろな人の意見を聞きながら、コンセンサスをとって最終的な姿を決めていくことになると思う」
と言葉を濁す。では、仮に51年に燃料デブリを取り出せていなくても「廃炉終了」を宣言するのか、しないのか。
「今の状態ではよくない。きちんと取り出し管理できる状態に持っていけるように取り組むことが大切だ」
逆に、燃料デブリを取り出せたとしたら、いつまで原発敷地内に置いておくのか。小野氏が続ける。
「処分方法はまだ明確には決まっていないので、燃料デブリの性質を取り出した後に調べ上げ、どんな形での処理や処分がいいかを事業者が中心になって考えていかなければいけない」
小野氏は、この10年間で敷地の96%のエリアで防護服が不要になるなど現場の作業環境はかなり改善された、「計画的」かつ「戦略的」に廃炉を進める環境が整ってきたと強調する。
だがしかし、廃炉の姿が不明確なまま作業を続けるのは、ゴールがわからないまま走り続けるようなものだ。しかも残された年月は20~30年。トラブルが続き多くの作業がずれ込む中、目標の厳しさは明らか。それがなぜ可能なのか。最後にこの質問をぶつけると、
「国内外での様々な技術や英知、これらをうまく活用することによって達成できると信じていますし、今後しっかりとやっていきたい」
と述べるにとどまった。
海外の廃炉事情に詳しい尾松さんによれば、事故炉の廃炉は「最終形」をあらかじめ設定するのが重要というのが国際的な認識だという。
東電が「廃炉」の見本にした、1979年に起きたスリーマイル島原発の事故では、実は安全重視で原子炉解体に着手せず、事故から「40年後」を迎えた。今後、他の原発同様に原子炉解体・更地化を目指すことになる。86年に福島第一原発と同じ「レベル7」のチェルノブイリ原発事故を起こした旧ソ連ウクライナでは、事故から12年後の98年、議会が「チェルノブイリ廃炉法」を制定。廃炉を「燃料デブリを取り出し安全保管するまで」と定義し、作業員の安全保護、必要な予算編成義務なども定めた。廃炉実施には国営企業が責任を負っているという。
「チェルノブイリ廃炉法制定の前に、まず国際世論の高まりがありました。爆発が起きた4号機を覆う石棺をそのまま放置し火災でも起きたら再び大惨事になりかねない。そこでEUやG7の要請もあり新安全シェルターを建設する計画が始まり、16年に設置します。でもシェルターを被せて終わりではウクライナ国民は納得せず、議会で『将来のデブリ取り出し』を義務づける廃炉法が制定されたのです」(尾松さん)
■除染と廃炉が心配で戻りたくても戻れない
対して日本は、「廃炉とは何をすることか」を真正面から議論することを避けてきた。結果、51年になってどんな状態であっても「廃炉は終了した」と言える状態をつくったと尾松さん。
「東電と政府に縛りが必要です。縛りを与えるのは、法律しかありません。法的定義を定めてこなかった国会の責任もありますが、国民も争点にしてきませんでした。ただ、チェルノブイリで廃炉法ができたのは事故から12年後。日本も、10年という節目で廃炉法の策定を議論し、まず次の衆院選で争点にしていく必要があります」(同)
廃炉の遅れは、地域の将来を左右し、住民の帰還にも直結する。
原発事故で避難を余儀なくされた福島県内の11市町村(※)に出された避難指示は、今は沿岸部を中心に7市町村(※)になり、面積も当初の約3割に当たる約337平方キロに縮小した。だが避難指示が解除された地域の居住率はわずか29.9%(2月現在)。17年3月に避難指示が一部解除された浪江町や大熊町は1割を切る。さらに、帰還する住民は65歳以上の高齢者が多く、川俣町山木屋地区では6割に達し、飯舘村、大熊町、楢葉町は5割以上と、「限界集落」と呼ばれるほどの数字になっている。
原発事故で浪江町から静岡県富士市に家族で移り住んだ堀川文夫さん(66)は、心情を吐露する。
「もちろん帰りたい。でも帰れない」
生まれ育った浪江は海も山もあり、自然豊かな場所だった。大学とその後の10年は東京で過ごし、浪江に戻り小中学生向けの塾を開いた。しかし、原発事故で何十年もかけて築いた自分の土台が奪われた。故郷を追われ、縁もゆかりもない今の場所に辿り着いた。
実家のあった場所は17年に避難指示解除となった。堀川さんにとって、浪江は自分の存在の全てだった。だがその町に、除染と廃炉が心配で戻りたくても戻れないと声を絞り出す。
「町の8割近くを占める山林の大部分は除染をしていません。廃炉はいつ終了するかわからず、冷却を続けている今も危機的状況にあり、同じような事故がいつ起きないとも限りません。子どもや孫も呼べないところに戻れない」
福島県郡山市から都内に自主避難している男性(40代)も、こう話す。
「廃炉が終わってもいないのに、田舎に帰るのはありえない。心が落ち着くのはまだまだ先です」
(編集部・野村昌二)