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戦争と平和のリアル

2017年08月04日 | 社会・経済

「戦争したいのは誰なのか」戦争と平和のリアル

       望月衣塑子「歴史に学ぶ」2017/5/31

   2016年4月、科学者の国会ともいえる、日本学術会議の大西隆会長が、あくまで私見としながらも、それまで日本学術会議が掲げてきた「軍事研究の否定」を覆すかのような発言をした。それを受け、日本学術会議内に「安全保障と学術に関する検討委員会」が立ち上げられ、2017年3月までに全11回の委員会が開催された。そこには毎回、委員会閉会後すぐに報道席から委員席に駆け寄り、いわゆる、ぶら下がり取材をする東京新聞の望月衣塑子(いそこ)記者の姿があった。望月記者は武器輸出関連企業や防衛省、国会議員にも取材を続けてきた。

 武器輸出に向けた動きが活発化

 「私はもともと社会部で千葉や埼玉の県警や東京地検特捜部などを取材、日本歯科医師連盟のヤミ献金疑惑などを担当してきました。しかし出産後、経済部に配置換えになり、正直戸惑っていました。そんな私に、上司がすすめてくれたのが武器輸出問題でした。2014年4月、第2次安倍内閣が『防衛装備移転三原則』を21人の閣僚のみで閣議決定、武器輸出の方向に大きく舵を切った頃です」

 輸出、となれば確かに経済の問題でもある。しかし軍事にも政治にも、さして興味のなかった彼女が、いわば周辺取材である日本学術会議の委員会に毎回参加、積極的にかかわっているのはなぜなのか?

「まず手始めに、関連企業や防衛省、国会議員など様々な人を相手に、それまでの人脈がほとんど使えない状態で取材を始めました。当初は企業には取材拒否され、関係官庁からは締め出され、防衛省幹部からは説教されるといった状態が続きました。それでも、実態として武器輸出が解禁になったことで、にわかに武器輸出に向けた動きが活発化していくのを見ていて、大きな危機感を感じたのです。

 14年6月、パリにおいて隔年で行われている世界最大規模の陸戦兵器およびセキュリティー関連製品の展示会『ユーロサトリ』に、初めて日本のブースができ、日本企業が参加しました。それまでも海外にある子会社が参加したことはあったものの、解禁というお墨付きを得た感があったのではないでしょうか。

 15年5月には、海洋防衛およびセキュリティーの国際的総合展示会『MAST Asia 2015』が日本で初めて横浜で開催されました。イギリスの民間企業マスト・コミュニケーションが主催するこの展示会は、防衛省に加え、外務省と経済産業省とが後援しました。

 アメリカの軍事企業大手ロッキード・マーティン社をはじめとする防衛企業や団体が125参加し、日本からも海上自衛隊と、三菱重工業や日立製作所、川崎重工業など企業13社が参加しました。NECと極東貿易は日本ブースとは別に、単独で社名の入ったブースを出していました。欧米を中心に中東やアジアなど39カ国の海軍幹部も参加し、来場者数は予想を倍近く上回る3795人だったそうです。

 政府や防衛省は“防衛装備品”という言葉を使っていますが、その内容は武器そのものです。経済産業省のホームページでも『防衛装備とはなんですか?』という問いに『防衛装備とは、武器及び武器技術のことをいいます』と回答しています」

 韓国PKO部隊に武器弾薬を無償提供

  防衛装備という冠のついた防衛省の外局「防衛装備庁」が設立されたのは同じ2015年10月のことだった。

「武器輸出三原則の見直しについて注目されるようになったのが第2次安倍内閣になってからということもあり、これを推し進めてきたのは自民党という印象を持たれる方が多いのではないでしょうか。

 実は民主党政権下、鳩山政権のときすでに、当時の北澤俊美防衛相が見直しを検討したいと発言していました。次の菅直人政権下でも見直しを盛り込む方向だったものの、社民党との連携を重視し、見送る結果となりました。しかし野田佳彦政権下では改めて見直しの可能性を示唆、イギリスのキャメロン首相との会談で、アメリカ以外ではじめて、武器の共同開発を進める方針で合意したという経緯があります。

 自民党が与党に復帰した第2次安倍内閣の下、13年12月に『国家安全保障会議(日本版NSC)』が発足、同月、緊急の必要性と人道性が極めて高いという理由から、南スーダンの韓国軍の国連平和維持活動(PKO)部隊に対して、1万発の弾薬の無償提供を許可しました。

 それまで自民党政府においても、『国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(PKO法)』第25条の『物資協力』に武器や弾薬、装備は含まれないとしてきたのに対し、安倍政権は『PKO法には武器弾薬という適用除外は明記されていない』と説明、この弾薬無償提供について過去の政府答弁との整合性を主張しました。適用除外が明記されていないものが無償提供できるとしたら、歯止めがないのと同じです」

 これらと同時期に進められていたのが、オーストラリアの潜水艦事業の受注だった。当時、首相が親日派のアボットで日本に有利という下馬評はあったものの、防衛省内でさえ、機密の多い潜水艦の輸出はハードルが高すぎると話す幹部がいた。それでも日豪首脳会談や外務・防衛閣僚会議などが行われ、16年2月には三菱重工業の宮永俊一社長自らが現地入り、4月にはそうりゅう型潜水艦「そうりゅう」と現地海軍とで共同訓練も行うなど積極的な活動が見られた。ところが……。

「アボット首相から親中派のターンブル首相に代わった15年9月から、潮目が変わった、という声がありました。それが的中、16年4月26日、受注先がフランスに決まったという発表がされたのです。関係者にはまさに衝撃の結果だったことでしょう。

 一方で、安堵の声も聞かれました。潜水艦というのは、1400社がかかわり、機密性の高い技術や部品が集約されています。その機密流出を阻止する対策や支援体制は皆無で、受注が決まってからそれらを決めるとしていることに、不安を感じる関連企業の人たちが数多くいたのです。安全保障関連法にしても、テロ等準備罪(共謀罪)にしても、何かにつけて現政権は早急がお好きなようです。

今回の件ではまだ不安要素があります。フランスが受注したとはいっても、原子力潜水艦を通常動力型の潜水艦にするという案のため、実際には“絵に描いた餅”という声があがっています。そうなれば、また、日本の出番とばかりに売り込みが始まる可能性もあるのです」

 テロリスト掃討作戦で犠牲になる市民

  この間に、望月氏は一人の少女の存在を知る。彼女の名前はナビラ・レフマンさん。12年10月、パキスタンにおいてアメリカと多国籍軍がイスラム過激派掃討作戦として行った無人攻撃機による誤爆で祖母を失い、自らも含め兄妹や従兄弟たち9人がけがを負った。

「無人攻撃機の残虐性を訴えるため世界中を回っていたナビラさんは、15年11月に来日、超党派議員団に面会を求めました。面会が実現しないまま帰国したと聞き、どうしても彼女の思いを知りたくなりました。そこで、ナビラさんを支援する現代イスラム研究センターの宮田律(おさむ)理事長を通じて、パキスタンにいる彼女の弁護士を介し、『爆撃でテロリストを殺せたかもしれませんが、テロ行為は増えています。爆撃ではなく、教育による支援で私たちを悲劇から救い出して欲しい』との切なる思いを聞きました。

   テロリストの掃討作戦では、標的のテロリストの他に多くの市民が犠牲になっているという事実があります。

 16年10月12日から15日には、東京ビッグサイトで『2016国際航空宇宙展』が行われました。宇宙展とはなっていますが、レーザー誘導弾やオスプレイ、空対空ミサイルなども出展されていました。

   この年から、日本ではドローン市場に特化した国際展示会も行われており、17年も3月23日から25日まで、千葉の幕張メッセで『Japan Drone 2017』が開催されました。日本ではドローンに関して運送業や物資支援に有効といった報道がメインですが、アメリカ空軍のデータによれば、アフガニスタンでは通常の戦闘機よりも、自国の兵士の犠牲のないドローンによる空爆の比重が高まっています。近代の戦争は地上戦ではなく、航空優勢を確保できた者が勝つという構図になっているからです」

 軍事関連費が戦後最大に

 こうした動きとは別に注目を集めたのが、冒頭に挙げた日本学術会議の「安全保障と学術に関する検討委員会」である。通常の委員会を受けて、2017年2月4日には公開シンポジウムも開催され、同会議の会員以外も含め300人以上が参加し、議論を重ね、3月24日には声明が発表された。

「声明案を4月7日の総会にかけるべきとの意見もありましたが、前倒しで幹事会の場で声明が決定しました。総会決定の重みが薄れたとの指摘もありましたが、大西会長ら軍学共同の推進論者が委員にいる中で、1950年の『戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない』、67年の『軍事目的のための科学研究を行わない』の二つの声明を継承する、との方針を、具体例を提示しつつ何とか打ち出しました。しかし、防衛装備庁が始めた助成金制度への応募禁止には言明できなかったことへの懸念もささやかれています。

 大学への研究費を削るいっぽうで、この制度については、初年度から毎回研究費の金額がアップし、平成29年度は、28年度の6億円から110億円と18倍になりました。応募数は27年度の109から28年度は44と激減しましたが、29年度はどうなるのか、心配です。

 大学における軍民両用のデュアルユース品の研究・開発に拍車をかけるのは“国策”という言葉かもしれません。しかし、国策として原子力発電事業に舵を切った東芝は、皆さんご存知の通り、大きな危機に瀕しています」

 増額しているのはこの研究費だけではない。2016年12月22日に閣議決定した予算案では、日本の防衛関係費は5年連続で増額、5兆1251億円と戦後最大となった。

「今年の4月24日に、スウェーデンのストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が、『2016年世界の軍事費』を公表しました。

  1位はアメリカで年間6110億ドル(約67兆円)、意外に思う人もいるかもしれませんが、日本は461億ドルで前年と同じ8位に入っています。先日、国産初の潜水艦が話題になった中国の軍事費は、あくまでSIPRI の見積もりになりますが2150億ドルで第2位です。

 私は、日本は防衛費を増加して抑止力とするのではなく、したたかに外交戦略、対話戦略を続けるしかないと思います。こんなことを言うと、理想を語ってどうすると反論する人がいます。しかし、対中国で考えると、軍事費にこれだけの差があり、戦闘機の数も圧倒的に少なくては、対抗できるはずがありません。だからといって中国と同等の軍事費を捻出することも不可能です」

 “いつか来た道”を歩んではいけない

  それでも、北朝鮮の脅威から、防衛費増額に賛成する人が増えつつある。また、今後、トランプ大統領からアメリカ基地への思いやり予算(「在日米軍駐留経費負担」)の増額要求があるかもしれない。アメリカが守ってくれることに期待する国民はこれにも反対しないかもしれない。

「国民の空気が、軍事拡大が必要である、という方向に変わっていくことが怖いですね。それは、日本が“いつか来た道”を歩み始めるということにほかなりません。

 これまでは、武器輸出で自国製の武器を売り、それが使われたとき日本は、間接的に戦争しているのと同じことになる。そうなれば武器関連の企業に限らず、研究開発している企業、大学や研究機関もテロの標的になる危険性が数段アップすることにつながると警告してきました。しかし、いまや、間接的ではなく、直接戦闘に加わる危機がすぐそこまで来ているのかもしれません。

 取材をしてきた関係者の中には、あくまで個人的な意見、あるいは名前を出しては困るとの前置きをして、本音を語ってくれる人たちがいます。その多くが、戦争をしたいなどとは考えていません。いったい戦争をしたがっているのは誰なのでしょうか?

 先の戦争に向かわせたのは、政府や軍人だけではありません。何かに誘導されて国民自身が戦争を後押しする。

そんな時代が繰り返されないことを、切に願っています」

 

望月衣塑子  東京新聞社会部記者

   1975年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、東京・中日新聞に入社。社会部記者として千葉、埼玉など各県警、東京地検特捜部、東京地方裁判所、東京高等裁判所などを担当。出産後、経済部に復帰。現在は社会部に戻り、武器輸出、軍学共同などを主に取材。主な著書は『武器輸出と日本企業』(2016年、角川新書)、共著は『武器輸出大国ニッポンでいいのか』(16年、あけび書房)。(2017.5)


マルクス 『ゴータ綱領批判』 「労働におうじて」・「必要におうじて」の 史的唯物論的解釈 と 『資本論』 「必然性の国」から「自由の国」への 弁証法的発展

2017年08月04日 | 本と雑誌

  マルクス

 

『ゴータ綱領批判』

「労働におうじて」・「必要におうじて」の史的唯物論的解釈

    

 

 『資本論』

「必然性の国」から「自由の国」への弁証法的発展

 

 

 

 

                                          

 

 

構成

 1 はじめに

2「二段階論」“定説”とは何か

3.「二段階論」マルクスの立場

 A第一段階―「労働におうじて」の意味

ⅰ 剰余労働の社会的取得

ⅱ この労働は「価値」を形成するか(呪物的性格からの脱却)

ⅲ 「共同体」とは

 Bより高度な段階―「必要におうじて」の意味

歴史上存在した「社会関係」

 C二つの段階の違いは何か

4『資本論』 「必然性の国」から「自由の国」へ

 A 発展の弁証法

 B 新たな労働の誕生=物質的生産の彼岸

5むすび

 

 

 1 はじめに

 

  マルクスの没(1818年5月5日 - 1883年3月14日)後およそ1世紀半、2018年は生誕200年の記念すべき年だった。 マルクス、エンゲルスが明らかにした「社会主義」・「共産主義」社会であるが、まだその経済的基礎や、その移行のメカニズムは解明されていない。 いや、理解されていないというべきであろう。 マルクスは『資本論』で資本主義のメカニズムを明らかにしたが、「社会主義」「共産主義」社会とはどのようなものなのか、さらには「資本主義社会」から「社会主義」「共産主義」社会へと進むメカニズムについては何も記述してはいないというのが大方の研究者たちの見解のように思う。 しかし、わたしは『資本論』の中に必ず何らかのヒントがあるはずであるとの確信をもって読み進めた。

 

  2011年3月11日、東日本大震災が襲い、世界の人々に大きな衝撃を与えた。 それは、被害の大きさもあるが、日本人の秩序ある行動、助け合う心に驚愕と称賛が与えられたのだ。 発達した資本主義社会においての大量生産、大量消費の社会の中で、見失われたものの再確認と、これからの社会はどうあるべきかを考える大きな契機となり、新しい世界、人間としての豊かさを実現する新しい意識革命へとつながってほしいと思う。それからすでに10年、安倍政権の誕生により「おもいやり」や「やさしさ」が吹き飛ばされ、「攻撃」と「自己責任」が表面だってしまった。そして今、世界的規模のコロナ禍のもと、コロナ後の新しい社会・世界はどうあるべきかを人々に提起している。さらに「気候格差」が一般に認識され、特に選挙権を持たない若い人たちが「システム・チェンジ」を求め活動を広めていることは心強い。

 

  公害、自然破壊、地球温暖化や異常気象、基地問題、原発問題、格差社会、貧困問題、非正規雇用と長時間労働、等々、経済発展最優先から、人々の「幸せ」を優先する、生産を我々が制御しつつ発展する、発達した資本主義諸国の「未来社会論」の構築が今求められている。 「経済」最優先の社会から「生産を制御する社会」がますます重要なキーワードとなるであろう。 資本主義社会の「終焉」を迎えた後には資本家のためではなく、人々のための生産活動が展開される。利潤追求社会から、人々の「幸せ」のための生産活動に。

 

  アメリカやイギリスという資本主義先進国の若者達が、矛盾に満ちた資本主義社会に見切りをつけて「社会主義」「共産主義」への関心を高めている。

資本主義の終焉を高らかに叫びたいのだが、その後の社会の「システム」がわからない。ソ連、中国への道はごめんなのだ。史的唯物論の立場から「社会主義」「共産主義」社会を定礎するマルクスの理論を再確認することは喫緊の課題である。 マルクスが示した「道」―確固とした「社会発展の理論」―を提示しなければならない。

 

世界には「社会主義を目指す国」が少なからず存在する。 しかしながら、その実体としての経済的革命を成し遂げるまでには至っていない。 その道筋を明らかにしなければならない。 いまだ社会主義社会にたどり着いた国家は存在しない。 過渡期にある「社会主義諸国」は真の社会主義国家へと導く「経済革命」を成し遂げなければならない。しかしながらその道筋が明らかにされていない。

「模索」の段階であり、その「模索」が社会主義運動にとって有害なものになり、それが新たな「反共」攻撃にさらされている。その根本にあるのが「市場経済を通じて社会主義へ」と言う理論の下で発生しているのは明らかである。これが「主」となるべきではない。社会主義社会の経済体制は生産手段の私的所有を解き放し、剰余労働を働く人々の社会的所有に切り替えることにある。

*剰余労働〈自分と家族を養うのに必要な労働を必要労働といい、その労働時間を超えて遂行される労働を剰余労働という。支配階級がこの剰余労働を取得する。〉

 

 「社会主義」とはなにか?

 「共産主義」とは何か?

 

  残念ながらマルクス、エンゲルス以降「社会主義」「共産主義」の定義があやふやになっている。いまだ「社会主義」とは何か、「共産主義」とは何かという根本的概念が定まっていないのである。 むしろ「私有財産の否定」だの「生産手段の共有」などという断片的な定義が固定化されてしまったように思う。

 

  マルクスが『ゴータ綱領批判』で述べた共産主義社会の二つの段階。 その第一段階を「労働におうじて」の社会、より高度な段階を「必要におうじて」の社会、と規定した。 この二つの社会を何によって区分したのか、という問題であり、それによってどのような社会が定礎されるのかという問題である。その前に、この文章が共産主義の二つの段階を「規定」したものなのかどうか、再確認が必要だろう。

 

  わたしが初めて「ゴータ綱領批判」を読んだ学生時代、とても違和感を覚えた。 「なぜマルクスはこんなことを言ったのだろうか? 」この疑問は近年まで続いた。「二段階論」は「俗流社会主義」による解釈から今日まで、分配論として分配の方法の違いによって区分したものとして扱われてきたし、今もなおそうである。

 

  ここでは、マルクスの「二段階論」の新たな解釈を試みる。 とはいえ、それはマルクスの一貫した立場「史的唯物論」と「弁証法唯物論」の立場を明らかにするということに過ぎない。 マルクスの立場を明らかにしつつ、二つの段階の違いを確認しようと思う。 当然、『社会主義』とは何か、『共産主義』とは何か、その経済的基礎を明らかにし、新たな時代の展望を切り開いていきたい。

 

2 いわゆる”定説“とは何か

 

   一般に「労働におうじて」の社会とは、(商品)交換を前提とした価値法則の貫徹する賃労働をそのまま継承した社会と考えられている。また「必要におうじて」の社会とは、生産力が高度に発展し、欲望を上回るほどの高度な生産力を持った社会、「なんでもかんでも好きなだけ受け取れる社会」として捉えられてきた。

 

  レーニンは国家消滅の経済的基礎は、現代では想像もつかさないほどの生産力の発展であると言い、その具体的な時期や方法については、解明の「材料がない」と言う。そのために、どのようにして「分業と手を切り、精神労働と肉体労働の対立を廃絶し、労働を『第一の生命欲求』に転化する」のか、「われわれはそれを知らないし、知ることは出来ない。」(『国家と革命』新日本文庫 聴濤弘訳P131)と断言してしまった。

  その後に続く研究者達も、ここから先に進むことができなかったし、レーニンの断言は新たな研究者を排除し、次第に「未来社会論」についての関心を薄れさせてしまったように思う。

  マルクスの史的唯物論の立場を「俗流社会主義」が「分配を生産様式から独立したものとして考察」するブルジョア経済学を受けつぎ、二つの段階を区分するものとして分配の仕方の違い、すなわち「労働におうじて」か「必要に応じて」かの違いだとして考察されてきた。これが、いわゆる”定説“と呼ばれるものである。

 

  そして形は変わるが、レーニンの『国家と革命』へと受け継がれ、さらにさまざまな形態をとりつつも、基本的には生産様式から独立した「分配論」がいまもなお君臨し続けている。

 

  「国家の完全な死滅の経済的基礎は、精神労働と肉体労働の対立がなくなり、したがって現代の社会的不平等のもっとも重要な源泉のひとつ、しかも、生産手段の社会的所有への移行だけでは、資本家を収奪するだけでは、すぐに除去することはけっしてできないような源泉がなくなるほど、共産主義が高度に発展することである。

 ・・・この発展が、どれほど早くおこなわれ、それが、分業と手を切り、精神労働と肉体労働の対立を廃絶し、労働を『第一の生命欲求』に転化するところまで、どれほど早くすすむか、われわれはそれを知らないし、知ることはできない。

  したがって、われわれは、国家の死滅の不可避性についてのみ正当に語ることができ、・・・死滅の時期や具体的形態についての問題は、まったく未解決のままにしておくのである。なぜなら、この問題を解決するための材料はないからである。

  国家は、社会が『各人はその能力に応じて、各人にはその欲望に応じて』という準則を実現したとき、すなわち、人々が共同生活の基本的規則を守ることに十分になれ、かれらの労働が十分に生産的なものとなり、そのため人々が自発的に能力に応じて労働するようになったとき、完全に死滅することができるであろう。・・・そのときに、各人によって受け取られる生産物の量を社会の側から規制することを必要としない。各人は『欲望に応じて』自由に取るであろう。

    ・・偉大な社会主義者の予見は、今日の労働の生産性を前提とするものではなく、また社会的富の倉庫を『いたずらに』荒らしたり、また不可能なことを要求したりする今日の俗物を前提とするものではないからである。」(『国家と革命』第五章 国家死滅の経済的基礎  四 共産主義の高い段階 新日本文庫 聴濤弘訳130-132ページ)

 

  マルクスが、『「ゴータ綱領」批判』で述べているその箇所は「分配論」であると多くの研究者たちは何らかの疑問は持ちつつも今日まで流されてきたといえるのではないだろうか。しかもマルクスはその数ページ後に「分配論」を退けているのだ。

  この「分配論」らしき記述は、史的唯物論の立場からは、生産関係を表す記述として捉えなければならなかったのではないか。つまりマルクスは、ここで述べていることは「分配」に関してではないのではないだろうか。この二つの段階を区別したマルクスの理論的背景を明らかにしていかなければならない。

 

3 「二段階論」マルクスの立場

 

  社会を区分するものは、経済的基礎としての生産力と生産関係による。それがマルクスの史的唯物論の立場である。分配の仕方もおのずと、その生産的基盤によって規定される。ではその立場とは具体的にどのようなことなのか二つの社会に即して考察していこう。

第一段階―「労働におうじて」の意味

      長い引用になるが、「共産主義社会の第一段階」を表す重要な部分である。

 

  「生産手段の共有を土台とする協同組合的社会の内部では、生産者はその生産物を交換しない。同様にここでは、生産物に支出された労働がこの生産物の価値として、すなわちその生産物にそなわった物的特性として現れることもない。なぜなら、今では資本主義社会とは違って、個々の労働は、もはや間接にではなく直接に総労働の構成部分として存在しているからである。・・・

  ・・・ようやく資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会である。したがって、この共産主義社会は、あらゆる点で、経済的にも道徳的にも精神的にも、その共産主義社会が生まれでてきた母胎たる旧社会の母斑をまだおびている。したがって、個々の生産者は、彼が社会にあたえたのと正確に同じだけのものを―控除したうえで―返してもらう。個々の生産者が社会にあたえたものは、彼の個人的労働量である。…個々の生産者はこれこれの労働(共同の元本のための労働分を控除したうえで)を給付したという証明書をもって消費手段の社会的貯蔵のうちから等しい量の労働が費やされた消費手段を引き出す。個々の生産者は自分が一つのかたちで社会にあたえたのと同じ労働量を別のかたちで返してもらうのである。

  ここでは明らかに、商品交換が等価物の交換であるかぎりでこの交換を規制するのと同じ原則が支配している。内容も形式も変化している。なぜなら、変化した事情のもとではだれも自分の労働のほかにはなにもあたえることができないし、また他方、個人的消費手段のほかにはなにも個人の所有に移りえないからである。しかし、個人的消費手段が個々の生産者のあいだに分配されるさいには、商品等価物の交換の場合と同じ原則が支配し、一つのかたちの労働が別のかたちの等しい量の労働と交換されるのである。

  だから、ここでは平等な権利は、まだやはり―原則上―ブルジョア的権利である。もっとも、もう原則と実際とが衝突することはない。ところが、商品交換のもとでの等価物の交換は、たんに平均として存在するだけで、個々の場合には存在しないのである。

  こんな進歩があるにもかかわらず、この平等な権利はまだつねにブルジョア的な制限につきまとわれている。生産者の権利は生産者の労働給付に比例する。平等は、等しい尺度で、すなわち労働で測られる点にある。だがある者は、肉体的または精神的に他の者にまさっているので、同じ時間内により多くの労働を給付し、あるいはより長い時間労働することができる。そして労働が尺度の役をするには、長さか強度かによって規定されなければならない。そうでなければ、それは尺度ではなくなる。この平等な権利は、不平等な労働にとっては不平等な権利である。だれでも他の人と同じく労働者であるにすぎないから、この権利はなんの階級区別をも認めない。しかしそれは労働者の不平等な個人的天分と、したがってまた不平等の給付能力を、生まれながらの特権として暗黙のうちに承認している。だからそれは、内容からいえばすべての権利と同じように不平等の権利である。権利はその性質上、等しい尺度をつかう場合にだけなりたちうる。ところが、不平等な諸個人(そしてもし不平等でないなら別々の個人ではないだろう)を等しい尺度で測れるのは、ただ彼らを等しい視点のもとにおき、ある一つの特定の面だけからこれをとらえるかぎりにおいてである。例えばこの場合には、人々はただ労働者としてだけ考察され、彼らのそれ以外の点には目は向けられず、ほかのことはいっさい無視される。さらに、ある労働者は結婚しており、他の労働者は結婚していないとか、ある者は他の者より子供が多い等々。だから、労働の出来高は等しく、したがって社会的消費元本に対する持ち分は平等であっても、ある者は他の者より事実上多く受け取り、ある者は他の者より事実上多く受け取り、ある者は他の者より富んでいる、等々。すべてこういう欠陥を避けるためには、権利は平等であるよりも、むしろ不平等でなければならないだろう。

  しかし、こうした欠陥は、長い生みの苦しみののち資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会の第一段階では避けられない。権利は、社会の経済構造およびそれによって制約される文化の発展よりも高度であることはけっしてできない。」(『ゴータ綱領批判』『マルクス、エンゲルス全集』大月書店版19巻P19-21原P20,21。以下『全集』⑲と記す。太字はわたし)

ⅰ 剰余労働の社会的取得

  この社会は資本主義を脱して、生産手段を資本家による私的所有から、働く者の社会的所有に移した経済構造を土台にする。それは労働者の剰余労働を資本家の私的取得から社会の手に、自分たちの手に移すこと、つまり資本家による搾取をなくし働く者の剰余労働を自分たちで管理するということである。

  共産主義社会の高度な段階は所有関係の止揚にあり、その前段階としての所有関係、すなわち社会的所有の共産主義者会の初歩的段階の社会である。

 

  いま、一般に「社会主義」とは何か、「共産主義」とは何か、の答えとして「『ゴータ綱領』批判」のこの表現をそのまま用い、「労働に応じて受け取る社会」、「必要に応じて受け取る社会」と説明されてきた。しかし、この説明はマルクスの立場と異なるものだ。

  マルクスは「剰余労働が直接生産者から、労働者から取り上げる形態だけが、いろいろな経済的社会を、・・・区分する」(『資本論』1巻-ⅠP231)と述べ、さまざまな経済的社会を区分している。つまり剰余労働を支配するのが奴隷主なのか荘園領主なのか、資本家なのか、はたまた働く者たち自らの社会なのか、ということで区分される経済社会である。働く者たちの一元的な社会が自らの剰余労働を所有、管理するのが「社会主義社会」、すなわち共産主義社会の第一段階なのであり、剰余労働が消滅し「所有関係」が止揚された社会が共産主義社会の「より高度な段階」なのである。この区分は単に剰余労働の搾取という観点から区分されたものであり、史的唯物論の観点からは「共産主義社会」のそれぞれの段階ということになる。資本主義社会から移行する次の社会は共産主義社会であり、その中で初歩的な段階を共産主義社会の初歩的段階、つまり「社会主義社会」とよび、高度な社会を「共産主義社会」とよんでいる。

  しかしながら、今使われている「説明」には、この剰余労働から社会を見る視点に欠けている。つまり、マルクス流に説明するならば、共産主義の初歩的段階、すなわち「社会主義社会」とは、「働く者の剰余労働を社会が取得管理する社会」であり、続く「高度な社会」とは「剰余労働が消滅した社会」ということになる。これが「社会主義」、「共産主義」を表す最も簡単、適切な説明である。

 

  これまで「所有」とは「生産関係=生産手段を誰がもつか」という命題に心奪われ、働く者の生産手段を社会化する=個人的、集団的に所有する生産手段を取り上げる」という誤解を生じさせてしまった。

  資本主義社会を脱したばかりのこの社会では、個人的経営、農業、商業、そして資本家を追い出した後の大小の集団的経営、等さまざまな経営形態が存在する。プロレタリアートの執権は、すべての生産手段を一元的に管理する。それは、生産手段を取り上げることではなく、労働可能なすべての人々にそれらを解放するということである。そのためには大量の生産手段を社会として準備しなければならない。

  資本家が労働者を搾取するための生産手段は取り上げ、社会に開放する。もちろんこれまでと同様、個人的な所有物としての生産手段も、それが搾取の手段とならない限り「所有」が認められる。なぜなら、「社会的に結合した」個人だから。

  剰余労働を誰が取得しているのかという一歩踏み込んだ考察がなされていない。「所有概念」の欠落である。階級社会における支配、被支配の関係、つまり支配者による他人労働の取得(搾取)こそが「所有概念」の根本なのである。その結果、「社会主義」社会から「共産主義」社会への発展を弁証法的に正しく反映できない弱点を持った。そして社会主義社会とは、「すべての生産手段を社会化する=個人的、集団的に所有する生産手段を取り上げる」という誤解を生じさせてしまった。

  階級社会における「所有」とは何か。それは他人労働の取得、支配階級による被支配階級の剰余労働の取得である。個々人が生産のための生産手段を持つことの「所有」と剰余労働の取得のための「所有」とは区別されなければならない。生産手段を持つことと被支配階級を支配することは全く別のことである。

 

「経済学は二つの非常に違う種類の私有を原理的に混同している。その一方は生産者自身の労働にもとづくものであり、他方は他人の労働の搾取にもとづくものである」(『資本論』1巻-Ⅱ原P792)。

 

この共産主義社会の第一段階では他人労働に基づく所有を奪い返し、生産者のための社会的所有に置き換える。つまりブルジョアジーが独占所有する生産手段を労働可能な人々に開放するということである。一般勤労市民の財産、生産手段を奪い取るものではない。これ以降、個人や集団による他人労働の取得はなくなる。

  これが「私的所有の禁止」という意味である。これは生産手段の私的「所有」の禁止ではなく、他人労働の私的取得の禁止ということに他ならない。交換を前提としない社会においては、生産手段を持つことが「所有」ではない。「共産主義は、社会的生産物を取得する力をだれからも奪うものではない。ただ、この取得を手段として他人の労働を隷属させる力を奪うだけである。」(『共産党宣言』全集④P490原P477)と明快に述べている。

  自己労働に基づく「所有」は守られる。働く者の剰余労働は社会が管理する。これが「社会主義社会」という経済的区分をなすのである。

「私的所有の禁止」という「所有概念」は、個人財産の否定とか、すべてが「共有」される、とかの誤った「概念」に置き換えられ独り歩きを始めてしまった。

 

  生産手段および労働は計画的に分配され、効率的に生産がおこなわれ、温暖化を招かない、地球生命にも十分な配慮がなされるであろう。生産性も大幅に発展するだろう。資本主義社会では生産過程から除外される定年退職者、婦人、身体的弱者、さらには膨大な数の失業者たち。これらの人々を生産過程に取り込むだけで社会的生産力を大幅に発展させることができるであろう。生産を制御しつつ労働時間の大幅な短縮が実現する。

 

  「生産手段の社会化」とは、生産の様々な、大小の経営態の中でも、それを構成する各個人が社会的に結合した関係を作り上げるということであり、その関係の上で成り立つ社会が所有するということである。また剰余労働の社会的取得ということが重要な側面にあって、それを充分認識しなければならない。

  この社会では「剰余労働にたいする無制限な欲望は生産そのものの性格からは生じない」。(『資本論』1巻-Ⅰ原P250)「労働におうじて」受け取る報酬は、生産力の大幅な発展と、それにともなう欲望の高まり、社会的諸事情におうじて変化する。そして労働時間の短縮が進むであろう。「社会的諸事情」には「地球温暖化」等への諸事情も当然ながら考慮されるだろう。

 

ⅱ この労働は「価値」を形成するか(呪物的性格からの脱却)

  “定説”による「労働におうじて」受け取る社会とは、価値法則をそのまま受けつぎ、「労賃」形態をも受けつぎ「交換」を前提とする社会まで受け継いでいる。そこから導き出されるのは「社会主義社会=商品生産社会」である、という間違った概念である。それはいまだ”定説“とも認識されず議論にさえなっていないように思う。これこそが「未来社会」を論ずる際の重大な”定説“であることを指摘しておきたい。

 

  『資本論』第一章第1篇第四節『商品の呪物的性格とその秘密』を思い起こしていただきたい。

 

  「労働生産物は、それが価値であるかぎりでは、その生産に支出された人間労働の単に物的な表現でしかないという後世の科学的発見は、人類の発展史上に一時代を画するものではあるが、しかしそれはけっして労働の社会的性格の対象的外観を追い払うものではない。この特殊な生産形態、商品生産だけにあてはまること、すなわち、互いに独立な私的労働の独自な社会的性格はそれらの労働の人間労働としての同等性にあるのであってこの社会的性格が労働生産物の価値性格の形態をとるのだということが、商品生産の諸関係のなかにとらわれている人々にとっては、かの発見の前にもあとにも、最終的なものに見えるのであって、・・・(『資本論』1巻-ⅠP88)

 

  商品生産のもとでは、生産者と生産者との社会的関係が、商品と商品という物と物との関係として現れ、人間の労働の生産物である商品が人間から独立して対立し、支配するようになっている。「したがってまた私的諸労働の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである。(『同前』P90)

  交換が前提されれば、労働は価値を形成する。まだ資本主義社会から生まれたばかりの交換を前提にしない社会でも生産過程が人間を支配し人間がまだ生産過程を支配していない社会では人と人との関係は、直接的にではなく、労働を通じて、つまり抽象的労働によるのではなく具体的な労働、さまざまな使用価値を作る労働として「農耕や牧畜や紡績や織布や裁縫などは、その現物形態のままで」(『資本論』1巻‐ⅠP92)、互いに認め合うことになる。

 

『資本論』では「そこで今度はロビンソンの明るい島から暗いヨーロッパの中世に目を転じてみよう。」(P91)で始まる。

 

  「労働も生産物も、それらの現実性とは違った幻想的な姿をとる必要はないのである。…(中略)…ここで相対する人々がつけている仮面がどのように評価されようとも、彼らの労働における人と人との社会的関係は、どんな場合にも彼ら自身の人的関係として現れるのであって、物と物との、労働生産物と労働生産物との、社会的関係に変装されてはいないのである。」(同)

 

 「交換」を前提とした商品生産社会。自らの社会的存在を私的労働がその「価値」を実現することによって社会的存在を実証する。しかし「交換」を前提にしない他の経済的社会における個々の労働は、初めから「彼ら自身の人的関係として現れる」のであり、それは各自の具体的労働そのものの関係として現れる。「価値」で変装されるものではないのである。

  商品生産社会における人と人との関係は、直接的にではなく、商品の交換を通して表される。彼の労働生産物は「使用価値」と「価値」を持つ商品として現れる。「使用価値」は他人にとって有用なものでなければならず、「価値」は、その生産に費やされた社会的必要労働によって決まる。しかし、それらが実現するのは交換が成立してからの話である。商品生産においては交換が前提となる。

  「共産主義社会の第一段階」における「労働」とは、資本主義社会から脱した「交換」を前提にしない新しい社会の労働であり、それぞれの個人が社会的存在として認め合う平等な人間の個々の具体的労働である。この変化を見ることが史的唯物論の立場である。

 

  この社会では、自分の剰余労働を社会のために提供する。かつての賦役労働のように奴隷主や封建領主のために捧げたように彼の個人的労働量を社会のために与えるのである。自らを解放するために。

  労働力を売り込むための競争もなくなる。「個人間の生存闘争は終わりを告げる」(エンゲルス『反デユーリング論』全集⑳292、原P264)のである。

家族が多い、幼い子どもがいる、病気の家族がいる、働けない老人がいる。それでも同じ労働時間分しか受け取ることは出来ない。それらの事情は労働者の剰余労働が当てられるであろう。だから、純粋に「個人的労働量」におうじて受けとるのである。能力に応じて働く社会であり、各自は社会的連携の中で保護される。彼の労働が特殊な技術と頭脳を要するのであるのなら、その養成に必要なものは社会が保障する。

 

  生産は社会的に行われる。だから彼らの生産物の一部は社会のものであり、もう一方の部分は自分で消費されるものとして分配されなければならない。

まだ人と人の関係が直接的に結ばれない社会、生産に支配される社会では労働を通して、物的生産を通してその関係が結ばれる。資本主義社会の価値を生む労働としてではなく、単に同じ労働者であるということ、その具体的労働すなわち社会に貢献する個々の異なった個人の労働を「平等」と見なす関係である。

  労働者であるということ「それ以外の点には目は向けられず、ほかの事はいっさい無視される」(『ゴータ綱領批判』全集⑲P21原P21、それが「廻り道」(『反デューリング論』全集⑳P318原P288)ではない直接的な労働である。それが交換を前提としない社会の姿である。労働の質をみてはならない。労働者であるということだけが問題なのだ。

  交換が前提されれば、労働は価値を形成する。まだ資本主義社会から生まれたばかりの交換を前提にしない社会でも生産過程が人間を支配し人間がまだ生産過程を支配していない社会では人と人との関係は、直接的にではなく、労働を通じて、つまり抽象的労働によるのではなく具体的な労働、さまざまな使用価値を作る労働として「農耕や牧畜や紡績や織布や裁縫などは、その現物形態のままで」(『資本論』1巻‐ⅠP92)、互いに認め合うことになる。

 

  「商品生産の諸関係のなかにとらわれている人々にとっては」(『同前』P88)見えにくい問題である。労働を現物形態のまま見ることができず、抽象的労働として見てしまうこの方法は、商品の呪物的性格による長い歴史を持つ“定説”を生み出す根本原因なのである。

  史的唯物論の立場に立つならば、「労働におうじて」受け取る社会の労働とは、「価値」を創造する抽象的労働ではなく、すべての社会的労働が等しいものと認められた社会の、個々の具体的な労働なのである。

「共同社会」とは

  「社会的に連携した関係」とは、社会的生産を担う諸個人のすべての種々異なる労働を具体的労働として平等なものとして認め合う関係である。それが交換を前提としない社会のあるがままの姿である。

 

  マルクスは、農民家族の家長制的な労働形態を例に「個人的労働の支出は、ここでははじめから労働そのものの社会的規定として現れる。というのは、個人的労働力が初めからただ家族の共同的労働力の諸器官として作用するだけだからである。」(『資本論Ⅰ』P92)と述べているように、個人的労働力が共同体の共同的労働力となっている社会こそが「共同体」社会なのである。

 

  真に「労働におうじて」受け取る社会であり、働くものの平等な社会である。精神的労働と肉体的労働の差別もなくなる。都市と農村の分離も、生産手段の集中を解き放し、大量生産ではなく、人間性にあった生産方法をとるならば、この問題も自ずと解消するだろう。生産と消費の分離も最小限に抑えることができるだろう。

  自分から作り出す喜びが失われてしまった。何日もかけて子どものためにセーターを編み、子はその出来上がる過程を毎日見守ることだろう。料理をつまみ食いをしながら、とがめられながら、楽しく食卓を囲むだろう。小さな庭に家庭菜園を作ったり自分でオーデイオやコンピューターを組み立てたり、家を建てる事だって可能な人もいる。特殊なセーターの編み方を排他的にならずに他人に教えることもできるだろう。

  現代人は小さな歯車になってしまった。次の社会は生産力の発展に寄与することが目的ではない。高度に発達した資本主義社会では、相対的に生産を制御できる高度な生産性に裏打ちされた社会に達していることを認識すべきである。自然や環境、社会、地域、家族との協調を考えるべきである。

 

  他人労働の搾取が廃止され、交換を前提としない社会においても、人が生産過程を支配できないこの社会では労働によって平等を認識する。不平等な労働が平等なものとみなされたとき、労働力は商品であることをやめ、また、労働生産物は商品であることをやめる。交換を前提とする社会は崩壊し、商品社会は消滅する。労賃形態は新たな分配方法へと変わる。

 

  「変化した事情のもと」でも、やはり彼らには社会の構成員であるためには労働を与えるしかない。労働力ではなく労働そのものを。この社会から受け取る報酬は労働力の価値としての賃金ではなく、社会への貢献度の尺度として労働量つまりその個人的労働時間によって測られる。ただただその質ではなく、長さによってのみ。

  しかしながら、個人的労働時間によって受け取る量は社会的必要労働によって測らざるを得ない。共産主義社会にも貫徹する「価値法則」である。まだ生産に支配されている間は、「価値法則」は重要な役割を果たす。「交換」が支配的ではないがまだ、生産に支配され、「交換」の形態が残る間は「価値法則」が貫徹する。例えば、1台のテレビをもらうためには20時間の労働が必要という場合の20時間は、社会的必要労働量で測られるのである。また、社会的生産における計画などにはなくてはならないものである。

  彼らは、お互いに直接社会的連携のなかで生産活動をおこなう。彼らの労働は価値として現れることはない。自然素材に働きかけ新たな使用価値を作り出す労働である。交換するためではなく消費のために生産するのである。

  それがどのような有用性であっても同じ労働として認め合う。単純労働も複雑労働も、初心者も熟練者も、小さな作業所で働く人も大工場で働く人も、男性も女性も、ただその個人的労働時間の長さのみで測られる。それは、お互いが社会的存在として認め合った社会である。個々人の不平等を認め合うことが平等な社会の実現である。格差のない社会を、階級のない社会を築く重要なステップがここにある。

  しかしその前提には高度な生産力が確保されていなければならない。生活必需品の確保のために競争が支配的である社会では難しいだろう。競争は「価値」を実現させるものであり、より多くの利潤を得るためのものである。

  共同作業所で働く障がいを持った人たちがいる。彼らの労働を「価値」から見ると大きな「価値」を生み出しているとはいえない。しかし彼らは生産し、その労働によって自分自身を成長させるために努力している。労働は人間の「権利」である。このような労働を「価値」から見ることの不合理に気づいている人達である。 

  高度な技術を持った労働者が単純な労働を押し付けられることの苦痛。事実、労働組合員に対する嫌がらせとして行われてきた。それぞれの労働者の持つ能力に応じて働き、その能力をさらに発展させていくことができるような環境での労働こそ人間性に適合したものである。高度な労働だから単純労働より多くをもらう、ということの必要のない高度な生産力に裏打ちされた「競争」のない「結合した社会」なのである。こうした認識は、高度な生産力に裏打ちされた、経済的基礎の上に成り立つ。

 

  マルクスの「労働におうじて」という意味は、個人的、具体的労働であること。それによってすべての格差、階級が消滅する「生産関係」を表す、極めて重要なフレーズなのだ。

  労働の「物神的性格」に惑わされず、素直に史的唯物論の立場に立つことが必要だ。

より高度な段階―「必要におうじて」の意味

 

  「共産主義社会のより高度の段階で、すなわち個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体労働との対立がなくなったのち、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求となったのち、個人の全面的な発展にともなって、またその生産力も増大し、共同的富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧きでるようになったのち―そのときはじめてブルジョア的権利の狭い視界を完全に踏みこえることができ、社会はその旗の上にこう書くことができる―各人はその能力におうじて、各人にはその必要におうじて!」(『ゴータ綱領批判』全集⑲P21、原P21)

 

このように「共産主義社会のより高度の段階」を表記している。

 

歴史上に存在した社会関係

 

  かつて「必要におうじて」受けとる社会が存在した。それは商品が誕生する以前の価値法則のない原始共同体社会においてである。

 

エンゲルスは『反デューリング論』の中で「共同体の成員たちは、生産のために直接に社会的に結合しており、労働は慣習と欲望とに応じて配分され、生産物も、消費にあてられる分については、同じようにして分配される。」(全集⑳P318、原P288、太字強調著者)と述べている。『資本論』では「島上のロビンソン」が登場する。「彼とてもいろいろな欲望を満足させなければならないのであり、したがって道具をつくり、家具をこしらえ、ラマを馴らし、漁猟をするなど、いろいろな種類の有用労働をしなければならない。(中略)必要に迫られて、・・・(『資本論Ⅰ』P90、91)さらに「共同的な、すなわち直接に社会化された労働を考察するためには、われわれは、すべての文化民族の歴史の発端でみられるような労働の自然発生的な形態にまでさかのぼる必要はない。もっと手近な例は、自分の必要のために穀物や家畜やリンネルや衣類などを生産する農民家族の素朴な家長制的な勤労である。というのは、それらは、商品生産と同様にそれ自身の自然発生的な分業をもつ家族の諸機能だからである。男女の別や家族成員の労働時間を規制する。しかし、継続時間によって計られる個人的労働力の支出は、ここでははじめから労働そのものの社会的規定として現れる。というのは、個人的労働力がはじめからただ家族の共同的労働力の諸器官として作用するだけだからである。」(『同前』P92、太字強調は筆者)

  生産力のきわめて低い原始共同体のなかでも、また素朴な家長制的な農民家族のなかでも、また孤島のロビンソンも「必要におうじて」働き、受け取っていたのである。ここで言う「必要におうじて」とは、高度な生産力を意味しない。必要ならば何でも受け取ると言う事ではなく、社会的に規定された生産力の範囲内での消費であることは自明のことである。ただ、この社会は生産者たちが直接に結合した社会であり、まだ所有関係は存在しない。他人の労働を搾取するということがなかったのである。

  人々が消費のためにそれを求めるには、「価値」あるいは貨幣、という回り道をしてするのではなく、直接に必要におうじて、その社会の生産力の範囲内で、かれらの社会の再生産のために必要な分を除いたなかからその「使用価値」を受けとっていたのである。しかし、この時代のきわめて低い生産力においては、彼らが生きていくための、あるいは社会を維持していくための最低限の欲望に過ぎなかったであろう。

 

  これがマルクスの「必要におうじて」の意味である。すなわち「価値」とか貨幣とか「廻り道」でない直接的な「欲望」に対する受け取りである。人々が直接に結合した社会、価値法則のない社会、「交換」のない非商品生産社会、所有関係のない社会を意味する生産基盤を示す言葉なのだ。高度な生産力を背景にして何でもかんでも自由に受け取る社会という意味で使った言葉ではない。それこそは、生産基盤に基づく史的唯物論の立場である。

 

  マルクスの一貫した史的唯物論の立場、弁証法的唯物論の立場は、どの著作を見ても妥協なく徹頭徹尾貫かれている。この『ゴータ綱領批判』のなかにおいても。

マルクス没(1883年)後、1891年エンゲルスは[カールマルクス「ゴータ綱領批判」への序文]を書いて、次のように述べている。

 

  「ラサールが運動にはいって以来とってきた方針にたいするマルクスの立場が明確に説明されており、しかもそれは、ラサールの経済学上の原則ばかりではなく、戦術にもふれている。ここでは、綱領草案は仮借ない鋭さで分析され、到達した結論が峻烈なことばで述べられ、草案の弱点がきびしく暴露されている。」(『全集』⑲P540)

 

  エンゲルスのこの評価こそ、マルクスの一貫した立場が貫かれていることを証明するものであろう。ましてやラサール派との論争においては一点の曇りもない。もし曇りがあったならエンゲルスはここで釈明する義務がある。

  マルクスは史的唯物論の立場を堅持し、「共産主義社会の初歩的段階と高度な段階」の生産関係を明らかにしたのであって、それを生産関係から切り離した分配論にしてしまい、マルクスが「分配」をもって社会を「区分」したかのように取り扱ったのが俗流社会主義である。

 

  マルクス自身が批判し続けている。

 

   「いわゆる分配のことで大さわぎをしてそれに主要な力点をおいたのは、全体として誤りであった。いつの時代にも消費手段の分配は、生産諸条件そのものの分配の結果にすぎない。たとえば資本主義的生産様式は、物的生産諸条件が資本所有と土地所有というかたちで働かない者のあいだに分配されていて、これにたいして大衆はたんに人的生産条件すなわち労働力の所有者にすぎない、ということを土台にしている。生産の諸要素がこのように分配されておれば、今日のような消費手段の分配がおのずと生じる。物的生産諸条件が労働者自身の協同的所有であるなら、同じように、今日とは違った消費手段の分配が生じる。俗流社会主義はブルジョア経済学者から、分配を生産様式から独立したものとして考察し、また扱い、したがって社会主義を主として分配を中心とするものであるように説明するやり方を、受けついでいる。真実の関係がとっくの昔に明らかにされているのに、なぜ逆もどりするのか?」(全集⑲21、22、原22ページ。)

 

  ここまで丁寧に述べたマルクス。「生産様式から独立した」分配論をいましめている。「ラサール派との論争上の必要から述べた」便宜的なものではなく、生産様式から導き出された史的唯物論の立場である。この文書はマルクスの反省ではない。「誤りであった」のはマルクス自身ではなくラサール派である。

C 「二段階」の違いは何か

  

それは、剰余労働があるのかないのかの違い、所有関係があるのかないのかという違い、生産過程に支配される社会なのか支配する社会なのかの違い、労働の変化発展の違い、という根本的な「生産関係」の違いがある。

  共産主義社会の初歩的段階と、より高度な段階。史的唯物論の立場に立つと、そのような段階を経ることは明らかである。

  マルクスの「剰余価値学説」は、それまでの「空想的社会主義」を科学的な土台の上に置いた三つの構成部分のうちの経済学をなす「労働価値学説」と並ぶ経済学の主要な学説であり、資本主義の生成・発展・没落の過程と社会主義・共産主義への移行の必然性を明らかにしたものである。

  剰余労働の社会的所有、それが「社会主義」を規定する経済区分であり、史的唯物論の立場からは、共産主義社会の「第一段階」である。そして剰余労働が消滅した所有関係のない社会が共産主義社会の「より高度な段階」なのである。

  生産力の発展が労働時間を短縮し、その「絶対的限界」(『資本論』第1巻‐Ⅱ原P552)を突破したとき生産関係(所有関係)は消滅し、新たな人々の関係を作り出す。

  これまでの「未来社会論」には、生産力が高度な発展を遂げ、それが生産関係をどのように変化させるのか、という視点に欠けていた。この立場に立つ限りでは真の「未来社会論」は出てこないし、「材料がない」のである。

  生産力の発展から、生産関係をどのように変化させるのかといった弁証法的発展の過程を見いだせず、この「未来社会」を物欲の世界におきかえてしまった。

  レーニンが述べていることは、生産力の側面から、その高度な、「今日の労働の生産性を前提と」しないような、予見できないような生産性の発展である。それにたいする生産関係の変化発展を見ず、人々の「準則・規則」に置き換えてしまったのだ。結局レーニンの理論はここでストップする。

  マルクスは、分配の仕方によって二つの段階を設定したのではないことは明らかである。マルクスは一貫して史的唯物論の立場を貫いている。生産力と生産関係から、「必要におうじて」の社会を導き出したのである。そこは、物欲の社会ではなく、価値法則のない、高い生産力を背景とする所有関係のない社会、人間が生産過程を支配する社会、労働が自己目的として認められる社会、労働が「生命欲求」となった社会である。

  今日までの長い間、共産主義社会の二つの段階を分配の仕方で区分したとする解釈が定説として君臨してきたのは、マルクス以前のブルジョア経済学者から引き継いだ解釈と史的唯物論理解の不十分さからくるものである。

  経済的社会形態を区分するのは剰余労働のあり方による。「『ゴータ綱領』批判」のこの部分は、それぞれの社会の史的唯物論的規定性から生じるそれぞれの社会の特性を明らかにしたものであり、「分配」を論じたものではないのである。

 

4 『資本論』 「必然性の国」から「自由の国」へ

 

  いかにして「必然性の国」から「自由の国へ」飛躍するのか。マルクスが『資本論』で述べていることは次のようなことである。

 

  「じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するというとがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。というのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性にもっともふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である。」(『資本論』3巻-Ⅱ 原P828)

A  発展の弁証法

  労働者にとって、自由な時間とは個人の完全な発展のために利用される時間、すなわち余暇時間である。「労働日の短縮こそは根本条件である。」(『資本論』3巻-Ⅱ原P828)

 

  「労働におうじて」受けとる社会から「必要におうじて」受けとる社会へと移行する。この移行に重要な役割を果たすのが労働時間の短縮である。生産性の増大は、労働時間の短縮を可能にする。資本主義を脱した社会は、剰余労働に固執する社会ではない。

  労働時間の縮小は、自由な時間、余暇時間の増大である。この自由な時間は、人を社会的活動や芸術活動への参加を保障する。しかし、もっとも重要なことは、それを「労働日の短縮の絶対的限界」(『資本論』第1巻‐Ⅱ原P552)まで引き下げ、剰余労働を消滅させるという点にこそある。

 「労働日の絶対的な縮小限界」を突破した彼らの労働からは剰余労働が消滅し、すべてが必要労働となる。こうして彼らの労働は自己目的として認められる「生命欲求」としての新たな労働に発展する。それはまったく新しい未来の労働として現われる。

 

  剰余労働の消滅は所有関係をなくす。疎外された労働は自分のものになり、「自己目的として認められた活動」となる。労働それ自体が「生命欲求」となる。労働の「権利」は食欲などと同じレベルの「生命欲求」となるのだ。

  労働そのものがひとつの自然力であり、労働手段、労働対象も使用価値としての自然的諸物として現れる。この社会はすべての個人が直接に結合し社会を構成する。人間そのものが社会的存在である。個々人を労働によって表わす必要はない。労働をもって自分の社会的存在を表現しなくてもいい、生産が主体ではなく人間が主体となる。対象化された過去の労働が生きた労働を支配するのではなく、生きた労働が、人間が主体となる。労働者ではなく人間になるのだ。ブルジョア的権利は止揚され、命あるすべての人々が人間として平等になる。価値を形成する労働ではない。経済的発展のための労働でもない。”豊かさ”は労働によって測られることはもはやない。

 

  「所有関係」は止揚され、だから「生産関係」もまた止揚される。生産過程に支配されていた人間が人類史上初めて生産過程を支配する。

 

  労働が「生命欲求」となり単純で意欲のわかないような分業はなくなる。しかし自然的分業つまり身体的、性格的(嗜好性も含む)、地理的差異による分業は残る。分業が商品生産の、階級の、存在条件であるが、逆ではない。社会的分業は自然性的分業に置き換わる。分業があるのだから、必然的に交換は起きるのではないか、と思われる方もいよう。この社会では流通はあっても交換はない。「価値法則」がないのだから必要な人に差し上げる、必要な人がいただく、という関係になる。それは、そのものの有用性、使用価値の消費欲望である。

 

  ふたたび、人々は「必要におうじて」受けとるのだ。それは、かつて「必要におうじて」受け取った生産力のきわめて低い、まさに生きるための労働から解き放たれた高度な生産性を背景とし、人が生産を支配するまったく新しい労働として現われる。それは新しい人類史の始まりである。

 

B 新たな「労働」の誕生=物質的生産の彼岸

  人類誕生以来、「彼が労働するのは、常に、消費のためでしかない」(『経済学草稿集 経済学批判Ⅰ』原P181)のである。人が生きていくための物質的生産である。生産力の低い段階では、自然の力に支配されていた。ここでの労働は、自然に働きかけ、利用し、あるいは人間にとって有用な物をつくりだすことであった。生産力の発展は、人間の肉体的・精神的能力の発展でもある。労働は、言語を生み出し、芸術を生み、文化を創造していった。労働によって脳は発達し、人間としての可能性を拡大させていく。

 

  高度な生産力と剰余労働の消滅は、人間と社会の維持という労働の「外的目標」を取り除き、「自己目的として認められる人間の力の発展」として現れる。それは生物的な人間の維持再生産という領域から離れた高度な文化的発展性を含んだものであり、「本来の物質的生産の領域のかなたにある」ものである。こうして彼らの労働は、すべてが自分のものとなり自分自身を高める「生命欲求」となる。

「労働日の短縮」も、もう問題にはならない。労働という本来の性格を取り戻す。もう自分のための生活物質を生産するだけの労働ではない。人間の合目的行動、「自己目的として認められる人間の力」がそれである。それは、余暇時間に行っていた行動と質的には同じであり、労働を自身の手に戻し、新たな主体として、自己目的として、直接的生産過程にも入っていく行動でもある。物質的生産に喜びを感じながら。同時にそれは、客体としての労働生産物を生産する労働から主体としての自分自身を「生産」する新たな時代の労働を確立する。これがマルクスの言うところの「物質的生産の彼岸」という意味であろう。だから、物質的生産に何時間費やそうとかまわない。それが自分の喜びであるのなら。それが自由の国なのだ。

  この社会は、生産に支配される社会ではなく、人間が主人公である。欲望を上回るような生産のための生産ではなく、生産を制御できる社会である。直接的に、物質生産の活動から離れていた人々を含め、すべての構成員がその能力に応じて直接的物質生産に参加するならば、短時間の生産活動ですむだろう。

  剰余労働は消滅する。自分にとって必要のない労働はしないからである。彼の労働はすべてが「必要労働」となる。社会的に結合した人たちは、病人を看ることも、老人、子供を養うことも、自然災害に備えることも、すべてが「必要労働」なのだ。

 

  「労働日のうち労働者が自分の生活手段またはその等価を生産するのに必要な部分を短縮する。労働日の絶対的な縮小限界は、一般に労働日のこの必要ではあるが収縮の可能な構成部分によって、画される。一労働日全体がそこまで収縮すれば、剰余労働は消滅するであろうが、それは資本の支配体制のもとではありえないことである。資本主義的生産形態の廃止は、労働日を必要労働だけに限ることを許す。とはいえ、必要労働は、その他の事情が変わらなければ、その範囲を拡大するであろう。なぜならば、一方では、労働者の生活条件がもっと豊かになり、彼の生活上の諸要求がもっと大きくなるからである。また、他方では、今日の剰余労働の一部は必要労働に、すなわち社会的な予備財源と蓄積財源との獲得に必要な労働に、数えられるようになるであろう。」(『資本論』1巻-ⅡP552)

 

  自然性的・生理的分業は残される。自分が一番したいことを中心にして、いろいろなことができる社会、自分自身の可能性を最大に生かせる「自由の国」だ。一つの仕事に何時間も費やす社会ではない。一つの仕事に一生涯縛られる社会でもない。なりわいとしての仕事ではない。百花繚乱、得意な分野を中心に、いろいろな個性を引き出し、人間としての多面的な能力の可能性を伸ばせる理想の国だ。人は生産物を作りながら自分自身を「創る」のである。疎外された労働はこのときに完全に自分自身の労働となる。

 

  すべての社会構成員が平等な関係になる。労働者としてではなく、人間として。老若男女、命あるすべての人々が。労働を自分自身の手に取り戻し、自分自身のために働く。社会的に結合した集団では、彼らの存在を「価値」や労働によって表す必要はない。労働の概念は大きく変わる。「労働」=稼ぎ、「価値」創造、社会的生産などの概念は捨てなければならない。それは自分自身の「生命欲求」、食べることと同じ、自分自身を創り出す過程である。

 

  子どもたちは自由に遊び学ぶ。老人は自由に、その余生を過ごすであろう。この社会の管理者は、学校を建てたり、道路を作ったり、橋を架けたり、新たな機械を導入したり、新たな生産体制を確立したり、必要に応じて実行するのみである。生産手段もそれを必要とする人が使えばいいことである。一つの生産手段を独占する必要はなく、必要な人が使う。「社会的所有」の社会から「所有」という概念がなくなった社会へ移行する。

 

  そもそもお金はない、貨幣制度がない、価値法則がないのであるから。すべての人がその「必要におうじて」うけとるのである。全ての社会構成員が、あるいは団体が、赤ん坊も寝たきりの病人も老人も身体的弱者も学生も、その消費欲望に応じて。もちろん、そのときの生産力に規定された消費であることはいうまでもない。すべての社会構成員がそれぞれの存在を認め合い、連帯した社会である。労働を介して認め合うのではなく、そもそもの不平等な人間として平等を認め合うのである。労働はすべてが必要労働として認識され、自己目的として他人のために強制なしに働ける優しい社会である。

  生産に支配される社会では、人は労働によって評価される。しかし、人が生産を支配した社会では、人は人として評価される。

こうして、「必然性の国」から「自由の国へ」の人類の飛躍がなされるのである。

 

5むすび

  空想的社会主義が科学になったのはマルクスの「剰余価値学説」によるところが大きい。剰余労働の量的減少は、労働の質を大きく変える。「量から質への転換」である。

  資本主義社会を脱し、共産主義社会への過渡期を乗り越え、社会主義の経済的基礎を築いたとき共産主義社会の第一段階を迎える。高度な生産力を保持した国家と労働者階級は、階級を廃止し、国家をも消滅させる。さらに生産性を上げ、労働時間を短縮して剰余労働を消滅させ、すべての所有関係を止揚した共産主義社会のより高度な段階へと進む。

 

  「社会主義」、「共産主義」を混同する見解が一部にある。それらは同じようなものであり、マルクスはこれらの用語を明確に区別して使ってはいないというものだ。この見解も史的唯物論を理解しないお粗末な「論」である。「総体」としての「共産主義社会」と「総体」の一部分としての「共産主義社会」、つまり「総体」の中の「高度」な段階の「共産主義社会」の判別がつかないだけの話である。

 

  ソ連・中国の轍を踏むまい。民主主義の育たないところに共産主義は育たない。競争ではなく、他人を想いやる心が新しい社会を準備する。個人が尊重される社会であり、これまでの没個人、国家的・社会的・集団的イメージは払拭されなければならない。コルホーズ、ソホーズなどの集団的生産は、生産力の低い段階では有効であるが、現代の高度に生産力が発達した資本主義社会からの新たな社会では意味がない。むしろ個人が尊重される新時代だ。「社会主義」というネーミングから「個人」より「社会・集団」が優先されるように考えられるがそれは誤りである。

 

  労働は苦痛である。自分が生きていくためには支配者の意のままに働かなければならない。「権利」になると、少しだけ喜び、楽しみに変わる。さらに「生命欲求」へと変化、発展を遂げたとき、それは食べることの喜び、調理することの喜び、身体を造ることの喜びと同等なものとなる。

 

  3.11以降、新たな価値観が顕著になっている。原発事故は、お金最優先の「価値観」から多様な「価値観」をさし示した。特に重要なことは「生産のための生産」を抜け出し、「生産を制御する」社会になったことを自覚し始めたことであった。しかしながら、依然として経済最優先の施策を繰り返している。いくら暮らしをよくするといって経済を優先したところで、報われるのは一握りの富裕層ばかりであり、働く我々とはますます格差が広がっている。所得の再分配についても、低所得者に薄く、富裕層に厚い逆立ちした再分配がまかり通っている。

巨大化し続ける大企業の内部留保。大量生産、大量消費、大量のごみの山。そして人類が処理できない膨大な「核」のごみ。「生活のあり方を変えよう」「人間らしい働き甲斐のある仕事を」。こうした新たな「価値観」に注目している。

  近年注目されているAI(人工知能)の発達により、多くの仕事が奪われてしまうことが予測されている。労働は人間としての権利である。奪われるわけにはいかない。こうした人類の発展を一部富裕層のために利用するのか、労働時間を短縮して生活を守るかの歴史上の戦いの場である。それでもまだ過労死を招く残業を強要している。非正規雇用を増大させ、巨大な「内部留保」を構築している。資本主義社会、とっくに耐用年数を超え、時代の桎梏として肥大しすぎている。

 

  「市場経済を通じて社会主義社会へ」は無理があろう。これまでの資本主義的経済理論を継承しても意味はない。いや、むしろ資本主義社会への復活の道である。脱資本主義の新たな「発展」理論を構築しなければならない。利潤追求ではなく、個々人の全面的開放(自由)と地球を守る道である。それは、剰余労働の社会的管理から剰余労働そのものの消滅へと向かう共産主義社会の社会発展の法則を明らかにすることである。階級社会では、生産力と生産関係の矛盾によって階級闘争を通じて新たな社会を実現するが、共産主義社会においては、「生産力」の高まり(労働時間の短縮)が次の社会を準備する。

 

  高度な精神的労働もあろう。しかし、新たな社会では、その仕事をこなせる人は多くいるはずであるし、足りなければすぐに養成できるであろう。もう、仕事を独占する必要もないのだから。さらに特定の仕事に1日中、あるいは数時間も費やす必要もなくなっているはずだ。高い生産様式に裏打ちされた人間の多様性の認識こそ新たな時代を切り開くであろう。それは「多様性」と「寛容」であり「優しさ」であり、個人として花開く自由の国の創造である。

 

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2017年 8月 脱稿

2021年11月 最終加筆

 


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