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「私」が消えてゆく プライバシーは時代遅れ?

2017年08月14日 | 社会・経済

毎日新聞2017年8月4日 東京夕刊

  自己存在の耐えられない軽さ--。常にネット環境につながっているのが当たり前になりつつある中、自分だけしか知らないはずだった自分自身が、内面から外へ飛び出し、プライバシーは軽んじられていく。そんな声を耳にする。未来の「私」たちを考えた。【藤原章生】

自分本位に生きるための「意識」?

  あらゆる人と物がネットワークでつながれば、人類はプライバシーなき時代に入るのか。プライバシーは富裕層のぜいたく品となり、大方の人々はネットの便利さと引き換えに個人情報、プライバシーを明け渡す。近未来を語るベストセラー本がそう予測し、仮想現実(VR)の開発に携わる脳科学者、藤井直敬さんも呼応する。「いまだにプライバシーと言っている時点で時代遅れ。人間一人一人など全体から見ると大して意味がない、という考えが主流になっていきます」。個人は流砂の一粒にすぎないと。

  ビッグデータや個人情報の流出など、プライバシーを侵す側の問題はよく語られるが、ここでは個々の情報の発信源、「私」たちの変化に着目したい。

  情報ネットワークが専門の中央大准教授、岡嶋裕史さんの見方はこうだ。「今の30代以下の世代にとって、個が軽いという見方は割とリアルです。アニメの『新世紀エヴァンゲリオン』にしても、ゲームの『ファイナルファンタジー7』にしても、個が全体に還元されていくという見方がベースにあり、個の独立や個性にさほど意味はない、という感覚になじんでいます」

  そして、こう続けた。「若い世代が象徴的ですが、現代人は個人的なことや物へのこだわりがかつてより薄まった分、グーグルやアマゾンに情報が利用されることにさほど忌避感はない。ネットをタダで使う対価だと納得しているところがある。高級旅館のおもてなしではありませんが、サービスする側がどれだけ客である自分のことを知ってくれているかが大事になっているんです」

  日々の振る舞いから内面までをネットに吐露することもやぶさかではない、ということか。

  プライバシーとは何だろう。

  2009年に「ポスト・プライバシー」を著した南山大教授、阪本俊生さん(理論社会学)によると、外来語のプライバシーは学者によって解釈もさまざまな上、うまい訳語がなく、戦前は「内秘権」や「秘密権」と訳されたが定着しなかった。

  欧州では中世からある概念だが、近代になって広く使われだしたのは、伝統、階級社会から解き放たれた個人の弱さを守るためだった。阪本さんの定義はこうだ。「個人の社会的な自己を保守するために生まれた意識」。そう、「意識」なのだ。外向けの自分のイメージを守るための心構えといったところか。

  やはりプライバシーと倫理を考察した大著「情報倫理」を5月に発表した吉備国際大准教授、大谷卓史さんの記述はこうなる。「人生を自律的に構築・維持する能力の重要な要素」

  難しいので本人にかみ砕いてもらった。「こうなれたらいいなあという理想の自分と、周りから見られている自分とのせめぎ合いの中で人は生きていますが、それをいかに自分本位にできるか、ということです」

  プライバシーの侵害と聞くと、秘密の暴露という言葉がぱっと浮かぶが、そうではない。世間が決めつける「自分」にあらがい、「本当の自分」を押し出す能動的な自意識なのだ。そんな自分へのこだわりを一方的に乱されたと感じた時、プライバシーが問題となる。

 哲学する人どこに?

  ネット社会になって、プライバシーの何が変わったのか。

  フェイスブックやツイッターで、人は自分の活動の宣伝から時事論評、衣食住、趣味、余暇、友人などを、誰に頼まれたわけでもないのに公表するようになった。

  阪本さんは、こうした挙動からも変化が見て取れると言う。

  「近代人は自分の内面を探れば本当の自分が見えてくると思っていました。でも自分とは何かという答えは容易には出ないため、誤解されるのを恐れ、自分を語らず隠すことで、自分の弱さを支えてきました。一方、現代人はいくら内面を探っても本当の自分などわからない、あるいはないのではないかと疑い始めました。自分など所詮、情報システムの中の小さな存在に過ぎないと思っているから、自分を隠すのではなくひけらかすようになってきたのです」

  気になるのは、自分の中に真実などはない、という見解だ。一昨年亡くなった小説家、車谷長吉氏のこんな言葉がある。<小説とは『人が人であることの謎』について書くこと。つまり『人間とは何か』という問いに対する答えである>。これを前提にすれば、自分の中に真実がないのなら、誰も謎を解こうとも、小説を書こうともしなくなるのではないか。小説の衰退について、作家の高村薫さんが以前話してくれた言葉がよぎる。「今は哲学する人間、人間の謎といったことを思う人間が消えたんだと思う」

 

 表はプライバシーの変化を阪本さんがまとめたものの一部だ。近代人の「自己」は個人の内面など自分の中にあったが、現代のそれは「個人情報、データ」の中にあるという。「例えば、ある人が自分はこういう存在だと言い張っても、データではあなたはこうだと示されれば、反論できない」

  IBM社の人工知能ワトソンと、歌手のボブ・ディラン氏がCMで繰り広げた対話が思い浮かんだ。彼の詩をすべて分析したワトソンに「君の主なテーマは『時は過ぎ、愛は消える』だね」と言われたディラン氏はかすかに苦笑いし、「大体そうだろうね」と応じる。

  ほぼすべての行動や交流が蓄積されているスマホから「君はこういう人間だよ」と言われたら、私たちは苦笑いしながら認めるしかないだろう。プライバシーは自分では容易に制御できない。自分の外側の、見知らぬ他人がうごめくデータ群の中にある、ということらしい。

  「近代は人間の内面を信じる時代でした。でも現代の場合、コンピューターや人工知能という『鏡』を通して、自分というものは全て行動や外見に表れてくるという議論は確かにあります。でも、人が見る自分と、自分が知る自分が違うという感覚がある限り、内面が重要だという感覚は薄れないのではないでしょうか」。前出の大谷さんはそう考えている。

 一方的な情報は自然に淘汰?

  私たちはネット上を浮遊する自己を認めるしかないのか。

  周囲のまなざしが評判を決めたころは、努力次第で挽回もできた。だが、今はちょっとした過ちがネット上で発信され続ける。欧州連合(EU)で18年5月に施行される「一般保護規則」では、不都合な個人情報を消す「消去権」、いわゆる「忘れられる権利」が明記される。削除されるのは、今のところ、犯歴や性的な映像などが主だが、早晩、中傷など、本人がどうしても傷ついてしまう、ささいな情報も容易に消せるようになるのだろうか。

  「そうなることを期待しますが、それ以前に私たちは、ある種の情報を見ようとも聞こうとも、記憶にとどめようともしないプライバシー規範、慣習を確立すべきですし、自然にそうなっていくような気もします」。大谷さんはそうみる。あまりに一方的な情報は、自然に淘汰(とうた)されていくという見方だ。

  最近、芸能人が元妻からツイッターなどで露骨に非難、罵倒される事件があり、テレビのワイドショーが大きく伝えたが、ネット上では意外に早く収束しそうだ。一種の淘汰なのか。「『触れない方がいい』という良識が人々に働いた面はあると思う。一般人の不始末や性的な流出映像も時とともに消える傾向がある。飽きられただけかもしれませんが」と大谷さん。

  ツイッターで多数のフォロワーを抱えるジャーナリスト、津田大介さんが取材の際、こう話していた。「ネットで炎上中は開く度に罵倒のメッセージが大量に出てくるんで、ツイッターはもうコミュニケーション手段にならないんです」

  一般人が批判にさらされることも少なくない。大谷さんは「スルーで対応するしかないんですが、普通の人の傷つきやすい感性が踏みにじられる世界がこのままずっと続くのなら、やはり変です」と言う。

  冒頭の岡嶋さんによると、若い世代の場合、誰も批判しない、似たような価値観の者同士だけで交流できる狭い「ネットワーク」で、いくつものキャラクターを演じるのが今は普通のため、そこでひどく傷つくことは少ないという。あるいは、ネット上に解き放たれたプライバシーがどれだけ侵害されても、ひたすら慣れていく。そんなふうに、私たちは変わり始めているのだろうか。内面から離れた「自己」を遠目に見ながら。