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里の家ファーム

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奇跡の産声

2015年08月07日 | 社会・経済

生きしめん哉―原子爆弾秘話―

                        栗原貞子

 

こわれたビルディングの地下室の夜であった。

原子爆弾の負傷者達は

くらいローソク一本ない地下室を

うずめていっぱいだった。

生ぐさい血の臭い、死臭、汗くさい人いきれ、うめき声。

その中から不思議な声が聞こえてきた。

「赤ん坊が生まれる」と云うのだ。

この地獄のそこのような地下室で今

若い女が産気づいているのだ。

マッチ一本ないくらがりの中でどうしたら良いのだろう。

人々は自分の痛みを忘れて気づかった。

と「私が産婆です。わたしが生ませましょう」

と云ったのは、さっきまでうめいていた重傷者だ。

かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた。

かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。

生ましめん哉

生ましめん哉

己が命捨っとも


毎日新聞 2015年08月06日 東京夕刊

ヒロシマと同じ歳月を生きてきた小嶋和子さん(69)=広島市南区=は今、「生かされたことの恩返しをしなければ」との思いに駆られている。反戦を訴え続けた被爆者で詩人の栗原貞子さん(2005年3月に92歳で死去)の代表作「生ましめんかな」のモデル。6日夜、広島市内の小さな集会で、詩とともに生きた半生を語る。

 被爆直後の広島に生まれた赤ん坊を希望の光と詠んだ「生ましめんかな」。1945年8月6日が、小嶋さんの母美貴子さんの出産予定日だった。自宅は爆心地から約1・6キロの広島市千田町(現・中区)。美貴子さんは近所にある広島貯金支局に避難し、8日夜に産気づいた。重傷を負った助産師の助けと、負傷者たちの励まし。地下室に産声が響いた。

 46年に発表された詩のモデルが自分だと知ったのは高校生の時。取材を受け、栗原さんとも対談した。しかし、どこか人ごとだった。「被爆の記憶がない自分が何を話せばいいの」。栗原さんも「遠い存在」だったが、イベントなどで会ううちに交流が深まった。美貴子さんが81年に72歳で亡くなったときには「力になるから」と手紙をくれた。いつしか「母のように」慕っていた。

 栗原さんが亡くなったのは10年前。「あなたは生きているだけでいい。話せるときが来たら話せばいい」。生前語ってくれた言葉をかみしめた。経営する小料理屋の客や、依頼があれば修学旅行生にも少しずつ思いを話すようになった。

 栗原さんの業績は、肉筆原稿などを収めた広島女学院大(同市東区)の「栗原貞子記念平和文庫」で確認できる。08年の開設に尽力したのが長女の真理子さんだ。「姉のように思って」と言ってくれた真理子さんは12年、76歳で逝った。

 「栗原さんの思いを知る人がいなくなっていく。自分にできることはないだろうか」

 広島の市民団体が昨年、「生ましめんかな」を書いた栗原さんの創作ノートなどを、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録しようと活動を始めた。「役に立ちたい」。小嶋さんは賛同し、活動に寄付することにした。

 また、知人から6日夜、女優の斉藤とも子さんが参加して開かれる詩の朗読イベントの話を聞いた。出席して、自身の思いを話すことにした。

 「人は自分の力だけで生きているのではない。多くの力に支えられ、生かされている。だから命には輝きがある」。小嶋さんは詩に込められた意味をこう解釈している。

 「たくさんの奇跡が重なって、私は生まれたのだから」。これまでになく多忙な夏を迎えた小嶋さんは、自分にできることを一つずつ果たしていこうと思っている。6日朝、学徒動員中に亡くなった姉の名が刻まれた慰霊碑の前で静かに手を合わせた。