『納棺夫日記』(青木新門著、文春文庫)を読む。
・八歳の時、旧満州の難民収容所で死んだ妹と弟の遺体を自ら荼毘に付したという原体験
・納棺夫として多くの死に接してきた現場経験
・本業である詩人・作家としての筆致
本書のクオリティが高いのは、これら三つが見事に結実し書かれているからだ。
人間にとって生とは死と一つである。死のない生はなく、生のない死はない。しかしながら今日、私たちが生死について語る場合、往々にして生にスタンスを置いて発言する。片面からの視座である。
筆者は納棺夫として、人々が忌み嫌う死・死体(遺体)について、真正面から対峙し自身の思いを生々しく描いている。しかしかえってそれが「生偏重」の世の中で生きている私にとって、生死観のバランス感覚を矯正してもらっている気になる。心のカイロプラティックとでも言おうか、読了後不思議と「キレイな気持ち」になれる本である。
・八歳の時、旧満州の難民収容所で死んだ妹と弟の遺体を自ら荼毘に付したという原体験
・納棺夫として多くの死に接してきた現場経験
・本業である詩人・作家としての筆致
本書のクオリティが高いのは、これら三つが見事に結実し書かれているからだ。
人間にとって生とは死と一つである。死のない生はなく、生のない死はない。しかしながら今日、私たちが生死について語る場合、往々にして生にスタンスを置いて発言する。片面からの視座である。
筆者は納棺夫として、人々が忌み嫌う死・死体(遺体)について、真正面から対峙し自身の思いを生々しく描いている。しかしかえってそれが「生偏重」の世の中で生きている私にとって、生死観のバランス感覚を矯正してもらっている気になる。心のカイロプラティックとでも言おうか、読了後不思議と「キレイな気持ち」になれる本である。