カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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B年 四旬節第5主日 

2015年03月18日 | 神父様からメッセージ(B年)
 
  来週の「枝の祝日」と共に聖週間に入ります。四旬節は、洗礼を受ける人にとって意味深い時だったと思います。神様に近つき、神様の言葉の光に照らされ、新しい世界を見出すことができたでしょうか。イエス様の道を辿る人たちは、自分の信仰の弱さを実感し、自分の足りなさを憂うようになりますが、それを乗り越えられる支えは神様の恵み、神様の力だけです。「あなたの信仰があなたを救った」という言葉によって、イエス様が悩んでいる人に、命や健康、希望などを取り戻しました。自分の心を信仰で照らされた者だけが、身近に神様をみることができます。
「へブライ人への手紙 5・7~9」
 ヘブライ人への手紙の当個所では、いくつかの衝撃的な表現があります。一つずつそれをみてみましょう。イエス様は人間として、花道を歩きながらこの世に来られたわけではありません。「涙をながしながら」と語られています。人間にとって神様の姿、神様の心は受け入れやすいものではありませんが、神様は人間の心に入る時に、ご自分の言葉によって新しい計画をもたらし、深く人間の生き方を問われています。それを人類に語ろうとされたイエス様は、困難の中で神様の子としてご自分の命を捧げ、神様の心を見せてくださいました。イエス様が「完全なものとなられました」ルカ福音記者がこの言葉を解いています。「あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐みのあるものになりなさい」 マタイは「憐れみ」の代わりに「完全」という言葉を使っています。イエス様は神様の御心に「従順」でした。全く神様の思い通りに生きられました。それは私たちの救いの源、まさに永遠の命の源になりました。イエス様が私たちにも、自分の命を捧げるほどに神様の思いの通りに生きるよう教えてくださいました。
「ヨハネによる福音書 12・20~33」
 復活祭に洗礼を受ける人は最終的な準備に向います。当時のギリシャ人(一般の人)のように「お願いです!イエスにお目にかかりたいのです」と希望を持ってイエス様に近づこうとしています。私たちにも洗礼を受ける人たちにも、イエス様が土に落ちる種のたとえ話を教えてくださいます。この究極的な愛の例えで言い換えれば、私たちはイエス様の運命に一体化されています。当個所での重要な言葉は「今、このとき、今こそ」というのです。このたった今、この生きている瞬間、私たちもイエス様と同じように死と復活を経験します。だからイエス様にとって、イエス様に従った者たちにとっても、死は土に落ちた種のように最終的な目的ではありません。イエス様と共に蘇る、生きる、実ることです。この私たちの孤独な瞬間の中にある苦しみは、イエス様と共に復活の栄光の源になっています。
                                        モヨリ神父

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