カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

毎週の一言 1- 23 (十字架称賛)祝日

2008年09月12日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「重陽の節句」、中国では奇数は陽の数とよばれ、縁起のよいものとされました。その中でも最大の9が二つ並ぶ9月9日は非常に縁起がよく、陽の数が重なることから「重陽の節句」となったのです。勿論キリスト信者にとって「縁起」のいいと言うことに偶然はないので、すべて神様の祝福に当てはまっています。
旧暦の「重陽の節句」は「菊の季節」ともよばれます。江戸時代の頃までは菊の花を愛でながら、長寿を祈る宴などが盛大に催されています。この頃、私たちは「敬老の日」を迎えることになります。しかし、年長者の方々の間に、何歳からこの祝いを当てはめるかが笑い話のようで微妙な問題となり、自分の長寿を感謝し祝うことが忘れられてしまう気がしないでもありません。この時に欠かせない思いは、年輩の方々に対しての感謝の気持ちだと思います。まず、彼等のたゆまぬ努力と労働によって、私たちの世界、人生、環境までもが楽になって綺麗になりました。次にお年寄りからいくつもの教えや知恵を授かる事ができ、それを受け継ぎながら信仰の尊さまでも覚えることができました。このように感謝の気持ちを持ちながら、先輩の方々と一緒に神様に向かい、この人生のため、またそれに伴った恵みにも感謝を捧げるべきだと思います。
使徒パウロのフィリピの教会への手紙 2・6-11
イエス様の十字架を思い起こす祝日にあたって、聖パウロはフィリピの教会の共同体に手紙を書き、十字架の意味を感動的に語ってくださいます。イエス様が命を全うされた十字架上の死について、聖パウロがどのような思いを持っているかを知るのに日本の思想にも助けられます。たとえば日本の書道を知ろうとした時に、練習すればするほど、自分の身を削るほどに努力するうちに、字に顕れる自分の個性が消えてしまい、私たちの思いは先生の思いと一体になり、自分の作品は原本と同化していきます。さて、イエス様は神の子でありながら自分の思いと御父の思いと一体になって、自分を無にして人間と同じになりました。むしろ死ぬほど自分をへりくだって、人間の一人となり人類の救いを求めるために御父のみ旨に完全に従いました。それでイエス様が私たちに神様の姿を現わしながら、すべてのものの上に立って私たちの主となり、死と苦しみを通して救いの道を教えてくださいました。
ヨハネによる福音書 3・13-17
イエス様が二コデモととても暖かい会話の中で、天幕のような窓を開きながら神秘的な世界を開いてくださいます。天から降ってこられたイエス様が、神様の心を語ってくださいます。神様の心は一人一人を大きな愛で包み、皆の救いを望んでおられます。だれでもイエス様を(見る)信じれば永遠の命を得られます。なぜならイエス様は十字架上のとてもむごい死に方を通して、私たちに最高の愛の行為を示してくださいます。「友のために自分の命を捨てること、それ以上大きな愛はありません・・・」とイエス様が教えてくださいます。イエス様が十字架上で亡くなった時に、その死と苦しみを通して神様の心、神様の愛、命と愛を得ることを教えてくださいました。だから死は人間が与えられた罰ではなく、むしろ愛の最高のしるしになっています。それを通して復活の喜びを得られます。
                          モヨリ神父

米【注目}毎月の第一と第二の木曜日、午前十時から信徒会館で、
聖書による「イエス様のたとえ話と奇跡について」の勉強会があり

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。