カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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B年 第20主日 

2015年08月11日 | 神父様からメッセージ(B年)

     キリスト信者にとっても亡くなられた親族、友人、恩人は、まだ生きている私たちに天国の方に大きな窓を開いてくださり、そこからこよなく美しい風景を紹介してくださいます。その中に天に上げられたマリア様の姿を見せてくださいます。マリア様は神の母であり、私たちに神様の姿、神様の心を示してくださいます。それだけではなく、仲介者として一人一人を見守っています。さてこの時、その普遍的な絶景のような天国に入るのを期待しながら、マリア様の取次を願い、涙をこぼし続ける人々のために祈ります。天国の神様の懐で、マリア様のほほえみ、私たちの愛情込めた祈りがご先祖に届くように期待されています。
「ヨハネによる福音6・51-58」
 イエス様の時代の律法学者たちは、メシアの食卓の客であると思われています。聖体をいただくのはイエス様と一緒に食卓で食物を食べるだけではなくイエス様自身、イエス様の体、イエス様の心をいただくことになっています。そうする人はイエス様と同じ運命に従って復活して永遠に生きています。イエス様は神様の心の知恵が肉となった「しるし」(秘跡)です。イエス様の肉を食べるものは神様自身の知恵とその心を受け入れ、神様自身をいただくことになります。ヨハネ福音書の命のパンについての長い章の中心になった言葉は「私は…天から下ってきたパン。」「私は…命のパン。」「私は…生きるパン」です。このパンは神様の肉、イエス様なのです。神様は苦しんでいる人に永遠の命を与えるために自分の肉、自分の知恵を食べ物とされました。イエス様の時代の人々にとっても私たちにとっても「イエス様の肉を食べ、血を飲むこと」という表現はとても厳しくて、驚くべきものです。しかし初代教会の時から今に至るまで、キリスト信者はその言葉を受け入れて信じてイエス様の命で生きることになっています。イエス様はこのような硬い話を和げようとはしません。イエス様の肉を食べること、イエス様の血を飲むことは人間的な世界では受け入れがたいものですが、神様の神秘的な世界の経験です。イエス様の時代の人々にとって肉と血のことは「命」そのものでした。今日でもこのように神様がご自分の命を与え続けています。現代こそ、今までのどんな時よりも人間が命を憧れているのではないでしょうか。自死する人は本当はより多く、深く、命を憧れています。神様はイエス様の体を通して人類と一致することによって、ご自分の心、ご自分の知恵、ご自分の命を私たちの心の中に永遠に注ぎ続けておられます。
                         モヨリ神父

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