カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 A年 年間第二十八主日

2011年10月06日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛する皆様へ、
「神様を心から愛しているあなたなら、
心の中でたびたび神様に語りかけられていることでしょうね。」 聖フランシスコ・サレシオ

稲田は稲を植えてある田の事ですが、季語では稲が実り、黄金色に輝く田の事です。「稲」も成長期の稲ではなく、稲穂や葉が黄金色になり収穫できるように実ったものを指します。山里の美しい稲田は米を主食とする日本人の原風景となって心の奥深く住み着いています。平野部の一面に広がる稲田の風景は自然と人力の織り成す美の典型です。この時こそイエス様の言葉が私たちに響きます。「収穫は多いが働き手が少ない」イエス様が蒔かれた言葉は豊かに実りましたが、それを受け入れる人、それを愛する人、それを実行する人はまだ少ない。しかし人手が増えるような理想的な目標は、私たちの心のなかにずっと永久に希望となって宿ります。
 使徒パウロの「フィリピの教会への手紙4・12-20」の中で聖パウロは、何にも囚われていない心、つまり完全に自由な心を示しています。富や持ち物であれ、食べ物であれ、イエス様の心と思いとに一致すれば、他に希望することはありません。そして聖パウロはフィリピの教会の信者たちに対して、感謝の心を持ちながら、彼らの支えのお陰で自由な心を持つことができ、共に苦しみを背負う事になったことは大きな慰めとなったと書いています。実は聖パウロを支え、慰め、心を自由にしてくださったのはイエス様を通した神様ご自身でした。どこでもどんなできごとでも神様の栄光「存在、働き、心と慈しみ」を見出すことができれば自分の心は満たされます。神様は私たちの父としてこの世のどこででも、ご自分の栄光を表されます。私たちがそのことに気づくことができれば満足できるのです。最後に聖パウロは翻訳することができない言葉を付け加えています。それは「アーメン」です。その言葉によって聖パウロは、上記のことをその通りと強調し、他に真実はないと力強く伝えて下さいます。
マタイによる福音書 22・1-14
 聖書ではこの世の出来事や私たちの経験を超える世界、または神様の心について話す時に、独特な方法が使われています。新約聖書でも旧約聖書でも、催された婚宴のイメージが良く使われています。イエス様は罪人と一緒に食事をし、最後の晩餐の中で、ご自分の体を愛のしるしとして食べ物の形で弟子たちに残しました。イエス様は弟子たちと一緒に食事を取りながら、聖霊について話したこともありました。聖書の言葉使いでは、婚宴は食卓に招かれた全人類を象徴し、普遍的な命を示し、神様の知恵、神様の恵みの食卓に誘われた全人類のことを表します。当マタイによる福音書のたとえ話では、再び神様の招きが強調されています。神様はいつでもどんなときでも、色んな方法で色んな人を通して(召命)ご自分の心に人類を呼び寄せています。神様の心は喜びとやすらぎのある所で人間の心を満たす所です。イエス様のたとえ話は聞き手を驚かせながら新しい真実を告げ知らせています。人間の喜びを求めるのは神様です。自己中心的な考え方で神様の誘いを断るのは人間だけです。しかし神様の誘いに応えるには、参加のための礼服が必要です。その礼服は私たちの洗礼式の時に着せられた白い服か、あるいはベールのようなものですが、それは大きな喜びと感謝の心を示現していて、実は神様の命、神様の恵み、私たちの心の完全な改心を通して神様の愛を受け入れられた心を示しています。
                                    モヨリ神父  
※「新 くまもと歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用


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