カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 1 - 27 (A 年 - 年間第二十八主日) 

2008年10月11日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

稲田は稲を植えてある田のことですが、季語では稲が実り、黄金色に輝く田のことです。「稲」も成長期の青い稲ではなく、稲穂や葉が黄金色になり、収穫できるように実ったものを指します。山里の美しい稲田は米を主食とする日本人の原風景となって心の奥深くに住みついています。平野部の一面に広がる稲田、特に山間地の稲田の風景は自然と人力の織りなす美の典型です。この時こそイエス様の言葉が私たちの心に響きます。「収穫は多いが働き手が少ない」イエス様から蒔かれた言葉は豊かに実りましたがそれを受け入れる人、それを愛する人、それを実行する人はまだ少ない。しかし人手が増えるような理想的な目標は、私たちの心の中にずっと永久に希望となって宿ります。
使徒パウロのフィリピの教会への手紙 4・12–20
聖パウロは当個所で何にも囚らわれていない心、つまり完全に自由な心を示しています。富や持ち物であれ、食べ物であれ、イエス様の心と思いとに一致すれば、他に希望することはありません。そして聖パウロはフィリピの教会の信者たちに対して感謝の心を持ちながら、彼らの支えのお陰で自由な心を持つことが出来、共に苦しみを背負うことになったことは大きな慰めとなったと書いています。実は聖パウロを支え、慰め、心を自由にしてくださったのはイエス様を通した神様自身でした。どこでもどんな出来事でも神様の栄光「存在、働き、心と慈しみ」を見出すことができれば自分の心は満たされます。神様は私たちの父として、この世のどこででもご自分の栄光を現わされます、私たちがそのことに気づくことが出来れば満足できるのです。最後に聖パウロは翻訳する事が出来ない言葉を付け加えています。それは「アーメン」です。その言葉によって聖パウロは上記のことをその通りと強調し、他に真実はないと力強く伝えてくださいます。
マタイによる福音書 22・1―14
聖書ではこの世の出来事や私たちの経験を超える世界、または神様の心について話すとき独特な方法を使っています。新約聖書でも旧約聖書でも、催された婚宴のイメージが良く使われています。イエス様は罪人と一緒に食事をし、晩餐の中でご自分の体を愛のしるしとして食べ物の形で弟子たちに残しました。また、イエス様は弟子たちと一緒に食事を取りながら聖霊について話しました。このように聖書の言葉使いでは婚宴は食卓に招かれた全人類を象徴し、普遍的な命を示し、神様の知恵、神様の恵みの食卓に誘われた全人類のことを現わします。当マタイ福音書のたとえ話では再び神様の招きが強調されています。神様はいつでもどんなときでも、いろんな方法で、いろんな人(召使)を通してご自分の心に人類を誘っています。神様の心は喜びと安らぎのあるところで人間の心を満たすところです。イエス様のたとえ話は、聞き手を驚かせながら新しい真実を告げ知らせています。人間の喜びを求めるのは神様です。自己中心的な考え方で神様の誘いを断るのは人間です。しかし神様の誘いに積極的に応えるには、参加の為の礼服が必要です。その礼服は私たちが洗礼式の時に着せられた白い服かあるいはベールのようなものですが、それは大きな喜びを示していて、実は神様の命、神様の恵み、私たちの心の完全な改心を通して神様の愛を受け入れられた心を示しています。  
モヨリ神父
*【注目】毎月の第1と第2の木曜日、午前10時から信徒会館で、
聖書による「イエス様のたとえ話と奇跡についての勉強会」があります。

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1 コメント

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C 年 28主日 (神父)
2008-10-11 16:36:18
イエス様のことを愛される皆様へ、
日に日に秋も深まりますが、教会の庭の枯れ落ち葉の中に、春の素晴らしさが含まれていることを思います。落ち葉のような小さな人間の各々の喜びに、かぎりない神様の普遍的な喜びが含まれています。菊池神社の秋祭りを迎える時期にあたり、何だかその喜びが私たちにも伝わってきて私たちの心も大きな喜びで満たされるようです、同時にお米の収穫を見られる感謝の思いが私たちの心一杯に湧いてきます。
 さて、ロザリオの聖母の祝日は先週の日曜日でしたが、静かに過ぎましたね。けれども私たちはマリア様のマントの中に包まれていることをいつも体感します。そのマントは、私たちを見守っているだけではなく、私たちに神様のかけがえのない恵みが注がれる場所となっています。そのことにきづく時、色々な忙しさに捕らわれている私たちの心は感謝であふれることでしょう。
 この日曜日の福音書のテーマは感謝のことも含んでいます。イエス様に患っていた皮膚病を治していただいた人は十人いましたが、お礼のために戻ってきた人は一人だけでした。むしろマナーが悪いと思われていた外国人であるサマリア人だけでした。けれども彼の心は一本の光で刺し貫かれていました。それは、イエス様に治して頂いたことに気づいたことでした。私たちも色んな病を治していただいていると思います、特別に洗礼で私たちの目が見えるようになりましたし、私たちの心はお赦しによって清くなってきました。このようなたくさんのいただいた恵みで私たちの心は感謝であふれているのではないでしょうか。
 また、今週全世界宣教の日を迎えている私たちは、何を考えればふさわしいでしょうか。じつは私たちの周囲を見るとイエス様が言われるように、収穫は多いが働き手が非常に少ないのです、それだけではなく、いつも私たちの弱さと関わっています。だから、今週収穫の主を祈るようにしましょう。私たちが色んな活動をただしゃにむにしても、カトリック教会のことをどれだけ宣伝しても、人の心を変えられません。それができるのは神様だけです。だから今週は特別に、人の心を変えてくださるように充分神様にお祈りしましょう。人間の心を変える(神様の下に帰ると同じ)と言うのは、神様の存在に気づくこと、それに加えてかぎりない感謝の心を表す事です。具体的に、今度の土曜日の午後6時に、お聖堂で聖体礼拝を通して神様に私たちの弱い心の祈りを捧げましょう。
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