カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 キリストの聖体の主日

2009年06月13日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛する皆様へ

今頃の季節かつては、家族はもとより隣人も共に大勢でにぎやかに田植えをしていました。しかしそのような光景をみることもなくなって久しくなりました。瑞々しい苗を運ぶ子供や裸足で泥田を踏む姿などもなく、機械の音に始まり、束の間に終わる味気ないものとなってしまいました。さて、田植えの時期といえば雨ですがすでに梅雨に入りました。オホーツク海上の冷たい高気圧と、南方洋上の暖かい高気圧が張り合い、梅雨前線が居座って長雨となります。この二つの高気圧の強弱により、梅雨前線が動き南下する西日本などが集中豪雨にさらされます。
このような季節の推移の中、カトリックの典礼は私たちにとって欠かせない祝日を迎えます。それは「キリストの聖体」です。キリストの聖体が何であるかをきちんと述べれば紙数が足りませんが、簡単に言えばキリストの聖体とは、私たちキリスト信者にとって麦で例えられている欠かせない食べ物です。イエス様が最後の晩餐の時にパンを手にとって「これは私の体です。」と言われました。その言葉によって今でも毎日その出来事を記念する私たちにとって、祭壇に置かれたパンはイエス様ご自身です。イエス様の愛、イエス様の命です。その聖なる体をいただく私たちに、まずそのパンの作り方はキリスト信者の人生を例え、人生の支えと食べ物であり最高の愛のしるしになっています。「それを食べる人は永遠に生きる。」
さて、菊池教会のキリスト信者私たちは、当主日、初めてキリストの体をいただく3人の女の子を祝います。その姿を見て自分たちの初聖体を思い起こすことでしょう。その時の感動、その時の喜び・・・、同時に捧げられた麦は、祭壇の上に輝いているキリストの体がどのように作られてあるかを教えてくれます。そのキリストの体は素朴なパンであり丸い形にされ、それは日本の思想による神様の普遍的な丸い心を示してくださいます。
マルコ14・12-26
今日のマルコの福音書の個所は二つの部分に分けられています。イエス様と弟子たちの最後の晩餐の準備の物語とイエス様がご自分の体を記念として残されたパンの意味を示すところです。このような課題が、今日の福音書の箇所で並ぶことによって、キリストの聖体は神様と人類の間の愛の約束と見られています。最後の晩餐の準備は神様との愛の約束の準備になり、最後の晩餐の時に渡されたパンは聖体であり、イエス様の復活によって皆と神様との愛の約束になっています。キリストの聖体はイエス様自身であり、私たちと神様の間の欠かせない結びであり、永遠の愛の約束です。最後の晩餐の時イエス様の言葉で、十字架上の出来事をどのように解釈すればよいのかを教えてくださいました。イエス様の十字架上での死は愛の約束の生贄でした。イエス様の時代には、二人の間に結びの約束を決める時には、まずお互い共に納得した文章を読みます、次に納得し同意した二人が最終的な約束として一緒に生贄を捧げました。その後、約束を決めた二人の間に深い結びを定めてそれを祝うために、共に晩餐をいただくことになっていました。カトリックの典礼から、キリストの聖体は愛の約束のしるしとして紹介されています。ですから、言葉の意味からキリストの聖体は祭壇の上に置かれたパンというだけではなく、神様と一致したキリスト信者のことも現わしています。神様と人間の間の愛の約束の中で、上記のような神秘的な事実をみつめれば、神様と人間との間に食事の交わりをみることになります。
                            モヨリ神父

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