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俳優・勝地涼くんのこと。

『吉祥天女』(3)-3(注・ネタバレしてます)

2008-10-28 00:28:36 | 吉祥天女

映画で弱体化しているのは男性性だけではない。小夜子のキャラクターにも原作とはかなりの違いが見られる。

それが一番顕著なのは涼が死んだ直後に病院の屋上で号泣する場面だろう。
男を惑わし叶家を脅かす者に死をもたらしてきた小夜子が無防備に泣きじゃくる様は、鬼女の面を外し年相応の少女の姿に返ったかのようだ。
対して原作では小夜子は静かにただ一筋の涙を流すだけ。好意を抱いていた相手の死に際しても乱れることのない―乱れることができない―無表情に近い表情も仕草も見事に大人の女のもの。
原作の小夜子は幼少期から男の欲望に晒され続ける中で年齢不相応な大人の女のメンタリティを持ってしまった少女だが、映画の小夜子は大人の女然と振る舞うことで自身を守っている少女なのだ。

それは小夜子が涼に「私を取り巻く全てのものに私は腹を立てているの」と話す場面にも表れていて、原作の小夜子が底冷えのするような微笑とともに口にする台詞を、映画の小夜子は今にも泣き出しそうな、感情を懸命に堪えている声で口にしている。
この設定だから杏ちゃんをキャスティングしたのか杏ちゃんをキャスティングしたからそうなったのかはわからないが、映画では涼たちの男性性を減退させる一方で小夜子の(大人の)女性性も同時に減退させている。
そうすることで、映画の彼らは原作ほどのヒーローでもスーパーヒロインでもなく、よりジェンダー的に幼い少年少女となっている(したがってマッチョイズムに根ざすホモソーシャル的描写は弱められている)。

象徴的なのは映画オリジナルの暁が警官隊に蜂の巣にされる場面である。
銃の暴発によって涼が瀕死になり暁が小夜子を撃とうとする緊迫したシーンが、いきなり回りを取り囲んだ警官隊視点で俯瞰的に捉え直される。
画面が引くことで緊迫感も一気に引いてしまい正直興ざめしてしまったのだが、これは意識的に観客を「興ざめ」させることを狙った演出ではないか。
旧家と新興成金のお家騒動という閉鎖的環境で起こった一連の事件―それも少年少女が中心になって引き起こされた―を一般社会の大人目線で見下ろし、圧倒的攻撃力で暁を葬って幕を引くことにより、ここまで描いてきた叶家と遠野家、小夜子と暁と涼の戦い(原作ではこの三人の間だけで決着がつく)を「所詮は箱庭の中の子供の争い」として片付け矮小化しているのだ。この矮小化によって彼らは原作より無力な存在となっている。
そして原作に比べ彼らを幼く、無力な存在として描くことで、映画版『吉祥天女』は、それゆえに独特の透明感、純粋な雰囲気を獲得した。

(つづく)


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