男性性と女性性の相違、対立というのは原作の大テーマであり、「男の「防御(ディフェンス)」と女の「防御(ディフェンス)」は違うのよ 涼くん それから「攻撃(オフェンス)もね」という小夜子の台詞をはじめ、全編にわたって「男は~」「女は~」と男女を対比的に捉える表現が頻出している。
また「男尊女卑はお家芸」の遠野家の長男である暁を中心に、「たかが女」「女にコケにされるなんざ まっぴらごめんだからな」など男の目線から女を低く見る発言も多く登場する。
それに対して小夜子は男のしょうもなさを鼻で笑い、潔癖な由似子は男への嫌悪感を露にする。
(由似子は「きれいでやさしくて・・・女らしくて・・・なのに賢くて強くて・・・男の人にも負けてな」い小夜子に憧れていたと話しているが、この作品が連載された80年代前半、女性の社会進出が進みながらも現在より社会的立場が弱かった時期に、その女性性をフルに活用することで男たちに勝利し続ける小夜子のキャラクターは読者にとって胸のすくものだったと想像される。作中でも小夜子は男性以上にクラスの女子に圧倒的に人気がある)
異性に対する侮蔑交じりの嫌悪と同性間の連帯がこの作品には色濃い。
勝地くんが映画の涼と暁の関係について「ホモセクシュアルの空気が漂うほど」とインタビューで言っていたが、二人の、とくに暁→涼の感情はホモセクシュアルというよりむしろホモソーシャル的である(ホモソーシャルの定義についてはこちら参照)。
小夜子が暁の心情を代弁した「私のことより涼くんにだけは負けたくない」という感覚、女を欲望のはけ口ないし男同士の競争の道具と見なす考え方はまさにそれ。
(ただ小夜子に関しては途中から涼への対抗意識抜きで本気になってしまったためにそれが暁を破滅に追い込むことになってゆく)
このホモソーシャル傾向は原作の方がなお強い。
涼は遠野家の中では例外的に女をモノ扱いにしない。女たらしでありながら小夜子のさりげない誘惑に対して居心地悪げに顔を赤らめるだけで情欲に走らない涼は、小夜子に「まるで処女みたい」と評されたり、自分でも「男としては不良品かな・・・」と述懐したりする。
こうした女性的―というより男性にありがちな女性蔑視感情が薄い―一面ゆえに涼は小夜子にとって自分の手管が通用しないという意味で「苦手」な存在なのだが、その彼にして暁の遺志を無視することはできずに、小夜子に惹かれる気持ちより男同士の連帯を優先して暁のため、小夜子に死に追いやられた大沢のため、小夜子に銃を向けることになる。
しかし映画では涼は小夜子を守るために暁に銃を向けるのだ。デスペレートに罪を重ね自らを追いつめてゆく暁を救おうとする気持ちもあったに違いないが、このストーリーの改変の意味は大きいように思う。原作では結局涼は小夜子より暁を選び、映画では暁より小夜子を選んだわけであるから。
映画での涼と暁の関係がボディタッチの多さからセクシュアルな空気を醸し出すのも、涼の女たらし設定(彼が異性愛者であることの強調)が削られているのも、原作に比べて反同性愛・異性愛をともなうホモソーシャル要素を薄める結果となっている。
(つづく)