今年は映画『亡国のイージス』公開から20周年になります。私が彼と出会い、ファンになってからも20年の月日が流れました。
『機動戦士ガンダム00』の感想を書きながら、たびたび『イージス』の、特に原作の台詞を思い出していました。
「きれいごとでは済まされないという理屈に慣れ過ぎて、本質を見失ってしまったんです。仕方がない、どうにもならないという言葉で、痛みに耐えるのを当たり前にしてきた。そうして不感症になってしまえば、後は死んでゆくだけだとわかっていたはずなのに、過ちを正すことができなかった。嘘でもいい、勘違いでもかまわないから、正義を実践してみせるという気構えがなくて、なんのための人、なんのための力なのか・・・・・・。」
「生き残るためには戦う、でも一瞬でもいい、自分たちは撃つ前にためらうんだって覚悟で、みんなが自分の身を引き締めていければ・・・・・・その時、日本は本当の平和国家になれるのかもしれない。」
この作品の持つメッセージは映画公開から20年(小説発表からだと26年)を経ても、良くも悪くも今も強く胸に響きます。むしろ世界のあちこちで大きな紛争の続いている今、改めて読んで、観てほしい作品だと感じます。
そして勝地くん、あなたが如月行でよかった。原作を体現したかのような行の、強さも繊細さも哀しさも見事に表現してくれたことに感謝します。今日39歳を迎えるあなたが、また『イージス』のような重厚な作品に重要な役で出演してくれることを願っています。
お誕生日、おめでとうございます。
2010年以降は年一回しか更新されない半端なファンブログでしたが、長い間有難うございました。引っ越し先については、改めてこちらで通知させていただきます。
久しぶりに劇場版に話を戻す。ここで登場するのが、刹那に続く世界で二番目に能力を発現させたイノベイター、デカルト・シャーマン大尉だ。「ピクシブ百科事典」(※1)によると「刹那がELSとコミュニケーションできたのは、イノベイターの能力を持っているだけではない」「本当に大切なのは分かり合える能力ではなく分かり合おうと努力する心」であることを示すために(水島監督が映画版DVDのブックレットで語っていたそう)、いわば刹那との対比として設定したキャラクターなのだとか。
彼がイノベイターとして目覚めたのはセカンドシーズンの終盤、刹那がトランザムバーストを発動させ自身もイノベイターとして覚醒した際にアロウズのパイロットとしてその場に居合わせたことによるとのことだが、正直イノベイターになってしまったのはこの人にとって不幸としか言いようがない。
ガデラーザでの戦闘など見るにイノベイターとしての能力を駆使して常人離れした戦闘を行うことに快感もあったようだが、連邦初のイノベイターであったゆえにほとんど実験動物扱いで自由を拘束され、本人も言う通り鬱憤を溜めまくっていた。彼が一般人を「劣等種」と見下すのもその鬱憤の裏返しで、非人道的扱いへのストレスを周囲の人間を蔑むことでかろうじて呑み込んでいたように思える。
何よりその脳量子波によって、上手く行けばELSとの対話を成立させるために、駄目でもELSを引き付ける囮になるために――主に後者の役割を期待されて火星調査隊に組み込まれたせいであんな死に方をするはめになった。
ひどい死に方をしたのは彼に限らず火星調査隊は皆そうなのだが、デカルトの悲劇は彼にはELSとわかりあおうとする意志が全くなかったにもかかわらずイノベイターであるゆえにELSから脳量子波と物理面の双方で攻撃を受けたことである(ELS的には攻撃だったのか曖昧なところだが)。
まさに「分かり合える能力」はあっても「分かり合おうと努力する心」がなかった。イノベイターになる以前のデカルトを知らないので断言はできないが、アロウズのMSパイロットだったということは志願したにせよ正規軍から引き抜かれたにせよ優秀な軍人だったのは間違いない。
アロウズはエリート集団にありがちなパターンとして次第に選民意識を強め、それが反連邦勢力への容赦なさすぎる弾圧を招くことにもなったのだが、鬱屈の表れにせよ人間を「劣等種」よばわりするデカルトには、もともとアロウズ的な優越感と排他的傾向があったのではないか。
排他的な、あるいは排他的まで行かずとも自分の内心を他人にオープンにする、他人と本心をさらけ出しての深い付き合いをすることを好まないタイプの人間にとっては、脳量子波を介して直接他人と心で繋がるというのは苦痛でしかないのではないのか。
こうしたデカルトと、刹那以上により対比的な立ち位置にいるのがマリナだ。脳量子波は使えても「分かり合おうと努力する心」がなかったデカルトと対照的に、マリナは脳量子波は使えないが誰かとわかりあおうと努力する心は誰より強かった。
地球外生物の来襲というテーマ上、劇場版では世界情勢についてはほとんど描かれず(主としてアロウズによってもたらされた軍事アレルギーと連邦の宥和政策のもと、比較的平穏に治まっていることがさっくり語られる)、したがって世界の主流から外れているために苦渋を嘗め続ける故国のために奮闘してきたマリナ姫の出番も少ない(王宮に避難してきた人々を世話する場面がほとんど)のだが、その少ない見せ場が序盤のコロニー公社にシーリンともども暗殺されかける一件である。
詳細は「マリナ・イスマイール」の項に譲るが、このエピソードには敵対する相手とさえ話し合いわかりあおうとするマリナの平和主義とそれを支える芯の強さが(かつ刹那とロックオンの助けがなければマリナたちは結局殺されていた可能性が高い=平和主義を貫くことの困難さも)端的に描かれている。
面白いのはELSとの交戦において、刹那はほとんど戦闘行為を行わない。最初は理由のわからないまま、ELSの脳量子波によってもたらされる頭痛とイノベイターとしての直感によって木星探査船「エウロパ」の姿を模したELSを攻撃できず、木星のワームホールから出現した大量のELSを迎え撃った際にはトランザムバーストで「対話」を行おうとするが、送り込まれる膨大な情報量に耐えきれず人事不省に陥り、機体がELSに侵食されるところをティエリアをはじめとするマイスターたちの命がけの救援によってかろうじて救われている。
意識を取り戻した後、完成したばかりの新型機ダブルオークアンタで出撃したさいも、人類の未来を賭けた「対話」を行うために、仲間たちの献身的援護のもとに新たに出現した超巨大ELSを目指す。
あくまで対話での相互理解を目指し、戦わない彼を守るために仲間たちが身体を張って戦うという構図はカタロンに保護されていた頃、そして劇場版冒頭でのマリナのごとくである。
自身はほとんど攻撃を行わなくても仲間が彼に代わって攻撃を行う状況はELSから見ればとても平和的話し合いを望んでいるとは映らないのではないか、劇場版感想の「(3)-9」で書いたように、あきらかに仲間とわかる連中がELSを撃ちまくってる状況で「戦うわけに来たわけではない」と言っても説得力がないのではとも思うのだが、マリナがそうであったように本人の手が汚れていなければ(コーラサワーを救った場面とか多少はELSを攻撃していたが)平和の使者、親善大使となる資格は十分なのかもしれない。
武力を行使してでも道を開かなければ交渉相手のもとに辿り着くことさえできない状況下では、どれほど攻撃されようと当人だけは攻撃し返さないことが和平交渉を行う意志があるという精一杯の表明であり、「対話」をもってELSにもそれが伝わったからこそ和平が成立したと見るべきなのだろう。
(上で「どれだけ攻撃されようと」と書いたが、ELSにとってMSや艦船に取りつき融合したり擬態してミサイルを放ったりするのは「攻撃」なのだろうか。水島精二監督はインタビュー(※2)で「(ELSは)接触して情報を与えることで相互理解をしようとしている。情報を与えるのが好意の証なんですよ。」「実は、エルスは人類に「愛」で接していた。でも、コミュニケーションの方法を1つしか知らなかったから、人類側に被害が及んだ。」と説明している。
この説明に則るなら“ELSに「攻撃」の意図はない、好意の証が裏目に出ただけ”が正解となる。それを承知のうえであえて異論を述べると、ELSは本当に自分たちの「好意」が人類を恐怖に陥れ、結果自分たちへの敵意を喚起していることに気づかなかったのだろうか?
膨張し、爆発した太陽に惑星ごと焼き尽くされそうになったELSが命からがら逃げる回想?場面があるが、そこにはELSの何とか生き延びたいという思いが感じ取れる。ELSの記憶に触れた刹那とティエリアの「みんな同じだ。生きている」「生きようとしている」という言葉通り、必死で生き延びようとしている(そのためにはるか遠い太陽系まで旅してきた)ELSが、同じように必死で生きようとしている、自分たちに命を脅かされている人類の思いを全く理解できないものなのだろうか?
精神構造の全く違う一般人類はともかく、話が通じそうだと彼らが目を付けたはずの脳量子波を使える人間、とりわけイノベイターとして覚醒している刹那やデカルトの感情でさえ察することはできないものなのか?
個人的にはデカルト・シャーマンとの不幸な接触が関係しているのではないかと考えている。デカルトは終始ELSと理解し合う意志はなく、彼らへの排他的敵意を剥き出しにしていた。そのデカルトの機体のみならず当人の精神・肉体にまで侵食を行った結果(デカルトの身体は最後には内側からELSの結晶に突き破られていた)、彼の敵意と憎しみの深さを“理解”し、全体で一つの意識を共有していると思しきELSは自分たち同様に、デカルト個人の感情を人類の総意と受け取ったのではないだろうか。
しかし種としての生存を賭けてここまで旅してきたELSとしても、生き延びるためにも引くことはできない。さらに、一瞬強い脳量子波を放って「対話」の意志を示す個体(=刹那)が現れたが、いざ話をしようとしたら唐突に沈黙してしまい回りの個体がなぜか攻撃を加えてきたりする。
ここで彼らは人類との「対話」を諦め、ようやく得られそうな安住の地を確保するために、自分たちを排除しようとする人類に対し敵意を持って立ち向かうことにしたのではないだろうか。超巨大ELSまで現れ本格的に地球に向かってきたのはこういう背景があったのではないかと想像するのである。
かくて超巨大ELSを中心とするELSの大群と地球を守るべく絶対防衛線を張り巡らせた連邦艦隊との戦いは熾烈を極めることとなる。そこに復活した刹那が彼のための機体・ダブルオークアンタで現れ、超巨大ELSに「対話」を試みるわけだが、ここで興味深い事態が起こっている。
劇場版感想の「(3)-9」でも書いたが、超巨大ELSの内部に侵入するためクアンタが表面を切り裂いた際はすぐに切り口が塞がりかけたのに、閉じかけた亀裂にグラハムの機体が飛び込み疑似GNドライヴを暴走させることで大爆発を起こし開けた穴は刹那たちが通り抜けるまで塞がることはなかった。そして侵入してきたクアンタを超巨大ELSは攻撃するどころか迎え入れるような態度を示し、「我々を迎え入れるのか」とティエリアを驚かせている。
超巨大ELSの外部ではいまだ激戦が続いているとはいえ、超巨大ELSのこれまでが嘘のような平和的な姿勢には、デカルトの意識に触れた時とは逆の転換が起きたように思える。その転換点はどこだったか。
考えられるのはグラハム・エーカーの“死”である。“死”とカッコ付きにしたのは自爆の瞬間にグラハム自身が「これは死ではない!人類が生きるための・・・!」と叫んでいるからだ。この台詞に先立つ、超巨大ELSの亀裂に向かってゆく時の発言も「未来への水先案内人はこのグラハム・エーカーが引き受けた!」。
ELSへの怖れも憎しみもなく、人類の未来のために、刹那とELSの架け橋となるためにグラハムは特攻した。彼は脳量子波は使えないはずだが(刹那やデカルト、ティエリアたちのように脳量子波をぶつけられて苦しむ描写がない)、超巨大ELSの内側で爆散したことで彼の意思をELSは受け取ることができたのではないか。対話がしたい、今からそのための使者が来る、と。それならクアンタが表面を切り裂いた時は即座に修復にかかった超巨大ELSがグラハムの開けた穴は塞がず、かえって刹那たちを友好的に招き入れたことの辻褄が合う。そして刹那との対話によって、自分たちのコミュニケーション方法が地球人には害になると知ったELSは地球人への敵意を解いて和解へと至った。
この特攻以前でも、グラハム率いるソル・ブレイヴ隊の初登場シーンで、彼らの猛攻を喰らったELSはそれでも十分余力がありそうなのに、蚊柱のように球体状にまとまっての様子見に転じている。グラハムが「ええい、何を企んでいる!」と叫んでいるので、これは彼にとっても不可解な事態だったのがわかる。
結局この時なぜELSがいったん攻撃を止めたのかは最後まで明かされていないが、この時からグラハムに対して攻撃を躊躇うというか、何かしら好意的感情を抱く要因があったりしたのかも?それともこの小休止のあとに超巨大ELSが出現するので、「今から行くよ」という報告を受けて待ちの姿勢に入ったタイミングがたまたま合っただけなのか。
・・・などと思っているのだが、これだとデカルトの狭量のせいで人類が滅亡しかけたみたいで彼の立つ瀬がないのと、先に書いたように公式見解は“ELSは(終始)人類を攻撃する意図はなかった”なので、まあ単なるグラハム好きの妄想と思って読み流して頂ければ(苦笑)。)
ここまで見てきたように、劇場版の時点で世界が地球連邦という一つの形にまとまり、一昔前はその枠組みからはみ出し攻撃すらされていた中東諸国も新体制に移行した連邦の宥和政策のもと復興に向かっているのも、イオリア計画による“軌道エレベーター建設を機とする三国家群体制による冷戦時代”→ソレスタルビーイングの武力介入を機とする地球連邦の成立”→“地球連邦下での統一世界と恒久平和を確固たるものにするための独立治安維持部隊アロウズの台頭”→“アロウズの解体とアロウズを陰から操っていたイノベイドの一掃による、武力より相互理解を重んじる平和世界の実現”という過程を踏んだ上での成果である。
そこに至るまでには多くの非人道的弾圧と何百万もの人間の死があったのだ。それを鑑みれば、武力解決を拒否し、決して武器を手に取らないマリナのやり方はいかにも理想主義的と映るのは否めない。むしろマリナの戦い方に敬意を払いつつも、「話している間に人は死ぬ」と武力介入による紛争根絶を目指した刹那とソレスタルビーイングの方が正しかった、ように見える。
しかし劇場版のラスト、50年ぶりに地球に戻ってきて年老いたマリナと再会した刹那は「君が正しかった」と告げる。「君は」でなく「君が」という言い回しはこの後に続くべき言葉が「俺は間違っていた」であることを想起させる。この刹那の言葉を受けてのマリナの返しも「あなたも、間違ってはいなかった」であり「あなたも正しかった」とは言わない。間違ってはいないが正しくもない。
暴力を否定するマリナの理想を最善と認めながらも、目の前の紛争を止めるために妥協案として暴力を用いることを是としてきた刹那が、ここで明確に暴力による解決を否定した。マリナも妥協案を選ばざるを得なかった刹那の気持ちを汲み取ったうえで、それでも非暴力―「わかりあう」ことによる解決こそが正しいと認めた刹那の言葉を肯定している。
刹那の心境の変化は何によるものなのか。上で書いたようにセカンドシーズンラストまでの流れは武力なくして平和は訪れなかったことを示しているかに見える。つまりその先で起こったこと、ELSとの接近遭遇から和解に至る過程にその答えがあるのではないか。
テレビシリーズで刹那はほとんど毎回、名のあるキャラとMS同士の戦いを繰り広げるさいには相手と言葉を交わしてきた。会話の中で想いをぶつけ合い、決裂し、剣をふるって相手を倒してきた。
しかし異星体であるELSとは言葉が通じずコミュニケ―ションが全く成り立たない。それでいながらイノベイターである刹那は脳量子波を通して、相手に敵意とは別の強い想い、デカルト言うところの「叫び」を感じていた。
仲間たちのサポートのもとで刹那はついに超巨大ELSとの対話とそれによる停戦に成功するが、もう一歩遅れていればガンダムマイスターを含むプトレマイオスクルーも、地球軍の艦隊も全滅を免れなかった。ELSは地球に到達し地上を覆いつくして、人類もELSとの融合に成功した一部を除いて死に絶えていただろう。
この“言葉の通じない脅威”に対して、普段は穏健派といっていい人々さえも、ELSを武力で排除することに決する。宥和政策を掲げ、常に話し合いによる問題解決を唱えてきた連邦大統領は全現有戦力によるELS迎撃案を承認し、現在は連邦議員として活動、かつて反政府ゲリラだった頃も極力戦闘を避けようとする姿勢を見せていたクラウスも「私たちの望む平和は、人類が存続してこそ得られるのだから」「そのためなら、私は銃を手にする」とシーリンに宣言し、リント少佐の掃討作戦を嫌ってきたマネキンがELSに対しては掃討作戦を指示する。
かかっているものが地球の命運、全人類の命なのだから普段は穏健派・人道派の人々も強硬派に転じるのも無理のないところだ。ELSの破片(?)が地上に落ちた時の混乱を考えれば、一個体たりとも残せないと考えるのもまた理解できてしまう。
大統領など「たとえ他者を傷つける結果になったとしても」という発言からは、ELSの“攻撃”はコミュニケーションの方法が人類と違うがゆえの不幸な齟齬でELSには害意がない可能性も想定しているようなのだが、たとえ害意がなかったとしても現実に人類側に甚大な被害が出ており、さらに被害が致命的に増大することが予測され、かつコミュニケーションの手段も見いだせるあてがないとすれば力で絶滅させるほかないという、彼女本来の宥和主義に反する苦渋の決断をせざるを得なかったのがうかがえる。
こうして軒並み誰もが徹底抗戦論に傾く中、唯一話し合いでの解決に挑み続けたのがソレスタルビーイングだった。彼らはELSと意思を疎通できる可能性があるイノベイター刹那と、“対話”の主に発信面を仲介する機体ダブルオークアンタと、対話の受信面をサポートする量子コンピューター・ヴェーダ、ヴェーダと刹那の間を繋ぐイノベイド・ティエリアを擁していた。
200年前から「来たるべき対話」を見越して準備してきた組織だけに、そのアドバンテージは地球連邦に遥かに勝る(連邦軍もイノベイターであるデカルトも参加した火星調査隊派遣の段階では、ごくごくわずかながらデカルトを介しての「対話」の可能性も考えてはいた)。
ソレスタルビーイングの構成メンバーはイオリア計画の第一段階である“武力介入による紛争根絶”に共感して組織に加わったのであり、その時点では第三段階の「来たるべき対話」は存在すら知らなかった。彼らが異星人とコミュニケートすることに積極的な関心を持っていたとは思えないが(イオリアにしても特別異星人と仲良くなりたかったわけではなく、科学の発達に従い人類が外宇宙へ進出するのは必然であり、そうなれば外宇宙に住む知的生命体と接触することも必然、ゆえにいつか確実に来る異星人との遭遇に備えなくてはならない、といういわば危機管理的観点から「来たるべき対話」を提唱したものだろう)、イオリア計画を進める中で自然とイノベイター、クアンタ、ヴェーダ、イノベイドと「対話」に必要な備えが揃ってしまった。
イオリア計画が想定していた“人類の外宇宙進出に伴う接触”のためではなく、戦争を無くしたい、命を守りたいがゆえに危険な戦いに身を投じた彼らは、その勇気と正義感をここでも発揮してELSとの対話の最前線に立った。結局それが大正解だったのは結果が証明している。
人類は総力を振るっても、おそらくはこの時点で人類が所有する兵器の内で最大の破壊力を持っていただろう外宇宙航行母艦「ソレスタルビーイング」の主砲でさえ超巨大ELSに全く歯が立たなかった。コミュニケーションの手段がなかったため武力行使一択しかなかったとはいえ、武力でELSに対抗しようとする限り、地球軍にも人類にも絶滅する未来しかなかったのだ。
幸いにしてELSは積極的に人類を滅ぼそうとか支配しようという目的意識を持ってはいなかった。母星の周辺環境が生存に適しなくなったために新しい住処(新しい太陽?)を求めて旅をしてきただけで、自分たちの居場所さえ確保できれば殊更人類と対立する意図はなかったろう。
刹那がELSとの対話時に見た記憶の中に、ELSが取りついた惑星が彼らの荷重を支え切れずに滅んでしまった光景が出てくるが、この時の二の轍を踏みたくないという思いもあったと思われる(人類もELSも誰の得にならない)。そうでなければ、デカルトに破壊された「エウロパ」の破片だけでなく、とっくにELS総出で直接地球来訪→地球滅亡となっていたのではないか。
刹那との対話によって自分たちとは全く異なる人間の生体を知り、彼らと共存するための妥協点を探った結果があの、“月の軌道の向こう側で金色の巨大な花の形に固定”だったようだ。
あんな宇宙空間でじっと固まってて人生の喜びとかあるのかなあ、人間には身体の上に“外宇宙進出の橋頭堡”とか作られちゃうし(さすがにイノベイターを通訳にお伺いは立てたものと思うが)、とか考えてしまうが、劇場版感想の「(3)-11」で書いたように、ELSはものすごく寛容なのか鈍いのか、そうした人間的尺度を超越してるかしていて、とにかく“気にしていない”のだろう。
この並外れた“寛容さ”があればこそ、戦闘においては圧倒的に勝っていたにもかかわらず、そして少なからぬ同胞を殺されたにもかかわらず、人類を滅ぼしも奴隷化もせず、それどころか人類の外宇宙進出に一応の(身体の上に橋頭堡を築かせてくれるという意味において)協力すらしてくれるのだろう。
この「同胞を殺された」件だが、進化過程の初期から脳量子波で意識を共有している、個が全であるようなELSにとって個体の死というのはどの程度の意味を持つのだろう。人間にとっての人体を構成する細胞の一つが消滅したようなものと同じで気にもならないのか、逆に死に瀕した個体の痛みや恐怖、恨みを全体で共有するのか。後者だったなら、さすがに人類は赦してもらえなかったろうから前者だろうか。
それにしても人類も及ばずながら奮戦した結果かなりの数のELSを消滅させているので、人間でいうなら指の一本くらいは失った状態なのではないか。指先の皮が剥けたくらいなら気に留めなくても、指一本無くして再生の目途もないとしたらさすがに相手を恨みたくなるだろう。
戦闘状況がほぼ引き分けなら恨みを呑んで和平も結べるが、圧倒的に勝っていたのに矛を収め、大した見返りも求めない(近所に住み着くのを認めさせた程度)のには驚く。
ただ一つ言えるのはELSの記憶を見た刹那とティエリアが口にした「みんな同じだ。生きている」「生きようとしている」という言葉が示すように、身体の形状も生活様式も考え方も何から何まで違う彼らとわかりあうための手がかりが、両者に共通する「生きようとしている」点だったろうことだ。
死にたくない、生きたいからこそELSは地球圏に襲来(訪問)したし、人類はELSを迎え撃った。不幸な出会い方になってしまったが、どちらの行為も「生きたい」という共通の願いの現れであるとわかれば理解はしあえるし、どちらも“生きる”ためには戦いよりも平和共存が最適、ではそのためにはどのような方法がよいか(住み分け方など)という次の段階の話し合いに移ることができる。刹那たちがELSと行った対話の骨格はここにあったと思う。
とはいえ、人類が金属異星体などという従来の常識を超越した生き物と一応の共存を了承したのは、まさに圧倒的に負けたからであったと思う。もし多少の犠牲は出ても戦闘状況が人類優勢であったなら、必ずや人類はELSを殲滅するまで戦い続けただろう。
完膚なきまでに敗北したからこそ、巨大な花と化したELSが地上からもはっきり見えるような近距離にいる、喉元に剣を突きつけられているとも感じられる状態を受け入れることができたのである(ともかくも彼らの存在を受け入れられたのは、民間人の犠牲がほぼ出ていないことも一因だろう。ELSが軍人以外を“襲った”のは初期に「エウロパ」の破片として地上に降り注いだ一部の個体だけで、大惨事と見えたELSに取りつかれた地下鉄の暴走・衝突事故でさえ小説版によると「数十名の重軽傷者を出していた」とあり死者はいなかったらしいので、もしかするとELSによる民間人の死者はゼロかもしれない)。
ELSはある意味先に書いた「相手より圧倒的に、抵抗する気力を根こそぎ奪うほどの差をつけて強くある」存在であり、出始めのソレスタルビーイングのような人類間の強者と違い、どう精進しても叶う気がしない。永遠の強者かつアロウズやイノベイドたちのように強権的弾圧や殺戮を行うこともない、しかし『幼年期の終わり』のオーバーロードのように人類に規制を課しているとも思えない(ゆえになのか、ELSとの平和共存が成立したのちも世界から争いの火は消えなかったことが小説版のラストで語られる)ELSの静かな見守り(無関心?)のもと、ELSがいなかった時代を知る者が過半数を切ったろう頃に人類はついに本来のイオリア計画の最終段階、外宇宙へ進出するまでに成長を遂げた。そして人類初の外宇宙航行艦「スメラギ」が最初の航海に向かうその日、刹那は50年ぶりに地球に戻ってくる。
先に挙げた「君が正しかった」「あなたも、間違ってはいなかった」を挟んで、前には「こんなにも長く、時間がかかってしまった」「すれちがってばかりいたから」「だが求めていたものは同じだ」、後ろには「俺たちは」「私たちは」「分かり合うことができた」、というやりとりがある。
マリナが「すれちがってばかりいたから」と受けているので、刹那の言う「時間がかかってしまった」は地球に帰ってくるまでかかった時間ではなく、マリナと「分かり合う」ために要した時間のことだろう。
初対面からお互いに強く相手を意識し、ミレイナに「お二人は恋人同士なのですか?」と問われたり、フェルトが刹那に花をあげるさい「マリナさんに怒られるかな」と呟き刹那が「彼女とはそんな関係じゃない」と否定したりと周囲からも恋愛関係かと疑われるほど近しさを感じさせていた二人だが、「求めていたものは同じ」でありながら、刹那は武器をとってそれを目指し、マリナは武器を取らずに目指すという方法論が違っていた。互いの考えを理解し敬意を払いつつも、共に歩むことはできなかった。
それがようやく出会ってから50年以上を経て、互いの歩む道が一つとなった。脳量子波によってELSとは数時間で和平に至った刹那が、長旅で留守にしていたとはいえマリナとわかりあうには、わかりあえたと伝え合うには50年の時を要したのである。
ただ時間はかかろうとも、考え方が違っていても相手を頭から否定せずになぜそう考えそう感じそう行動するのかを理解しようとする気持ちがあれば、今日は無理でも明日には分かり合えるかもしれない。だから相手と戦うという選択は可能なかぎり避けなければならない。
それがELSとの和平という大仕事、初めてスクラップではなくビルドを成し遂げた刹那の辿り着いた境地であり、『ガンダム00』という作品の結論だったのではないかと思う次第である。
※1ー「ピクシブ百科事典 デカルト・シャーマン」(https://dic.pixiv.net/a/デカルト・シャーマン)
※2ー「機動戦士ガンダム00と、2つの「対話」前編」(https://ascii.jp/elem/000/000/574/574526/))
今回で『ガンダム00』感想は最終回になります。去年の誕生日企画が丸一年続くという醜態をさらしてしまい、しかも途中から勝地くんに関係ない内容という・・・お恥ずかしいかぎりです。
さて、先日来gooブログが10月1日でサービス終了する旨ずっと表示されていると思いますが、考えたすえ今年の誕生日メッセージを最後にブログを完全に閉鎖することにしました。過去ログは閲覧できるように他のサービスを探して引っ越しする予定です。明日(もう今日になってしまいましたが)改めて最後のご挨拶をさせて頂く予定です。
復讐否定については、上記の三人のうち復讐を遂げた二人、ルイスとアンドレイは結局それによって幸せになっていない。
特にルイスは仇であるネーナがおよそ同情の余地もない相手だったにもかかわらず、仇を討った直後子供のように無邪気に大笑いした後に、人を殺した重さに絶叫している。
キャリア的にはまだ新兵で准尉とはいえ、軍人として戦場に出ている、それも脳量子波対応型の特別製の機体に乗っている以上、敵兵を殺したことが皆無とは思えないが(ほぼ対ソレスタルビーイング戦でしか参戦してないなら、ここまで誰も殺していない可能性もあるか?)、職務によってでなく私怨で人を殺した―恨みつらみがあるがゆえに“記号”とは見なせない、“人”として認識せざるを得ない相手を殺してしまったことで、自分が殺人者になったことを深く強く感じざるを得ない。
そこまでして仇を討ったのに、それで両親が戻ってくるわけではない。仇討ち直後笑いながら「ねえ、ママ、パパ、どこ?私やったよ」と両親を探すシーンに、復讐を遂げても失った家族は返らない虚しさを彼女が目の前に突きつけられているのが伝わってくる。スミルノフ大佐の仇としてアンドレイを討とうとしたピーリスに沙慈が叫んだ「もうやめてくれ!何も変わらない、仇を討っても、誰も生き返ったりしない。悲しみが増えるだけだ」という言葉をまさに体現している形だ。
この沙慈の台詞は綺麗事に聞こえるかもしれないが、沙慈自身も少し前までソレスタルビーイングを姉とルイスの仇同然と憎んでいたのである。そのために刹那に銃を向けたことさえあった。沙慈自身は引き鉄を引く手前で引き返したが、一度は復讐に走りかけたゆえの実感がこの言葉にはある。
事実この言葉を契機にピーリスの復讐心はいったん沈静化する。大佐を失った悲しみが強すぎて暴走してはいても、先に書いたように大佐が最後にアンドレイを守ろうとしたのを見ている彼女は、アンドレイを殺すことが大佐の想いを無にする行為であること、「悲しみを増やすだけ」だと本当はわかっているからだ。
そしてトランザムバーストによって(?)再びマリーが主人格となった状態でアンドレイと再会した時、彼女は戦うのでなく言葉でアンドレイと語り合い、彼の本質が父の愛に飢えた子どもであったことを知る。そしてアンドレイの方も自分がちゃんと父に愛されていたことを知り、子供のように大声で泣いた。
一方でスメラギへの愛情を拗らせたあげくに彼女に銃を向けるに至っていたビリーもトランザムバーストの光の中でスメラギの本心―彼女が決して自分を利用しようとしていたわけじゃない(利用ではなくとも好意に甘えていたには違いないのだが)こと、それ以上に自分自身の本心―彼女を憎んでいるのはあくまで愛情の裏返しであることを知って、その本心をちゃんと言葉でスメラギに伝えた。
自分の想いを吐き出して以降アンドレイもビリーも憑き物が落ちたようになり、ビリーなどスメラギに協力までしている。まあこの二人の場合はもともとは相手に愛情を抱いていた、その想いを裏切られたと誤解したからこそ愛が憎しみに裏返ったわけで、敵対した後もその憎しみの底には愛情が潜んでいる。愛あってこその憎しみなのだから誤解が解ければ本来の愛情に立ち返ることができた。
とはいえ、最終回で「私は軍人として生きる。市民を守り、平和を脅かす者と戦う。父と母が目指した軍人に」とのモノローグが登場するアンドレイは、“父は母を平然と見殺しにした”父は反乱軍の一員だった”との二重の誤解の果てに父親を手にかけた経緯を思えば、父が憎しみの対象から軍人・人間としての目標へとあまりにも簡単にシフトしていることにいささか唖然とする。
長年の誤解が解け、父親を尊敬できるようになったのは大変喜ばしいことだが(スミルノフ大佐は目標とされるに相応しい立派な軍人だと思うし)、その父を自ら殺してしまったことへの葛藤とかもう少しくらいないのか?と文句の一つも言いたくなってしまう。罪悪感が深ければこそ父の志を継ぐことが贖罪だと思っているのだろうし、そうした想いの延長線上に劇場版での壮烈な死にざまがあるのだろうと脳内補完してはいるのだが(小説版では父やスイール王国の人々に対するアンドレイの贖罪意識について掘り下げた記述がある)。
ビリーについても彼の項で書いたように、あの流れでスメラギとくっつかず劇場版で初出の女と結ばれたのには驚かされた。それも顔を合わせることさえほとんどなかったにもかかわらず数年来想い続け、二年間の(プラトニックのままでの)同居生活を経て、ようやく告白&ハグまでしたのにまさかの自然消滅。
これまでの執着は何だったのかと思ってしまうが、それこそアンドレイともども「憑き物が落ちた」ということなのかもしれない。そういえばトランザムバーストの光によって蘇った(のだと思う)ルイスはその光を「心が溶けていきそう」と形容していた。
アンドレイもビリーもマリー/ピーリスも、そしてルイスも、トランザムライザーが放出した大量のGN粒子の光の中で自身を苦しめてきた憎しみや執着心から解放されている。トランザムバーストにはGN粒子散布領域内の人間に意識を共有させるだけでなく、彼らの拘りを溶かす能力があるのかもしれない。
思えば敵対関係にある人と人がわかりあう、胸襟を開くには、まず相手に対する壁となっているものを取り払わなければならない。障害物を溶かしてはじめて相手と直接向き合うことができる。
執着心もその人の一部、というより捨てるに捨てられなかったその人らしさの真髄と考えると複雑なものがあるが、歪んだ執着心は相手も自分も不幸にしかしないことを鑑みれば、あえてその執着を捨てる―悟りを開くことによって他人とわかりあえる自分として生き直せるのかもしれない。
ただこのトランザムバーストの光でさえ、全ての人間の「心を溶かす」ことができるほど万能ではない。サーシェスは光の影響によって目の前のロックオンの心の声を感知しつつも「何だ、この気持ちわりい感じは?」という感想しか抱かず、ロックオンの方もサーシェスを理解しよう、赦そうなどという感情が湧いてきた形跡もない。
ロックオンがひとたびサーシェスを追いつめながら見逃そうとしたのは、トランザムバーストのせいではなく、死んだアニューの「わたしたち、わかりあえてたよね」という言葉を思い出したからである。それも完全に赦すと決めたわけではなく、サーシェスが銃を撃とうとすれば即座に返り討ちにしている。
結局どうやっても話が通じない人間はいるわけで、やはりトランザムバーストに「僕の脳量子波を乱して」と不快感しか表さなかったリボンズとも刹那はついにわかりあうことはできなかった(リボンズははっきり「その気は、ないよ!」と言い切っている)。ルイスとネーナが和解する姿も想像すらつかない。そもそもトランザムバーストの発信元だった刹那自身が、ヴェーダ本体の前でティエリアの遺体を見つけた時に「仇は討つ!」と発言しているのである。
復讐否定を提示しつつ、復讐心を捨てること、人と人がわかりあうことの困難さも繰り返し描かれているのだ。セカンドシーズンの復讐否定というテーマを象徴するようなキャラクターであるロックオン=ライルが復讐に猛るピーリスに理解を示し、ライルを助けるためにアニューを撃った刹那を理不尽と知りつつ一時は深く恨み、「昔を悔やんでも仕方ねえ」と言いながらいざ家族の仇であるサーシェスを目の前にすると強い復讐の念が胸に沸き起こってきたりするのがその代表だろう。
しかしライルはサーシェスをいったん撃つのを止めた時に“復讐のための殺人”を思いとどまった。最終的にサーシェスを射殺したのは身を守るためであり、小説版ではこの時のライルの心情を「彼には、復讐を果たした、という達成感はなかった。ただ、憐憫の翳りをたたえているだけである」と説明している。
そして彼はアニューを想いながら「おまえのおかげで人と人がわかりあえる世界も、不可能じゃないって思えたんだ。だから世界から疎まれても、咎めを受けようと、俺は戦う」との決意を新たにする。「人と人がわかりあえる世界」のために戦う。いっときは復讐心に流されかけた彼が「過去じゃなく、未来のために戦う」という初心に戻る姿に、困難でも復讐心を捨ててわかりあえる希望というものも合わせて提示しているのである。
復讐否定とセットの「未来」志向の方はというと、「忌まわしい過去を払拭するため」にソレスタルビーイングに参加し一度は挫折感から組織を抜けたスメラギは、今度こそ自分の戦術で仲間たちの命を守ると決意して復帰、ヴェーダ奪回作戦で対峙したビリーに「私は戦う。自分たちの意志で、未来を作るために!」と宣言する。
武力介入で奪った人の命の重みを背負い、国連軍にに捕まっても「罪を償う時が来たのだと感じ」て死の可能性も受け入れていたアレルヤは独房を訪れたピーリスと再会したことで彼女を取り戻す、共に生きるという「戦う目的」を得た。ヴェーダ奪回作戦に挑むにあたっての刹那の台詞は「俺たちは未来のために戦うんだ」であり、イノベイドの本拠地にしてヴェーダの所在地である外宇宙航行母艦「ソレスタルビーイング」へと向かう段でのスメラギの言葉は「イノベイターの支配から世界を解放し、再び世界を変えましょう、未来のために!」だった
そして初めてトランザムバーストを発動させイノベイターとして「完全なる進化を遂げた」時の刹那の言葉は「未来を創るために、俺たちは、変わるんだ!」。そのトランザムバーストのもたらす光を沙慈は「未来を照らす光」と表現し、リボンズとの最後の戦いに臨んだ刹那の決め台詞(というのか?)は定番の「目標を駆逐する!」ではなく「未来を切り開く!」。
刹那は一時プトレマイオス2に保護されていたマリナに「破壊の中から生みだせるものはある。世界の歪みをガンダムで断ち切る。未来のために」と語っているので、セカンドシーズン序盤の時点ですでに“未来のために戦う”心境に至ってはいるのだが、特に作品の終盤に向けて刹那のみならず皆の想いとして「未来」というフレーズが強く打ち出されている。
ちなみにヴェーダ奪還作戦時、ダブルオーライザーに新型モビルアーマー「レグナント」で襲いかかってきたルイスに沙慈は「戦いで勝ち取る未来なんて、本当の未来じゃないよ!僕たちはわかりあうことで、未来を築くんだ!」と叫んでいる。
刹那の「(未来のために)破壊の中から生みだせるものはある」という台詞を「(それは)本当の未来じゃない」と否定しているかのようにも聞こえるが、二人の言葉は必ずしも矛盾しない。「破壊」だけでは本当の未来は築けない、「破壊」は真の未来を築くための前段階であって、「破壊」によって「世界の歪み」を取り除いた後に相互理解による真の未来を築けばよい。要はスクラップ&ビルドである。
「刹那・F・セイエイ」の項で書いたように刹那は自分がやる、できるのは「破壊」の方だけで、真の未来―より優れた世界を構築するのは別の(例えばマリナのような)人間の仕事と思っているふしがある。
確かに「破壊」だけで終わってしまえば、そこに残るのは「戦いで勝ち取る未来」=軍事力で勝る者が幅を利かせる世界となってしまうだろう。しかしマリナやセカンドシーズン最終回で就任した新連邦大統領のような相互理解・宥和政策を掲げる人間にソレスタルビーイングが行ったような「スクラップ」は到底できないだろう。「ビルド」と対になるかぎりにおいて、「スクラップ」は「本当の未来」を創るための重要な力となりうる。
(と書いておいてなんだが、刹那たちの語る「未来」という言葉はどうもふわふわしていて、彼らがどんな未来を望んでいるのかいまいち見えてこない。彼らが“紛争のない世界”を望んでいるのはわかるのだが、それはエイフマン教授やビリー、マネキンらにこぞって夢物語扱いされるほどに実現困難なミッションだ。
自身が「ビルド」の段階に直接携わらないとしても、どうやって作るか、どうそれを維持するかといった具体的な方法論を持っていないなら、結局は計画性のない夢物語を描いていたに等しいのではないか。まあなまじ「未来」の内容を具体的に詰めてしまうと、「いや、それは自分が望む未来とは違う」とかなって皆が「未来のために」一丸となれなくなってしまうかもしれないので、スローガンはふわっとしている方が「スクラップ」の段階ではかえっていいのかもしれないが・・・。
「ビルド」について具体的計画を持っていないことは、アロウズのような「軍事力で勝る者」が「ビルド」の立役者面で台頭してくる余地を生んでしまう危険があるのではないか?そのあたりも含めてイオリアが「ビルド」も含めた具体的計画を200年前に作っていったから「スクラップ」担当がふわっとしていても済むのだが。
プトレマイオスの面々に限らず、王留美やアレハンドロの語る「世界の変革」もよく分からない。世界を「私色に染め上げる」ってどんな色だ?変革の「その先にある素晴らしい未来」とは?
まあこれも、必要な実務的手続きとか具体的な事を考え出すと夢もロマンも萎んでしまってモチベーションが下がるから、あえて考えずに楽しい夢だけ見てたのかもしれない。
なんだかんだ言って理想主義とかお花畑とか思われがちなマリナが一番、目的(アサディスタンの復興)もそのための手段(国を経済的に立ち直らせるため太陽光発電施設を建設すべく他国に技術支援を要請する)も具体的に見据えて、なかなか結果が報われないながらも地道に行動し続けている、というのが面白い)
そしてその「本当の未来」建設のキーパーソンとなるのがマリナである。といっても実際に宥和政策を掲げる新たな地球連邦を動かしているのは新大統領とその周辺の人々であって、マリナはむしろ平和の旗印、象徴といった立ち位置である。
彼女も小国とはいえ一国家のトップではあるのだが、ファーストシーズンの時点では政策決定はもっぱら議会が行っていて、マリナは自ら議会に出席し発言することはない。それどころか側近のシーリンから議会の決定事項を知らされて愕然とする場面などからすれば、彼女の意向は国政におよそ反映されていない。
そもそもが国民の意識をまとめるための手段としてとっくに廃止されていた王政が復活されることになり、旧王家の血を引いているからと議会によって選びだされたのがマリナである。最初からアザディスタン内でも象徴としての役割しか期待されておらず、政治的発言権を与えるつもりはなかったのだろう。一応は議会主義的君主制を取っている形だろうが、実際の権限はそれ以下、ほとんどないと言っていい状態なのではないか。
ただ良くも悪くもマリナに祖国のために働こうとする気概がありすぎたことから、改革派の議員の後押しによってなのか太陽光発電施設誘致のための外交官的立場を務めることとなった。若く美しく清潔感のある女性が熱心に援助を訴えれば、その健気さで発電施設誘致は無理でも食糧援助くらいは取りつけてくるかもしれないとの算段があったのかもしれない(実際、フランス外遊の際にシーリンが「予想通り食糧支援しか得られなかったのね」と話す場面がある)。
“議会がマリナを担ぎだした”という表現からするとマリナの両親のどちらかが国王として選ばれたようではないので、マリナが名前だけにもせよアザディスタンの国家元首であるなら「第一皇女」という肩書はおかしい気もするが、国王より皇女の方が若さ・健気さをアピールするのに適していると議会が考えたものだろうか。
セカンドシーズンでは議会が存在感を示す場面がないが、マリナが絶対君主の座を求めるとも思えないので最終回の再興後のアザディスタンでも議会制は健在、ただ再興の立役者であるマリナもこれまでより政治的発言権を得るようになったのではないかと思う。
アロウズが解体され再編された世界で、マリナが大衆から圧倒的人気を得たことは想像に難くない。その人気と影響力を議会としても無視はできない。新連邦としても、アザディスタンの消滅から復興までの道筋はアロウズとかつての連邦の悪事を鮮明に示したものとして、自分たちの正当性をアピールするためにも積極的に喧伝したいはずで、それもマリナの名声を高めることに繋がったろう。
何よりこれまで正義の軍隊と信じてきたアロウズの非道への憤りとその反動として平和を希求する世界市民の心情が、マリナを平和の使者、聖女へと押し上げた。それは彼女がアロウズの直接的被害者であった(因縁に等しい罪状で拘禁までされたうえ国土を焼かれた)からだけでなく、彼女なりのやり方で戦い続けていたからだろう。
ただカタロンに保護され守られていたのではなく、素朴な幸せと協調の大切さを歌にして世界に届け(歌を世界に流布したのはマリナ自身ではないが)、暫定政府崩壊後の政情不安定なアザディスタンに我が身の危険を顧みず乗り込み再興のため力を尽くした。そうした武器を持たない戦い方が、一種の軍事アレルギー状態になった人々の圧倒的支持を集めるに至ったのだ。
こうしたマリナのシンボル化は「イオリア・シュヘンベルグ」の項で書いたように元からのイオリアの筋書であったと思われる。もちろん200年後に中東の小国家にマリナのような人物が現れることなどイオリアがわかるわけもないので、直接にはヴェーダの裁量になるのだろうが。
上で書いたようにアロウズの解体と連邦政府の再編は「アロウズの実体を知った人々が深く憤りかつ真実を知ろうとしてこなかったことに恥じ入った結果」なのだが、この前段階として「中東再生計画」がある。
アザディスタン襲撃を機に連邦政府がアザディスタンに暫定政権を樹立し中東を再編する計画を発表したさい、「国内紛争に関しては、対立民族の一方をコロニーへ移住させることも視野に入れ」るとの文言を「無茶苦茶言ってるぞ」とロックオンが嘲笑したが、スメラギいわく「それでも世論は受け入れるでしょうね」「みんな困らないからよ」。
スメラギの発言通り「みんな」=旧三国家群を中心とする連邦加盟国の人々は何ら文句をつけなかった。地球連邦に参加せず紛争を繰り返す困った国々がどうなろうと知ったことではない、むしろ連邦が暫定政権を築いたことで彼らは平和と豊かさを手に入れられるのではないかと積極的に賛同すらしたのではないか。
アロウズの悪行が暴かれ中東の皇女であるマリナが国際的人気者になる中で、連邦加盟国の大衆はこの「中東再生計画」の非人道性を見逃したことを反省し、ここでも「恥じ入った」のではないだろうか。
こうした中東への無関心ないしは偏見を背景に、メメントモリによるスイール王国の首都とリチエラの軍事基地(周辺の難民キャンプごと?)消滅も、どう報じられたかは不明であるものの(さすがに消滅の事実そのものまで隠蔽はできなかったと思う)、多少無理な説明であってもさして疑問を抱かれずそのまま通ってしまったのは間違いない。
この後まもなくスミルノフ大佐の旧友パング・ハーキュリーによる正規軍の一部によるクーデターが起きている。タイミング的にメメントモリによる中東国家攻撃を受けての行動にしては早すぎるように思えるし、そもそもこれらがアロウズによる攻撃であることをクーデター派を含め正規軍のどの程度が把握していたかもわからないが(スイールの国境付近に駐屯していたスミルノフ大佐は首都消失の瞬間を目撃、上官のキム中将から緘口令を敷くよう言い渡された際、アロウズに反感を持つ兵も多く噂はすぐに広まると反論している。ただ仲間うちでのひそひそ話ならともかく、盗聴される危険を冒しても遠方の戦友に連絡しようとする兵士がどの程度いるものか。スミルノフ大佐が沙慈を尋問したのを部下がアロウズに告げ口したことからわかるように、どこにアロウズのシンパが潜んでいるかわからないのである)、アフリカタワーを占拠したハーキュリーの演説中の「中東再編のため、罪もない多くの人々が殺されたことをご存じか?」という台詞はスイールとリチエラへの攻撃を踏まえての発言とも思える。アロウズは中東に苛烈な弾圧を繰り返しているから、メメントモリ以外の虐殺行為を指している可能性の方が高そうだが。
このクーデター計画に対してアロウズはメメントモリ二号機を用いて、クーデター派が占拠している低軌道ステーションを人質もろとも破壊しようとする挙に出る。これはクーデター派を一掃するとともにアロウズの蛮行の生き証人となった6万人の一般市民を口封じしようとしたものだが、正直この事件(ブレイクピラー)がアロウズを解体へと導く決定的なターニングポイントになったと思う。
連邦はこの件を例によって「反連邦勢力」に責任をなすりつけ、情報統制下にある人々はそれを信じはしただろうが、犯人への恨みどうこう以上に恐怖感の方が強かったのではないだろうか。連邦加盟国でない中東の都市が吹き飛ぼうが他人事でしかなかったが、未曾有の災害が今度は自分たちの頭上に降りかかってきたのである。
東京で平和に暮らしていた沙慈が初めて世界のうねりにちゃんと目を向けたのは―それまでにも低軌道ステーションの事故で危うく死にかけたりすぐそばで爆破テロが起こったりしているのだが―姉とルイスを失ってからだった(それでもアロウズの蛮行や中東諸国の苦しみなどまるで知らず、ティエリアに「自分のいる世界くらい、自分の目で見たらどうだ」と言われるレベルであったが)。
ブレイクピラーに直接間接に被害を受けた人たちの中には、これまでにない真剣さで世界情勢について考え、結果連邦政府の発表に疑念を抱いた人も少なからずいたのでないか。
またテロなど武力行為による脅威は自分から遠い場所で起きる分には義憤が勝るが、自分の生活を脅かされるとなれば恐怖が勝る。実際にテロで家族や大事な物を奪われたとなれば怒りが勝るようになるだろうが、“奪われるかもしれない”段階なら危機感と恐怖が先行するだろう。平和を願うマリナの歌がラジオを通して世界中で支持されはじめたのもこの頃である。
(ただファーストシーズンには沙慈とルイスのカップルという一般人代表が繰り返し登場することで、彼らとその周辺の一般人が何を考えどんな生活をしているのか描かれていたのが、セカンドシーズンでは両者とも一般人とは到底言えない立場に移行したため、連邦の一般市民が何を考えてるのか、本当に根っから地球連邦の言い分を信じているのか、それとも劇場版で映画「ソレスタルビーイング」を観た観客の一人のように「政府のプロパガンダ」が多分に混ざってるものと醒めた目で見ていたのかがわからなくなっている。
どちらの人間もいたというのが実像であろうが、そのあたりの具体例が全く(あえて)描かれないことで、彼らは“情報統制によって騙されている一般市民”として記号化されている。)
また一般市民は情報統制で騙せたとしても、兵士たちはそうはいかない。クーデター軍・カタロンは言うに及ばず、ブレイクピラー時に軌道エレベーターの外装パネルの迎撃に参加した連邦軍・アロウズの兵士たちは実際の状況を見聞きしている。
ソレスタルビーイングの指揮官(消去法でソレスタルビーイングの人間とわかる)が素顔をさらしてまで「お願い、みんなを助けて!」と「現空域にいる全機体」(したがって後から参加したアロウズのパイロットたちはスメラギの顔を見ていない)敵味方なく訴え、3機のガンダムを筆頭にその場の全員で地域住民の命を守るため戦った。
人命を最優先にしたスメラギの訴えを聞いた連邦軍兵士はもはやソレスタルビーイングを絶対的な悪とは見なせなくなったろうし、敵味方を超えて共闘したソレスタルビーイング、カタロンやクーデター軍の人間(こちらはもともと同僚や先輩・後輩でもある)に一種の連帯感を抱きもしただろう。
外装パネルが大量に降ってくるという事態そのものはクーデター軍のやらかしと誤認していたかもしれないが、少なくとも連邦政府の公式発表が“反連邦勢力の仕業”で済ませて身内の醜聞といえる一部正規軍のクーデターが発端である事実を隠蔽していること、迎撃の陣頭指揮を取ったに等しいソレスタルビーイングをはじめとする「反政府勢力」の貢献が全く伏せていることに対し、強い不信感を覚えた者は多かったと思う。
一方アロウズの兵士にしても、指揮官であるマネキンの乗る空母に乗艦していた者たちは、マネキンと技術顧問のビリー・カタギリの会話から、パネル落下の原因がアロウズの衛星兵器にあることを知っている。6万人の人質ごと、軌道エレベーターと周辺地域への甚大な被害も顧みず低軌道ステーションを破壊しようとするやり方に「こんなことが許されるのか!?」とマネキンが激怒していたことも。
ブレイクピラー後にマネキンと数十名の兵士が艦船やMSごと行方不明になった際に、当然彼らはブレイクピラーを引き起こしたアロウズ上層部への怒りからの覚悟の失踪と判断しただろうし、その推測は他の兵士たちにも広まっていったに違いない。
何より正規軍もアロウズも、兵士たちにはそれぞれに家族も友人もあるのである。自身の大事な人間がブレイクピラー事件で直接の被害を受けた者も少なからずいるはずだ。アフリカタワーを含めブレイクピラーによる主な被害地域は旧AEU領で、マネキンの造反も彼女が元AEU軍(おそらく出身地もヨーロッパ圏だろう)だったことが多少影響しているかもしれない。
これまでと違い中東でなく連邦加盟国を舞台として起きたこの惨劇は、正規軍・アロウズの兵士も含めた連邦加盟国の国民の意識に確実に作用した。
この事件の真相が隠蔽されたことで改めてアロウズの情報統制を打ち破る必要性を痛感したスメラギたちはヴェーダ奪還を目指すようになり、またアロウズから脱走したマネキンたちは着々とカタロンとの連携を進め、状況は急速にヴェーダ奪還を賭けた最終決戦へと向かってゆくが、もしそれがなかったとしても、遠からずアロウズは内部から瓦解していたのではないか。
ところで、正規軍のクーデター計画について、スメラギはヴェーダを握っているイノベイドが計画を知ったうえであえて見逃していたのではないかと疑う場面がある。この考えが正しかったことは後のリボンズのモノローグによって証明されているが、何のためにリボンズはクーデターを放置したのか。
クーデター派が占拠した低軌道ステーションを、滞在していた一般市民ごとメメントモリで吹き飛ばすのまで含めてリボンズの計画の内だったわけだが、なぜリボンズは大勢の一般市民を犠牲にするような手段をわざわざ取ったのだろうか。
犠牲者の数が多いほど、それも連邦に属する一般人であればそれだけ連邦市民の“反政府勢力”への怒りを喚起できる、(小説版によれば)結果人類の意志統一がより進むといった計算があったようだが、上で書いたように、一般連邦市民はともかく、アフリカタワー周辺にいた正規軍とアロウズの兵士たちまで欺ききることはできない。リボンズが人間ではなく、かつ人間を見下しているがゆえに人間心理を読み損なったのか。
思うに、“一般市民の虐殺を行い、その罪を反連邦勢力に負わせることで人々の連邦及びアロウズへの帰属心を高める”というのは虚偽の理由づけではないか。リボンズは本気でそう思っていたかもしれないが、イオリアの意を汲むヴェーダの思惑は違っていたのではないか。
「僕の平和を壊したのは君たちだ!」と叫んだ沙慈に「自分だけ平和ならそれでいいのか?」と答えた刹那や、「(中東再生計画が実行されても)世論は受け入れるでしょうね。誰も困らないからよ」と諦めたように答えたスメラギの言うように、自分の身に火の粉が降りかからない限り虐げられている人間の苦しみを見ようとしない、自分の周囲にしか関心を持たない連邦加盟国の人々に喝を入れ、現実に目を向けさせることがクーデター計画見逃しからブレイクピラーまでの一連の行為の真の目的だったのではないだろうか。
「たとえ痛みが伴おうとも」「市民たちを目覚めさせる」との一念からクーデターを決行したハーキュリー大佐の想いは報われたと言えるだろう。彼が望んだよりもはるかに凄惨な形でではあったが。
こうした下準備によってアロウズや連邦政府の武力頼みの政策、強権的手法に対する疑念を少しずつ醸成させておいたところへ、最終決戦でソレスタルビーイングがヴェーダを奪還したことによって情報統制が解除され、一気に世論が覆るに至る。そして平和の旗印としてヴェーダが白羽の矢を立てたマリナをシンボルとした、武力解決よりも温情主義・宥和主義を良しとする新時代が幕を開ける。
人類初のイノベイターとイオリア計画の根本ともいうべき“人類はわかりあう必要がある”という理念を体現し平和の象徴ともなったマリナ、この二人がともに中東の出身なのは偶然なのか。「イオリア・シュヘンベルグ」の項で書いた“ストレスが成長、進化を促す”という理屈でいけば、中東という地域に加えられた多大なストレスが彼らを生みだしたと言えるのかもしれない。
その一環として、セカンドシーズンでは友人や愛する人と敵対陣営に属するというシチュエーションが多発している。アレルヤとピーリス(マリー)、沙慈とルイス、スメラギとビリー及びマネキン。またスミルノフ親子は所属組織が直接対立していたわけではないにもかかわらず誤解から父が息子に殺されるに至った。
ピーリスとマネキンについてはファーストシーズンから矛を交えていたが、個人的な関係が明らかになったのはセカンドシーズン(ピーリスの場合は正確にはファーストシーズンのラスト)に入ってからである。一歩間違えば、知らないうちに大事な人を殺してしまうかもしれないという恐怖がここにはある。
カタロンの人たちの移送を支えるため砲撃を手伝うと手を挙げた沙慈が土壇場で躊躇わずに、あるいは躊躇ったものの砲撃を行っていれば、彼は自分の手でルイスを殺していたのである。これは現実の戦争においても普通に起こり得る(起こっている)事態であろう。
もしかすると敵方に自分の大切な人が何らかの事情で所属しているかもしれない―その可能性を想像することは戦闘行為に対する抑止力となりうるのではないか。
また長年の確執を背景に父をクーデター派と誤認したアンドレイ・スミルノフがセルゲイ・スミルノフ大佐を殺害した件について、「お父様だと知っていて討ったんですか!?」と咎めたルイスが「他人の命は奪えても、肉親はできないというのか?」と反論されて絶句する場面がある。小説版がこの時のルイスの心情として描くように、「赤の他人であれば躊躇いなく絞れる引き金も、肉親だとわかった瞬間にできなくなるのは単なるエゴにすぎない」。
ブレイクピラーの四か月後、敵の襲撃に乗じてイノベイドを捕獲する作戦時に、隕石に擬装してプトレマイオス2に接近したルイスとアンドレイをラッセが撃とうとしたのを刹那と沙慈が「やめろー!」と叫んで制止する場面があるが、アロウズの他の機体はさんざん撃ち落としてきたのになぜこの機体を撃つのを二人が止めようとするのか、ラッセも他のクルーたちも面食らったことだろう。
おそらくは沙慈も刹那以外には想い人がアロウズのMSに乗っているとは話していないと思う(小説版では「事情を知っている刹那はまだしも、他のガンダムマイスターやクルーたちによってルイスの機体が撃墜されてしまう危険性がある」と沙慈が懸念する場面があり、刹那以外はルイスのことを知らないのが確定している。ちなみに刹那と沙慈の話をたまたま立ち聞きしたロックオンは沙慈の事情を知っているが、彼が知ってることを沙慈が知っているかは不明)。ルイスの方はガンダム憎しで撃つ気満々なのだから、彼女に対して手心を加えてくれなどと死に直結しかねない頼み事をさすがにできるものではない。
これはピーリスがマリーだと知った後のアレルヤも同じだっただろう。スメラギにはマリーとの関係、彼女への想いを打ち明けていたが、他のマイスターたちに戦場で彼女を撃たないでくれとは言えなかったのではないか。だからピーリスがファーストシーズン以来の因縁でもっぱら自分を標的にしているのを幸い、彼女の相手は自分がすることで何とかマリーを傷つけずに取り戻すという手段をとった。
いずれも愛する人と敵対する陣営に分かれてしまったゆえの苦心であるが、他人なら撃てて大事な人は撃てないというのはエゴには違いないだろう。躊躇いなく撃ってきた他人にだってその人を愛する家族や恋人がいたのだから。
しかしアンドレイは先の台詞を“赤の他人同様肉親であっても撃つべき”という文脈で発言しているが、むしろ逆を考えるべきではないのだろうか。大事な人を撃てないのと同じように、赤の他人であっても撃つべきではないのだと。
戦場で躊躇いなく引き鉄を引けるのは相手を適陣営の駒の一つ、“敵”という記号として見ているからである。職業軍人をはじめとする戦うための教育を受けた人間は、相手を人でなく駒と見なすことを意識的無意識的に刷り込まれる。戦場で一瞬でも躊躇えばそれは死に繋がる。敵と見たら何も考えず瞬時に撃てるようでなければ戦闘要員は務まらない。
敵であっても駒でなく人として見てしまう沙慈がスミルノフ大佐から「君は戦う者の目をしていない」と評され、心を決めたつもりでも土壇場で引き鉄を引けなかった所以だ。
それが相手が大事な人、少なくとも知人であれば、戦闘のプロであっても相手を記号・駒でなく人として認識してしまうゆえに撃つのに躊躇いが生じる。職業軍人のルイスでさえアンドレイが敵方とはいえ肉親を手にかけたことに生理的な反発を覚えたように(ルイスの場合は彼女自身が親の仇討ちのために戦っているという事情もある)、大事な人を前にすれば戦士としての自分より一個人としての自分が先に立つのは人として通常のことなのだ。
ならば相手を敵という記号で見ることをやめ、一人一人が個々に家族も生活も夢もある人間なのだと認識すれば、簡単に撃つ、殺すことはできなくなる。敵陣営に何かの事情で自分の大事な人がいるかもしれない。敵陣営の一人一人が駒ではなく愛する人も愛してくれる人もいる“人間”である。
この二つを常に頭に置けば、可能な限り直接の戦闘を避けようとするだろう。力で抑えつけることではなく敵方に対する想像力――それこそが紛争根絶に向けての第一歩なのではないだろうか。
ちなみに、記号ではなく人であると認識し(てしまっ)た相手を躊躇わず撃つための方法も『00』には描かれている。ボスクラスの敵はキャラが立っていて、有視界通信で顔を認識しながら言葉を交わしながらの戦いになるケースが多い。これを個性を持たない駒を見なすのは到底無理だろう。
しかし主人公たちは攻撃を躊躇わない。相手を「歪み」、諸悪の根源、悪と認定して断罪するのである。そう、駒と認識できない敵に対しては絶対的悪とのレッテルを貼ってしまえばよい。そうすることで相手の人間としての側面を見ることなく剣を振るうことができる。
(一方でトリニティの過激な武力介入に対する反応に代表されるように、プトレマイオスクルーやグラハムたちは民間人への攻撃に強い抵抗感や驚きを示す。それは民間人を個々の人間と見てその人生に思いをはせているからではなく、民間人というレッテルの貼ってある物は攻撃してはならないという概念があるからである。人を個人ではなく所属するカテゴリーの一員として処遇を判断するという意味において、これも人を“民間人”という記号扱いにしているのだ。
もし民間人と思われていたのが実は戦闘員だったと発覚すれば、その記号は簡単に戦闘員・攻撃対象のレッテルに置き換わる。当人の人間性は何も変化していないのに。一般人の沙慈がカタロンの一味と誤認された途端にテロリストのレッテルを貼られ、社会から弾き出されたのも同じことである。)
この「歪み」のレッテル貼りをもっとも頻繁に行っているのが主人公の刹那である点は先にも書いた通りである。相手を絶対悪と見なして断罪するのは、かつて相手を“神の敵”と断じて撃ち殺してきた少年兵時代とやっていることは変わらないようにも見える。
ただ誰かからあれは絶対悪だと教え込まれたか自ら絶対悪だと判断したかの違いは大きい。少年兵時代は、両親を撃った時に相手の呼びかけに一切耳を貸さず一言も発しなかったように、これから撃つ相手と会話をすることはまずなかったろう。ソレスタルビーイングでの戦いにおいては最終的に決裂するにせよ、有視界通信を通して一応の“対話”はあったのである。
そしてこれも先に書いたとおり、セカンドシーズンではその「歪み」レッテル貼りも少なくなっていく。例外が最後の対リボンズ戦だが、「リボンズ・アルマーク」の項で書いたように、これは実質兄弟喧嘩のようなものだ。両者はずっと言葉の応酬を行っており、最終局面ではMSの胴体部が大きく裂けることによってコクピット内の互いの姿を視認しているというダメ押しまでつく、まさに拳で語り合う状態である。
では立場も利害も異なる者同士がマリナが、そしてイオリアが目指すように「わかりあう」ことはどうすれば可能なのか。その手がかりはセカンドシーズンの中盤、カタロンに保護されている子供たちとマリナの問答にある。ダビッドという少年に「どうしてみんな仲良くしないの?」と問われたマリナが、「私もそう思うわ」「だから仲良くする方法を考えないと」と呟いたのに対しダビッドが「一緒にご飯を食べればいいよ」と答える場面だ。
他の子供たちも集まってきて、みんなで遊ぶ、歌を歌う、宝物を見せあうなどの案を次々挙げていくのだが、彼らの言葉は真理を突いていると思う。同じ時間と空間を共有する、共同で何かを、特に楽しいことを行うというのは、他人同士が近しくなるための重要な手段だからだ。
なかでも最初に登場する「一緒にご飯を食べる」というのは、「同じ釜の飯を食った仲」という言葉もある通り、食事という生命維持に関わる重要かつ日常生活に密着した、基本的に“快”の感情を伴う行為を共にすることは親近感や連帯感を強める効果を持つ。
一番わかりやすいのは沙慈のケースだろう。一緒に食事を取る場面こそないものの、プトレマイオス内でイアンの仕事を日常的に手伝うことで艦内に居場所を見つけ、戦闘も含めた少なからぬ、濃密な時間をクルーと共に過ごし彼らの人となりに触れた。
刹那についで(それ以上に?)共に過ごす時間が長かったイアンが「ワシらは犯罪者だ、罰は受ける。戦争をなくしてからな」との覚悟を持っているのも、メメントモリ二号機によるアフリカタワーへの砲撃を予期したスメラギが多くの人命を救うために無理を押してプトレマイオスを空に上げようとしたのも、敵陣営にいた恋人を取り戻したもののブレイクピラーをきっかけに別人格に替わってしまった彼女との懸隔にアレルヤが悩むのも、同僚かつ恋人だったアニューの裏切りと彼女を刹那がやむを得ず討ったことにロックオンが荒れ狂ったのも、沙慈はすべて間近で見聞きしている。
彼らも自分と同じように誰かを愛し、仲間を思い、傷つき苦しみ喜び笑う人間であること、そして見知らぬ人々を救うために自分たちの命を賭けられる強さ、優しさ、覚悟を持っていることを知った。ガールフレンドと姉の(間接的な)仇としてソレスタルビーイングを憎んでいたはずの彼が、彼らの個々の人柄を見て好印象を、仲間意識すら抱くようになっていった。これは直接彼らと身近に接し生活を共にしたからこそだ。
沙慈が「カタロンの人たちが無事にたどり着くまでの間は何でもやるよ」とまで言うほどカタロンに肩入れするのも、自分の軽率さからカタロン基地への虐殺というべき攻撃を招いたことへの贖罪意識だけでなく、ごく短期間とはいえカタロンの人々とじかに接したことで彼らを“テロ組織”ではなく仲間を思い親とはぐれた子供を保護するような優しさや勇気を持った個人の集まりと認識したことも作用しているだろう。それはカタロン基地の惨状を知って砂漠にへたりこむ沙慈の脳裏に基地で出会った構成員や子供たちの笑顔が浮かぶシーンでもわかる。
相手への先入観を取っ払うには直接会って話をする、共に過ごすことが何より有効なのだ。「わかりたい、わかりあいたい」がキャッチフレーズのようなマリナでさえ、刹那に出会った時点ではソレスタルビーイングを「狂信者の集団」と決めつけていた。刹那と偶然知り合い、彼がソレスタルビーイングのガンダムマイスターだと知ったことで、マリナは自分の価値観に照らせば“悪”でしかないソレスタルビーイングを、その理念を是とし戦う刹那を理解しようとするようになる。
「話し合いもせず、平和的解決も模索しないで、暴力という圧力で人を縛っている」ソレスタルビーイングのやり方を「おかしなこと」と断じた当時のマリナには、彼らがなぜその「おかしな」手段を取らざるを得ないのかへの想像力が欠けていた。
「紛争が起これば人は死ぬ」「話している間に人は死ぬ」という刹那の言葉を聞くことで、今目の前で死んでゆく人たちの命を慮るからこそ平和的解決を模索する時間を惜しみ性急な手段に走らざるを得ない彼らの気持ちの一端に触れた。また「クルジスを滅ぼしたのはアザディスタンだ」との言葉によって自分も加害者側としての一面を持つという事実を突きつけられた。
この時点で“武力解決を目指す者たちの論理”に接していなければ、セカンドシーズンでしばらくカタロンに、一時はソレスタルビーイングにも保護されることを受け入れるのは困難になっていただろう。どこまでも武力解決を否定し、話し合いによる平和的解決を求める点は変わらないが、刹那との関わりを経てマリナの理想主義は鍛え直されより強いものとなる機会を得たのである。
一方ソレスタルビーイング側も沙慈を内部に入れたことで変化を迫られた。単に民間人・非戦闘員というだけでなく自分たちの武力介入の“被害者”である(刹那、ティエリア、ロックオン以外のメンバーが沙慈の“事情”をどこまで知っているかは不分明だが)沙慈が側にいることは、プトレマイオスクルーにある種のプレッシャーとして作用しただろう。一般人にも被害が及ぶような戦い方は何としてもしてはならないと。
セカンドシーズンになってからしばしば「守るための戦い」という表現が出てくるようになるが、これは全て非戦闘員である沙慈や戦闘には参加させない約束になっているマリーが戦場に出るさいの理由づけとして用いられている。
大量殺戮兵器であるメメントモリの破壊作戦やブレイクピラー事件がそうだった。それ以外でもアロウズ側の攻撃から艦を防衛する、カタロンの人々の避難を支援するなど、身内や協力者の命を守るための戦いがメインになってゆき、ファーストシーズンのようないわゆる武力介入はめっきり見られなくなる。
セカンドシーズンの最初期に沙慈に「あなたたちはまた武力介入を行うつもりですか」と問われたラッセが「いいや、アロウズを叩く」と答えたシーンに表れているように、セカンドシーズンはもっぱら“残虐非道なアロウズ”の弾圧に苦しむ人々を「守るための戦い」へと作品のテーマがシフトしている(現実世界でも起きているような宗教対立・経済的利害などを背景とするどちらが悪とも決めつけられないような紛争や、あえて“紛争”を起こすことでソレスタルビーイングを政治的に利用しようとするしたたかな国家なども描いたファーストシーズンに比べ、ストーリーを単純化させたともいえる)。
特に沙慈の乗るオーライザーとドッキングして戦う―沙慈を背負って戦っているともいえる刹那には、これまでの戦いにはない緊張感が圧し掛かったろうことは想像に難くない。
ファーストシーズンでも対アレハンドロ戦の前半はラッセが乗るGNアームズと合体しての戦いだったが、プトレマイオスでも砲撃手を担当しているラッセが頼もしい戦力だったのに対し、沙慈はシステムの微調整など技術面では役に立っても戦闘面では何もできず戦力外と言ってよい。のみならず戦闘行為を忌避する沙慈を乗せている以上、間違っても彼に引き鉄を引かせるような事態になってはならない。
加えて沙慈を乗せての初戦でトランザム時に「白い世界」を体験して以降、ルイス・ハレヴィの乗る機体を攻撃できない、一刻も早く戦場でルイスを見つけて沙慈による説得を行わねばならないという、刹那だけの戦闘外のミッションを抱え込んでしまった。
しかしこの“戦闘中に敵の一人と対話の場を用意しなくてはならない”という奇妙なストレス環境が、刹那のイノベイター化を促進したのはまず間違いないだろう。
先にダブルオーライザーのトランザムテスト段階では「白い世界」は出現せずパイロットの刹那にも何ら影響が出なかったのは、テストと実戦では刹那が感じるストレスの度合いが違うからといった説明を記したが、オーライザーのパイロットとして沙慈がその場にいたことが「白い世界」出現のきっかけとなった可能性もある。
沙慈を戦わせないようにしながら戦うという捻れ、戦いを望まないもう一人の存在を絶えず意識しながらの戦いというストレスが、“戦闘で勝利することではなく、わかりあうことによって成される戦闘終結”へと刹那の精神を向かわせ始めたのかもしれない。
沙慈という異分子を内包したことで刹那とソレスタルビーイングは「わかりあうことで未来を築く」方向へと押し出されてゆく。こうしてみると沙慈が「もう一人の主人公」とされるのがよくわかる。
一方でセカンドシーズンでは世界から戦争を無くす上でのもう一つの(最大の?)障壁である“戦わずにいられない理由を持つ人間”についても深掘りされている。
ブレイクピラーでスミルノフ大佐の死に直面したマリーはそのショックからもう一つの人格であるソーマ・ピーリスに切り替わってしまった。ピーリスは彼女に戦わせまいとするアレルヤの意志に反してスミルノフ大佐を殺した当人であるアンドレイ・スミルノフ中尉への仇討ちに燃える。
小説版で自分と境遇の似たアレルヤを代弁しようとした沙慈にピーリスが言い放った「怒りを、悲しみをぶつける場所を奪い取るつもりか!」という言葉がこの問題の根深さを示している。アレルヤが「大佐に彼女をを二度と戦わせないと誓ったというのに」と嘆くように、ピーリスが復讐心に囚われて戦場に出ることはスミルノフ大佐の本意ではない。まして彼女の復讐心の向く先が自身の息子とあってはなおさらだ。
(この「二度と戦わせないと誓った」というのは「連邦やアロウズに戻ったら、彼女はまた超兵として扱われる」「君はソレスタルビーイングだ。君といても中尉は戦いに巻き込まれる」「そんなことはしません!」というやりとりのことを指していると思われる。つまり彼女を戦わせないというのは「そんなことはしません!」との言葉をもってアレルヤが一方的に宣言したようなもので、スミルノフ大佐の方からマリー/ピーリスを渡す条件として求めたわけではない。
もともとスミルノフ大佐はピーリスを退役させようと働きかけたことは(その強権的やり方に反感を抱いているアロウズへの転属が決まった時でさえ)なく、ピーリスを戦いから遠ざけようとしていた節はない。
ただ、ピーリスがソレスタルビーイングの男と結ばれた以上、彼女が再び戦場に出るとしたらソレスタルビーイングのパイロットとして、すなわちスミルノフ大佐の所属する、彼女にとっても古巣の連邦軍やこれも短期間ながら籍を置いたアロウズと敵対する形にならざるをえない。スミルノフ大佐がマリー/ピーリスに望むとしたらそれは彼女が戦場に出ないことというより、彼女が自分やかつての仲間と戦うような状況に陥らないことではないか。
ただファーストシーズンの頃と違い、プトレマイオス2は武装も備えていて最前線に自ら突っ込んでゆくこともしばしばある。イアンの妻リンダが途中までそうだったように後方の秘密基地などにいるのと違い、プトレマイオス2で生活する以上はいつ戦闘に巻き込まれてもおかしくない状況ではあるのだ。
それに自らMSに乗って戦うことはなくとも、プトレマイオスが連邦軍やアロウズの攻撃にさらされたり、逆に連邦軍やアロウズの艦やMSを攻撃したりすれば、間接的ながらもかつての仲間と殺しあっているに等しい。結局プトレマイオスに乗っている以上、マリーは戦いの渦中にいるようなものなのだ。
沙慈に「戦いに巻き込まれても」プトレマイオスにいるつもりかと聞かれて「そういう覚悟もできているつもりです」「もう決めたから。私は何があっても、アレルヤから離れないと」と語ったマリーはその辺りは承知の上で腹をくくっている。それに比べるとマリーをプトレマイオスに連れてきながら彼女が戦闘に関連する行為の一切に関わることを嫌がる(メメントモリ破壊作戦で敵レーザーの発射タイミングを測るという仲間を守るための行為であってすら)アレルヤは綺麗事がすぎるように思えてしまう)
しかし本当はピーリスだって自分がアンドレイを殺すことなど大佐が二重に望んでいないことはよくわかっているはずなのだ。彼女はスミルノフ大佐が死の間際、機体の爆発にアンドレイを巻き込まないよう彼の機体をそっと突き放す場面をその目で見ているのだから(正確には見たのはマリーだが、ピーリスはマリーと記憶を共有しているので自分で見たも同然である)。
にもかかわらずピーリスが復讐に突き進まずにいられないのは、沙慈に語った通り、怒りと悲しみの感情が強すぎて、それをぶつける相手がなければ自分が壊れてしまいそうだからだ。実際、スミルノフ大佐の死を契機にマリーからピーリスへの人格交替が起こったのは、アレルヤ言うところの「優しい女の子」「人を殺めるような子じゃない」マリーには大佐の死によって自分の内に生じた怒りと悲しみ、憎しみを発散させるすべがなく、受け止めきれなくなったからだろう。
ゆえに戦うために造られた人格であるソーマ・ピーリスが出てきて負の感情を担った。マリーと違いピーリスは戦場に出て仇討ちを行うことで自分の憎しみを昇華させようとした。ピーリスを止められないことを嘆くアレルヤにロックオンは「自分の考えだけを押しつけんなよ。大切に想ってるなら理解してやれ。戦いたいという彼女の気持ちを」と声をかける。
この言葉を聞いた沙慈は「ルイスも同じなんだろうか。家族を失った悲しみを憎しみに変えて、戦う道を選んで・・・」とルイスに想いを馳せる。ルイスは確かに両親の仇であり、自分から健康な身体を奪ったガンダムを憎んでいるが、それがアロウズに入った直接の動機ではないように思われる。
というのも彼女がアロウズに入った時点―セカンドシーズン開始時に初陣の新兵として登場するものの、小説版では2年前に入隊したとある―ではソレスタルビーイングは数年にわたって活動を行っておらず、世間的にはすでにフォーリンエンジェルス作戦によって滅んだものと見なされていたからだ。
リボンズはソレスタルビーイングが滅んでいないことのみならずスペースコロニー・プラウドに武力介入することすら王留美から知らされていたらしいので彼から聞いていた可能性もないではないが、小説版では「ガンダムが現れてくれたことは、正直、彼女にとって望外の喜びであった。戦う理由ができた。倒すべき相手が見えた。」とあり、彼女がガンダムと戦う事態を想定していなかったことが窺える。
では何のためにルイスがアロウズに入隊したのかといえば、「戦いがあるから、家族は死んだのだ。地球連邦の政策が、アロウズが、戦いのない未来を求めている。私はそれに荷担する。私のような人間を二度と生み出さないためにも」。
「家族を失った悲しみを憎しみに変えて」も直接の仇であるガンダムもソレスタルビーイングももう存在しない(と思われていた)。「怒りを、悲しみをぶつける場所を」失ってしまったルイスは、憎しみのぶつけ所をアロウズの唱える「恒久平和の実現」に求めたのだ。一見すると私憤を公憤に変えて平和のため人類のために尽力するという理想的な形へと昇華したとも取れる。彼女の言い分が、主として家族や大切な人を戦争で失ったことから「紛争根絶」を掲げるソレスタルビーイングに参加したプトレマイオスクルーに近似しているのは何とも皮肉なことだが。
ただ「白い世界」で再度ルイスと出会った沙慈は彼女の「統一世界、恒久和平を実現するため私はこの身を捧げたの。世界を乱すソレスタルビーイングを倒すため、そして、パパとママの仇を!」という発言を聞いて「おかしいよ、君はそんな女の子じゃなかった。何が君を変えたんだ?」と問い、「自分で変わったのよ、自分の意志で」という答えに「それは嘘だよ!」と言い切る。
ルイスくらいの体験をすれば別人のように変化しても当然かと思えるが、かつてのルイスをよく知る、そして愛している沙慈からすれば、彼女の凄惨な体験を踏まえてもその変化を不自然なものに感じたのだろう。実際ルイスはリボンズに憎しみを煽られ、半ば取り込まれていたので沙慈の洞察は的を射ていたのだが、それだけでなく上で挙げた「ルイスもそうなんだろうか・・・」という台詞も考慮すると、「家族を失った悲しみを憎しみに変えて、戦う道を選ん」だだけならルイスの行動としてまだ理解できる、しかし統一世界、恒久和平がどうのと言い出すのは彼女の言動として不自然に過ぎると感じたのではないか。
ビリーもまたスメラギへの屈折した愛情という私怨を「恒久和平実現のため」と糊塗し、自分自身をさえ欺いていた。実父スミルノフ大佐を殺したことを、平和のため、軍務を全うするために肉親であっても討ったとルイスに堂々述べたアンドレイに至っては、父を殺す瞬間に「母さんの仇!」と叫ぶなど母を見殺しにした父への私怨が本音だったのが丸分かりである。
往々にして平和のため、争いを無くすためといったスケールの大きい大義名分を掲げる人間は、その奥に個人的な恨みや欲望を隠しているものだ。これは紛争根絶を掲げるソレスタルビーイングの人間も例外ではなく、初代ロックオンは最終的に家族の仇であるサーシェスへの仇討ちを優先させ、相討ちで命を落とした。
ロックオン自身「なにやってんだろうな、おれは」「わかってるさ、こんなことしたって、何も変わらないって」と思いながらも、それでも復讐の意志を捨てられなかった。刹那が見た夢の中のロックオンの言葉通り、彼は「変われなかった」のだ。
対照的なのが弟のライル=二代目ロックオンで、兄が仇討ちのため命を落としたことを聞かされた時「世界の変革より私怨か。兄さんらしいと思ってな」「尊敬してんだよ。家族が死んだのは十年以上も前のことだ。俺にはそこまで思いつめることはできねえ」「すべて過ぎたことだ。昔を悔やんでも仕方ねえ。そうさ、俺たちは過去じゃなく、未来のために戦うんだ」と語っている。
これは彼が冷たいということではない。出来のいい兄ニールへのコンプレックスを背景に家族と距離を置いていたのは事実だが、アロウズの蛮行に怒りカタロンに参加した彼は十分熱い心の持ち主であろう。ライルはニールが至ることのできなかった「昔を悔やんでも仕方」ないという心境に達しており、復讐という取り戻せない過去のための戦いではなく、アロウズと連邦政府を倒して現在彼らのために苦しんでいる人々と、未来に苦しめられるだろう人々を救済するために戦っている。
彼がカタロンに参加した経緯は明かされていないが、家族は皆亡くなっているし、恋人や親友をアロウズに殺されたといった事情があるなら作中で描かれるだろうから、そうした描写がないということは純粋に道義的怒り、正義感からカタロンに身を投じたものと思われる。何かしらの私怨、個人的事情を背景に戦っているキャラクターが多くを占める中で、ライルは私憤でなく公憤で戦いを選んだ数少ない人間といえるのではないか。
この“家族の仇討ちを捨てられなかった”兄ニールから“死者の仇討ちより未来のために戦う”弟ライルへのマイスター変更に象徴されるように、セカンドシーズンは復讐否定、過去に拘るより未来を見ることがテーマとなってゆく。