この作品が批判される点の一つに、森にまつわる設定(ゾルイドや双子)がほとんど説明されないことがあると思われます。
「森と人との共存」という「表」テーマより、「異なる価値観を持つ人間たちの衝突と和解」という「裏」テーマに力を入れたためでしょうが(それだけにキャラクターの感情、とくにアギトとトゥーラのそれは丹念に描かれていました)、だったらなぜ森に関して思わせぶりな設定を複数仕込んだのか。
森の方はもっと単純化して人間ドラマに集中すれば説明不足とは言われずにすんだのでは。
これはおそらくは途中で監督が交代したこと、そのさいにシナリオの大幅な見直しが行われた関係ではないかと思います。
最初の監督はスタッフロールに「原案」として名を連ねている飯田馬之介さんだったのですが、いろいろと事情があったものらしく、最初は演出として参加した杉山慶一監督が2003年以降後を引き継いだ。
この時点で、1999年から2000年にかけて製作されたパイロットフィルムの段階に比べて「暗く重いものに変質していた」作品を手直しし、パイロットに近いものに戻すことになったのだそうです(※3)。
ここからは類推になってしまうのですが、この時点で主たるテーマが「森と人との共存」から「人と人との共存」に移行したのではないでしょうか。
実際杉山監督は、
「一見、森や自然を中心に扱っているように見えますが、この話の帰結する先は自然ではなく人間です。(中略)もしこの『銀色の髪のアギト』という作品を誰かが違う演出をしたいっていい出したなら、森や自然を使わなくてもいいんです。」(※4)
と語っているので、森や自然は杉山監督にあっては「人」の物語を描くうえでの媒介という位置付けなのだとわかります。
また同インタビューによれば、森の双子の設定については尺の都合で入らなかったとのこと(※4)。
他の箇所、たとえば人物描写を削ってでも森について説明を入れようとするのでなく、逆に森に関する説明の部分は切ってしまってでも「人と人」の方を優先した。
とはいっても予算と手間(+前任者への遠慮)を考えればそれまでに作り上げてきたシナリオやセル画をなるべく生かす形での変更を行ったのでしょうから、森について謎の問いかけ部分はそのまま入ってしまい、そのくせ解答は描かれない(観客の想像に任せる)結果となった、そういうことではないかと思うのです。
杉山監督自身も、
「オープニングと物語の前半は僕が作りました。ちょうど後半からは監督として携わったので、映画をトータルで観ると、そこに不自然さがあったり、自分自身納得していない点があることも確かです。でも、全体的な本編の質は悪くありません。(中略)演出として自分が作った部分が一番納得しているのは事実ですけどね。」(※5)
と話していました。
(つづく)
※3・・・杉山慶一監督のブログ「my god!it’s full of stars!」(http://blogs.yahoo.co.jp/origin_spirit)2006年1月2日付の記事。
※4・・・『銀色の髪のアギト コンプリート』(メディアファクトリー、2006年)のインタビュー
※5・・・『季刊DVDレビュー』85号