想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

AIは老若男女、誰のものでしょう? ~高齢者が直面するAIとの共存

2024年10月04日 | エッセイ
コロナ5年10月4日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 AI の時代なんですが なかなか これを使える人っていうのは まだまだ少ないんですよね で 私は77歳になりますが 、この高齢者の観点から AI を考えるというのは非常に大切なことだと思います。

  若い人は AI の技術はありますよね 。ところが 高齢者は技術がない代わりに人生経験が豊かです。ですので物事を幅広く考えることができます。 そういう中で AI をどうやって使っていくか ということ、 共存していくことが大切です。避けてばかりは通れない時代になりました。

 ITからAIの時代が到来し、私たちの生活は大きく変貌しつつあります。AIは、医療、金融、製造業など、様々な分野で活用され、社会を効率化し、新たな価値を生み出しています。しかし、AI技術の進歩は目覚ましい一方で、その活用方法や、社会全体への影響については、まだ多くの議論がなされています。

 特に、高齢者層におけるAIの活用は、重要な課題の一つです。若い世代に比べて、高齢者はITリテラシーが低い傾向があり、AIを日常的に利用することに抵抗を感じる人も少なくありません。

 一方で、高齢者は豊富な人生経験と知恵を蓄積しており、AIの活用によって、より豊かな生活を送ることができる可能性も秘めています。

 高齢者がAIと共存していくためには、以下の点が重要と考えられます。

1. 高齢者向けのAI教育の充実

 AIの基礎知識や、具体的な使い方を学ぶための教育プログラムの提供が不可欠です。高齢者が安心してAIに触れることができるよう、わかりやすい教材や、マンツーマンでの指導体制を整えることが求められます。

2. 高齢者のニーズに合わせたAIサービスの開発

 高齢者の生活をサポートするAIサービスとしては、健康管理、コミュニケーション、情報収集などが挙げられます。これらのサービスを開発する際には、高齢者の視点を取り入れ、使いやすさや安全性に配慮することが重要です。

3. 高齢者とAIを繋ぐコミュニティの形成

 AIに関心のある高齢者が集まり、情報交換や意見交換を行う場を提供することで、AIに対する理解を深め、互いを励まし合うことができます。

4. 多様な世代が協力してAI社会を築く

 AIの開発や利用においては、若い世代の技術力と、高齢者の経験や知恵を組み合わせることが重要です。多様な世代が協力し合い、より良い社会を築いていくことが求められます。

5. AIの倫理的な側面への配慮

 AIの利用によって、プライバシー侵害や差別などの問題が発生する可能性があります。AIの開発や利用にあたっては、倫理的な側面に十分配慮し、誰もが安心して暮らせる社会を実現することが重要です。

 高齢者は、単にAIの利用者ではなく、AI社会を築く上で重要な役割を担う存在です。高齢者の視点を取り入れ、多様な世代が協力し合うことで、AIはより人間らしい社会の実現に貢献できるはずです。

まとめ

 AIの時代において、高齢者はAIと共存し、より豊かな生活を送る可能性を秘めています。そのためには、高齢者向けのAI教育の充実、高齢者のニーズに合わせたAIサービスの開発、高齢者とAIを繋ぐコミュニティの形成、多様な世代が協力してAI社会を築くこと、そしてAIの倫理的な側面への配慮が重要です。

今後の展望

 AI技術は日々進化しており、私たちの生活はますます変化していくでしょう。高齢者も積極的にAIを活用し、社会の一員として活躍していくことが期待されます。AIと人間の共存は、これからの社会が抱える大きな課題であり、同時に大きな可能性でもあります。

※参考

  • 医療分野: AIによる診断支援、遠隔医療、介護ロボットなど
  • 生活支援分野: スマートホーム、音声アシスタント、見守りサービスなど
  • 社会参加分野: オンラインコミュニティ、ボランティア活動など
  • 教育分野:AI講師(アバター)による講義、語学学習支援、バーチャル空間利用、AIとの交流体験







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何がめでたい敬老会

2024年09月19日 | エッセイ
コロナ5年9月19日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 私たちの市は今年は敬老会は77歳喜寿、 80歳傘寿、 88歳米寿、 90歳卒寿、 99歳白寿、100歳以上で実施されました。私も敬老会に招待されるのは初めてですので参加してみました。 77歳として参加したわけです。
 式次第も市長挨拶、市議会議長挨拶、などがあり、その後は余興に移り、市長を含めた3人による楽器演奏や歌がありました。
 どんなものかなと想って参加してみましたが、皆さんから、壇上の来賓から、おめでとうございます。と言われても、何がめでたいのか、正直ぴんと来ませんでした。素直に感謝することも大切だなと心の中で想いましたが、、どうも、今どきの時代に合ってないなという想いがこみあげて来て、これでは何のために参加したのか、よく分かりませんでした。

 参加しない方もたくさんおられるようですが、年齢や健康状態によっても違うと想いますが、みなさんこの日をどんな想いで過ごしておられるのかなと、一瞬思いました。

 高齢者がこれだけ増えてた現在、ありきたりの敬老会も、もう、考え直した方がいいではないかと想いました。もっと、敬老ばかりでなく、前向きな、アクティブな敬老の日がいいなと想った次第です。
 
 そういえば、しばらく前、『九十歳。 何がめでたい』 という佐藤愛子さんの小説の映画を見ました。草笛光子主演のものでしたが、彼女も90歳ぐらいの女優でしたが、元気あふれる老人というより女性という感じでした。まだまだ、生きる意欲満面の姿が印象的でした。とても、敬老という言葉が失礼になるぐらいのエネルギー溢れる役者を演じていました。

 最近の高齢者をよく表現しているなと感心した次第です。このような時代になり、とてもおめでとうございます。と、いわれても、皆さんぴんと来ないでしょう。これからの敬老会も、もっと、考え直してもよい時代になったのだと思いました。まだまだ、これからも、頑張らなくてはいけない時代になりました。これからも一旗あげるくらいの気概がないと、この時代生きてゆけません。

  今後は社会の変化に合わせて、従来の敬老会ももっと、アクティブなものに変えていく必要があるのではないかと想います。77歳や80歳ではまだ、若すぎます。おめでとうは90歳を超えたぐらいからでもいいのではないでしょうか。
 
  
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医食同源、食べ物で体は作られる

2024年09月05日 | エッセイ
コロナ5年9月5日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 私たちの体は、食べたものでつくられ、食べたもので変わっていきます。このことを医食同源といっていいかもしれません。試しにネットで調べてみました。下記のような説明が出ていました。

                 記
  1. 医食同源(いしょくどうげん)とは、日頃からバランスの取れた美味しい食事をとることで病気を予防・治療できるとする考え方。
  2. 病気の治療も普段の食事も,ともに人間の生命を養い健康を維持するためのもので,その源は同じであるとする考え方。
殆ど私の考えと同じほっとしました。

 私は前々から医者にかかる前にまず、生活習慣や食事を考えることが大切だという考えをもっていました。体調の変化があった時など、前に何を食べたのか、よく考えることがあります。それは、体は基本的に食べたもので、できているからです。体が酸性かアルカリ性かも大いに関連しているものと想われます。

 体調に変化があった時、よくその前の食べ物を振り返ってみます。良きにつけ悪きにつけです。すると、関連する食べ物が見つかるときがあります。すると、次のようなことが分かりました。

・果物が好きで何でも食べるのですが、スイカを夕食で沢山食べすぎると夜、   1,2時間程寝れなくなることが分かりました。リンゴも同じです。ですので、この果物の場合は量を減らして食べることにしています。そうしたら、見事、解消しました。

・東海道を旅した弥次喜多道中は有名な話ですが、昔はよくお結びにごま塩をかけて旅するお話がありましたが、そのごまにスタミナの元があるのではないかと、想い付き、ある日から、ごまを毎朝小さじ1杯食べ始めましたところ、毎冬あれほで、唇が荒れていたのが、うそのようにならなくなりました。リップクリームもいらなくなり、毎日、スタミナも付き、いわゆる精力もついてきたのです。それからのこと、77歳になる今日まで続けています。まさに、それは医療を上回る力を私に与えてくれています。

 その後、サントリーからサプリメントとしてセサミンが発売され、ベストセラーを続けていることは何かの因縁かと想っています。それから、こんな成果もありました。冬に自動車で暖房をかけると決まって、昔は喉をやられてしまいました。あら不思議、ごまを食してからは、冬に暖房をかけても、喉がやられません。やはり、これも、大きな効果だなと自覚しました。その後はたまには、喉もやられそうになることはあるのですが、たいしたことはなく住んでいます。まさに、今思うと、これこそ、医食同源だなと感心しています。
 ただし、ごまの食べ方には注意が必要です。ごまは、殻に包まれています。そのまま食べても体をスルーしてしまいます。しっかり大臼歯で砕いてからいただきましょう。

 人間、人それぞれで、効果のあるものとないものがあると想いますが、私にはごまがぴったり合いました。相性が良かったのです。この相性が現実の世の中では大切です。自分にぴったりな食事を見つけましょう。このように注意して食材を選ぶと効果があることが私なりに体験から発見しました。

 よく、医学の進歩した今日といいますが、医学に頼るまえに食べ物こそ薬ですので、まず、毎日の食習慣を選びなおすことこそ大切ではないでしょうか。栄養学や保健面も過去と比べたら格段に進歩しています。管理栄養士もいます。医者で薬をもらう前に、まず、管理栄養士さんのアドバイスを参考にしてからでも医者通いは遅くなないと想っています。薬は本来毒でもあります。十分注意して処方されることが肝要かと想います。

 薬の複合汚染もあります。特に有名なのがグレープフルーツですね。注意しましょう。医者にかかる前に日頃の生活、運動や食事習慣なども考えるのが肝要かと想います。日本は先進国ではまれにみる食品添加物だらけです。外国で禁止されているものが、基準が緩い日本に流れてきているものがたくさんあるのです。
 
 今は何でも科学で解明できていると想う過信は禁物です。次から次へと新しいものが出て、解明はいたちごっこで分からないことだらけです。真偽を見極める眼が大切な時代になりました。

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任運騰騰(にんぬんとうとう)自然の流れの中で!

2024年08月20日 | エッセイ
コロナ5年8月20日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 先日、健康だけでは生きていけないという80代の方の貴重なお話に感銘を受けました。そうだ、まずは健康だが、その先にあるものは、健康だけではない。生きがいというか、やりがいというか、生きるべきことが分かっていることが大切だなと感じました。

 精神的な支えでしょうか。生きながらえている価値にめざめないと、何のために自分はいるんだろうという根本的なことがすっぽり抜けてしまう。やたら長寿がいいわけではない。生ある間の生き方が問題なのだ。どう生きてどんな足跡を残したのか。

 社会や人のために生きた人と、自分だけに生きた人をみれば一目瞭然だ。問題はその中身なのだ。だから、単に寿命ばかりを強調しても意味はない。実際に行なった良いこと(X軸)、年齢(Y軸)をグラフで表したときに、その面積の広さで考えるのが、合理的だと想う。

 仮に20年しか生きなかった人がいたとしても、その広さが100の人と、100歳まで生きたとしても、その広さが80の人がいたとするならば、結果的に、寿命は20歳で短命だが、社会へのインパクトでは100歳生きた人よりも100-80=20で20多く社会に貢献したことになる。それだけ、生きた価値があったというべきだろう。

 今、やたらと長生きばかり言っているが、問題は、どう人生を生きてきたかという、その中身こそ最も大切なことではないでしょうか。もう一度、寿命ということについて新ためて考えることが大切ではなかろうか。

 そういう私も、今後どう生きがいを持って天寿を全うしようか?自問自答している毎日である。老いてもなお生きる未来があるといえる命を生きてこそ、本当に長寿を喜ぶことができるのであろう。知るは神のみ、我が人生も神のみぞ知る心境である。あとは天に任せた。

 広くは私の人生とて、自然の摂理(自称私の信ずる神)の中で、神の意志で生かされているのだから、自分で生きているようで、結果生かされている自分が現存している今がある。実に不思議だな。奇遇だな。合縁奇縁だな。年数を重ねる程にその感は強くなる。

 所詮、この世のことは己の意志では理解できないことなんでしょうね。年を重ねるほどにこの想いは膨らんでゆく。こういう私もいつの間にか、神に導かれてここまで来てしまった。こういうことは、やはり、若さよりも77歳という年の功かなとつくずく想う。

 今後、高齢社会を生き抜くために、どんなことをすればいいか、自問自答してみた。以下に自分なりにまとめてる。

・幸福感が高く、自分の人生を肯定的にとらえる(ポジティブシンキング)
・自分を取り巻く環境と調和的に生きる。(外交性)
・好奇心探求心こそ、生きる源泉
・静と動の調和の中に身を置く。弁証法的にとらえれば、正反合ならず、静    
 動合かな。両者のバランスこそが大切
・森羅万象、すべてはバランスの上に成り立つ、これが崩れた時が危ない。
 (地球上では人口が多くなりすぎ、バランスが崩れてきている。過去の1億が今や80億余に)
・好き嫌いや偏食をしない。(食でも、思想でも)
・変化の時代、偏見と常識は捨て、本質から創造する。
・伝統は不易なものでなく、常に新しい有益な価値を加えて作るもの。
・あるがままみつめ、そこから行動する。
・自分とは自らの分け前であり、唯一無二の存在、だから価値がある。そこに気づき、そこを伸ばす。

 成るようになり、成るようにしかならない人生、生きて来たように死んでゆく、ケセラセラ、人生とは他人と比較してもどうにもならない。毎日を愚直に生きてゆくだけ。諸行無常はこの世の常、ただ、ただ、不易流行の中を生きてゆく。こうして、いる間も月日は流れ、私は残る。
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Ohこわ!南海トラフ巨大地震

2024年08月11日 | エッセイ

コロナ5年8月11日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 人間は恐怖と喜び、どちらに大きく影響受けるかと言うと、まず恐怖の方ですね。個人的な恐怖ならまだいいんですが、日本人全体に影響があるとなるともう大変、自然災害や戦争などです。昔、もののけとか、伝染病、地震、そういうことがありましたね。国民全体がそういう風な恐怖に陥ると、それが周りにも伝播してしまいます。雰囲気そのものが周りすべてそうなってしまったらもう、大変です。

 例えば今回まず1月1日に能登半島で地震が起きましたね。まだ、私の住んでいる静岡県からは離れていたので、安心してましたが、その後、最近、日向灘。宮崎県付近で震度6弱程度の地震がありました。これ結構マグニチュードがすごかったですね。

 まぁそういうことでマスコミは連日、南海トラフが動くじゃないか。南海トラフ地震が起こるじゃないかと煽っておりましたけども、その矢先8月9日ですか?昨日昨日だったんですかね。神奈川県でまた震度5弱位の地震が起きたのかな?まぁこれは南海トラフと関係なかったんですが、交通機関にも大きな影響があり、お盆と重なり、女房も墓参りをやめました。線路を歩いた人がいるという、そういうマスコミ報道も流れました。

 まぁこういうな状況になるとですね。日本全体、いや、太平洋岸の国民は南海トラフとの関連を連想し、恐怖でおののいてしまうわけです。南海トラフの初めての巨大地震注意報が出ましたね。マグネチュードも7.1だったから大変です。

 そんな中でもね、私には主に生き方としてね。つくづく思うのは、人間疑心暗鬼になって、恐怖から逃げられなくなるようです。それが、心理ですね。そこから離れたくなってしまいますね。しかし、喜びとか一時の歓喜は一過性のものに感じてしまいます。

 恐怖の時は、理性が停止しますが、歓喜の場合は一時的な停止であり、持続性もないように想います。同じ感情の変化でも恐怖と歓喜では大きな違いがあるやに想います。


 昔、関東大震災朝鮮人虐殺事件、日本で発生した関東地震・関東大震災の混乱の中で、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人や社会主義者が暴動を起こした。放火した」などのデマを妄信した官憲や自警団などが、関東各地で多数の朝鮮人を殺傷した事件がありました。こういう時に乗じて大変なことが起こった過去があるわけです。

 こういう時こそ、冷静な思考が必要なわけです。こういう過ちは絶対起こしてはいけませんね。周りの雰囲気に流されないで、真実を見つめる眼が必要なんです。ヒトラーの台頭なども同じ類です。冷静な判断が大切ですね。

 政治の1番やってはいけないこと。影響力の大きいこと。これは恐怖を煽ることです。恐怖は煽っておいて、自分の野心でやりたいことをやるのが1番いけないことですね。

 私はいつも思うんですが、タイタニックが氷山にぶつかって沈没した事件がありました。たくさんの人が死にました。1か月前、まぁこれが分かっていれば、その間、恐怖に驚くわけですね。ところが全然知らなかったわけです。そうすると、ぶつかって始めてそのことを理解するわけです。

 まぁこういう時、人生に一回死ぬんだったら、その間、楽しく愉快に平和に生きると言うことが大切だなと思わずにはいられません。知らぬが仏という言葉があります。実に無責任な言葉に感じますが、案外前向きに生きる時には、この言葉が大切に想います。

 なんでもポジティブに良い方に考え、自己肯定感を持って、心配をしない。くよくよしないこと。これが賢く現実を生きる知恵ではないでしょうか。

 いつか南海トラフ巨大地震は起こる。富士山が大爆発する。日本が沈没する。など、心配事は山ほどありますが、毎日をいい方に考えてポジティブに生きることこそ、この混迷な時代を生きる知恵であるように想います。心配していてもしょうがありません。だけど、その辺の日頃から準備とか、知見は必要です。人事を尽くして天命を待つという言葉もあります。人事を尽くして後は神様に任せて生きるのも名案ですね。

 心配すれば切りがないですね。勉強ができても、この辺の切り替えができないと、この世は生きいけません。心の持ち方でどうにでもなります。笑っても一日、心配しても一日なら笑って過ごすのが一番です。人間と言うのは摩訶不思議なものですね。


 そんな私も残り後、長くて残すこと20年余りとなりました。結局は私たちは大きくは自然の摂理の中で生きています。だから、どうこの自然と折り合いを付けていくかと言うことが大切です。この自然を友とすれば、もう私たちに怖いものはありません。あとは自然に委ねるだけです。人事を尽くして天命を待つも同じような意味ではないでしょうか。日々、後悔の無きよう充実した人生を送りたいものです。平和で健康な毎日が続きますように!自然の摂理への畏敬の念をもって、礼拝合掌……。墓碑には「感謝と畏敬の念」を刻みます。
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