11日に、神奈備さまがご来訪くださいました。
平安神宮の橘の子樹を頂戴しました。
ありがとうございます。
神奈備さまは神社や古代史(だけではないですが)に大変お詳しく、
私たちの間では「歩く百科事典」などとこっそりお呼びしています。
とっても楽しくお話を伺いました。
いろいろな話の中で、神社の神域について面白い解釈を紹介くださいました。
私の見方も加えて紹介させて頂きます。
神社の神域にはご祭神が祀られています。
いつも思うのは、いつからその御名で呼ばれるようになったのかです。
平安時代に編まれた延喜式神名帳に各地の神社のご祭神の御名が書かれていますが、
その時に初めて比定された(祭神が定まった)神社もあります。
もっと昔、弥生、あるいは縄文まで遡って神社はどのような形だったのでしょう。
霊的に神聖視される場所に霊的に特別なパワーを持つと考えられる大きな岩を置き、磐座(イワクラ)として祀る、あるいは常緑の木をヒモロギとして立てて祭祀を行うような形式です。その時ご祭神にそれぞれ名前があったのでしょうか?それとも、ただ、「カミ」であったのでしょうか?その「カミ」はスピリットの集合体とも言うべきものであったのかと。精霊よりは強力な、その場を司るモノ。
神奈備様は信州を中心に(信州は縄文人が多く住んでいた場所です)「シャクジ」と呼ばれる神が各地に残っていると話されました。「シャクジ」=「石神」。これこそ、古代イワクラに祀られていた神のことかもしれないと(「ミシャグチ神」も同様の神)。とすれば、御歳神社のように古くからあるお社には、現在神社に祭られている御祭神さまだけでなく、その後ろに縄文からの神々もおわすのではないかとの話。
とてもとてもすっきり来る話でした。日本は多神教で良かったです。
多神教なので、シャクジ神さまがいらっしゃっても問題はないですので…
私はまだまだ、知識が乏しいですが、神社の神域で感じるのは、やはり神々です。
色々な神さまが,其処此処におわす感じ…本殿にも祭りの庭にも、その奥のご神体山にも、さらにその奥の高い山にも古代から存在してきた何かを感じて心が震えます。
もう一つ、感じるのは、此処が「祭りの庭」であること。
神さまを祭るその人々の「心」が、神域ともいうべき神聖な場を創り出しているのだという思い。祭られなければ、やがて、神性も失われるかもしれない。祭ることによって、神さまの力も増して、スピリチュアルな場所になるのだと思います。
鎮守の杜の心地よさは、人々の祈りによって紡ぎ出されているのかもしれません。
客体ではなく、主体として神社に参拝するという感覚も良いのではないでしょうか?
神さまに祈願しながら、その場にパワーを与える存在ともなる。
とてもステキな考え方だと思います。
スピリチュアル=精神的・霊的
スピリット=霊・霊魂・精霊・精神
「シャクジ」について神奈備様より、詳しい解説のページを頂きました。
ご覧くださいませ。
石神について 神奈備様のHPへ
「神奈備へようこそ」TOPページへ
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主体として参拝するということ、大変興味深いです。
うまく表現できないのですが、
私の中にある、同じスピリットとしての
感覚を神様と対面することで味わうといったかんじでしょうか、
お参りした後、ほっとする安堵感、癒された
感覚を感じます。
>お参りした後、ほっとする安堵感、癒された
>感覚を感じます。
ですね。
人の心の中にある「祈り」もパワーだと思うのです。
神さまに祈りをささげることでその純粋な心がお社の場所をも清らかにしていく感じ。
そうして、「祈り」がその場所を神聖なものにしていって
神さまのおわす場所に整えられる感じ。。。
私もまだ、うまく言葉になりませんが。。。
また、書いてくださいませ。
ありがとうございました。
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