鎮守の杜から
葛木御歳神社神職が、神道についてや、日々感じたことなどを思いつくままに綴った私的なページです。
 



28日、あまりに良い天気だったので、思い立ったが吉日で和佐羅の滝へ出かけました。
東吉野の丹生川上中社の先のやはた温泉から5km程のことろです。

ここ、MY滝なんです^^
特別な思い入れのある場所です。

山の中を歩いて、道なき斜面を滑り降りたところに、立派な滝が突如現れます。
少し、秘境の趣です。

ちょっと区切りもつけたいし、禊装束を持参して行きました。
人がいなければ川へ入ろうと^^
禊の時は、基本一人で行きます。

最初に行った時はこわごわでした。
二回目もまだ怖さがあったかな。
今回は三回目ですが、怖さは全然なかったです。

4月ですが、お日さまがきらきらしていて、本当に暖かい。
水浴び日和です^^
軽い山歩きで汗をかいて、体は温まっています。
滝の水量も丁度よい感じ。
水は滝なので結構流れがありますが、心地よく身体を通り抜けて行きます。

前回は10月でしたが、同じくらいの気温かな~。
この時期だと、水から上がると体がかえってぽかぽかします。
とても軽くなって、重たかったパソコンの要らないファイルを削除したような軽快さ。

体を拭いて着替えていると、川の中の平べったい大きな岩が陽だまりになっています。
滝に向かって正座すると背中から太陽を受けて実に心地よい。

思い立って、鎮魂行法をやりました。

滝の轟音以外、何も聞こえません。
目の前の岩の水たまりで小さな鳥が水浴びをしています。

時々目を閉じて音の中に酔います。
目を開けると、風景が強いコントラストで飛び込んできます。

気持ちの赴くままに、30分くらい座ってました。

今回は誰にも邪魔されず、自然の中に一人入り込んでいました。
こういう時の心地よさは他に比べるもの無しですね。

時々は行かないとなあ~と思いました。

でも、少し反省です。
やはり、センシティブになるのかなあ。
現実とのギャップに対処できない。
その夜、現実の中の難しさがとても異物となって、洪水のように感じてしまった。
でも、それこそが現実であり、対処すべき問題でもあります。

自然の中では、自己の存在はあまりにも小さくて、
自然は畏敬すべき絶対者のような存在に思えます。
ですので、自分の自己のプライドも自意識もあってなきもの思えます。
なので、悩むことはないわけです。
すべて受け入れることができるわけです。

人と人の関わりでは、優位性に絶対的なものがないから、
主張した者勝ちのようになります。
あるいは主張した者が、集団の中で袋叩きに遭うこともあり得ますが。。。
どちらにしても、自己の優位性を保とうと思うのは、人間の本能のようなものです。
そのために、当然理屈を捏ね回すわけです。
なんとも醜いですが、それが人間の性でもあります。

私も人間ですから、醜い部分は当然持っています。
それが、どっと異物となって違和感となって襲いかかってくることがあります。
瞬間、食細胞が己の細胞を喰らうように
耐えがたい痛みとなって蝕まれていくような恐怖を感じることがあります。

さてさて。どう対処するかですね。
これがなかなか面白い。
どこかに冷静な自分がいて、面白がっているわけです。
当然最初は余裕がないですが、これも経験ですね。
悩むことも必要ですが、時には傲慢さも必要なのかも?とも思います。
落とし所を見つけないと精神が持たないですから^^

どうなのかなあ~
そんなことを超越してしまっている人もいるのでしょうけれど。。。
精神の揺れは色々悪影響をもたらします。
ならば、揺れない自分を確立するべきなのかなあ~

ふふふっ^^
相変わらず面白いですわ。
今回は一晩で解決。
前向きに次回のお祭りの準備をがんばりましょう^^


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする