凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

いつの間にか2月

2015-02-08 10:34:22 | 考え方
 なんと言うか、私の周りの運動系はトラブルだらけだ。

 みんな我が強い。絶対、譲らない。だから、議論をしても空しいのだ。対立する意見は出し合って、すり合わせをして、止揚に至る、なんてことはない。
 私が見て来たのは、不毛なバトルばかり。

 バトルに入る人たちは、多くが自説を曲げない。自分こそが正義を体現しているという自負があって、これだけは譲れない、というような勢いがある。この勢いは、エスカレートすると、怒りや敵意の感情に発達する。怒りや敵意の応酬が始まったら、もう、他の考えの入り込む余地はない。

 私はどちらかと言えば、そうした愚痴や不満や怒りを、打ち明けられる立場になりやすい。わかってもらえる、と勝手に思われてしまう。悲しみや怒りをかかえている人の神経を逆なでするようなことは、基本的に言わないから。悲しみは慰撫したいと考えるし、怒りにも慰撫する思いで寄りそうことはある。ただし怒りを煽ることはしない。

 ネガティブな感情は慰撫される必要があると思っているからだ。

 ただ、その人の言い分が正しいかどうかについて、「判定」を求められたら、それは話は別。イージーな判断はする気がない。客観的な正しさ、を判定することは不可能だ。
 だが、自分こそが正しいと思い込んでいる人は、相手から来た批判や攻撃は、自分の正義を蹂躙する行為だと思ってしまう。だから、怒りを持つのだが、その人が正しいかどうかは、まったく別の話だ。
 そもそもの事件の発端は知らないのだが、今わかるのは、怒りに対して怒りの応酬をすることで、どんどん対立が激化している、ということだけ。
 こじれてしまってから、正しさの判定や、正しさへの同調を求められても困る。

 しかし、同調しないことで、今度は私が批判の的になる。同調圧力が働くのだ。

 今、大いに困惑している。その人をなんとか慰撫したい、そのネガティブな感情をなんとか緩和したい、という思いはあるが、それは友人ゆえにそう思うのであって、だからと言って、その人の敵を憎むように、同じように敵視するように望まれても、期待されても困るのだ。その人の敵に対して、その人に対するように同調する気はないし、付き合う気もない。
 それでも、その人の敵を、「悪」と断罪しない私は、その「悪」を擁護していることになるらしい。「断罪」しないが、「擁護」もしない立場、というのは成り立たないのか。
 「断罪」はしないが、共感も同調もしない。むしろ、批判的に見てはいる。距離を置いて考えている。そして、友人の方をケアしたい、という気持ちはある。
 それでも、相手を糾弾し、激しく論難する友人と比べて、敵視しない、怒りに燃えない、断罪しない、という温度差が、第三者の「すぐに同調する」タイプの友人から責められる。

 深く吟味することなく、わかりやすい「正義」、安全な「正義」のもとに集団の尻馬に乗って騒いでいた人を見てきたので、この愚は犯すまいと思っている。

 私は相談を受けた時に、報復もバトルも避けることをアドバイスした。相手は、百戦錬磨の、闘いが人生である、というようなタイプの人。運動家ではなく、「闘争家」なのだ。自分の趣味も「闘い」である人は闘えばよいけれども、そうでなければ、それは不毛な闘いであると、私には見えた。
 
 議論は成立しない。自説を信じて疑わない人同士の議論に、止揚の可能性はない。自説を相対化する力のない人に、議論は不向きだ。それら対立構造に、第三者の目があって初めて、止揚が可能になる。その第三者の目は、どちらにも感情的に引きずられないものだ。両者が、敵と味方の二分法でしか物事をとらえないのであれば、第三者は争いに巻き込まれるだけだ。

 さらに困ったことに、私は友人が敵視している人からも、好感を寄せられる。敵視しない私を、自分の味方と見るのかもしれない。敵とか味方とかではなく、友人に寄りそいたいだけのだが。

 人間を、敵と味方の二種類に分けて、冷静な判断を見失っている人というのは、まことに憂わしい。事実は複雑だし、人の激情はややこしくて正当化は困難だと思うが、第三者の判定を期待する場合がある。自分が正しいと信じているから、同調してもらえると信じて疑わない。だから、第三者の判定が、自分の側に寄与するものでなければ、たとえ「敵」にも寄与しない冷静なものであったとしても、さらに怒りに火が着くのだろう。
 今となっては、世界を震わせるテロリズムと、どう向き合うかという次元の話まで、事の性質は重なる感じすらある。

 せめて、言葉の応酬のレベルにとどまっている私の周りの事件では、早く怒りを鎮静化させてほしいと願う。しかし、鎮静化させる努力はなされていないようだ。怒りが怒りを呼び、「勝つ」か「負けるか」のぎりぎりまで持ち込んでしまった責任を感じてほしいが、あくまで相手が「悪」だと思っている間は、その責任すら自覚しないのだろうな。




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