嘗て、知人の会社で、人を雇用したとき、トラブっていたことを思い出した。今、私の関わるNPOが労働争議をかかえてしまったことで、思い出したことだ。
知人の会社は、私も立ち上げのときに関わり、その後も、何度か、いっしょに仕事をした。私自身は、経営に参画しなかったが、それは、当時、とびぬけて若かった私には、資本金を負担する力がなく、経営側に立つことはできず、他へ稼ぎにいかないといけない状況にあったためだ。そこで、時折、頼まれた執筆の仕事などを引き受けたり、友人としてのつきあいを続けていたが、その頃、「どんなに忙しくても、人は雇用しない」と、彼女たちは言っていた。で、ワーカーズ・コレクティブとしての動き方を続けていたのだが、彼女たちメンバーがそろそろ引退を考える年齢にさしかかった頃から、一世代、若い人の雇用を始めた。
あるとき、その経営者の一人が、私にそっと嘆いた。やはり、私と同様、外部の友人の一人だった人を雇用したのだが、その人が「仕事ができないのだ」と。私は、そこの仕事を一緒にしてきて、そこの仕事の性質をよくわかっていたが、おそらくその人は、もっと違うタイプの人だったのだろう。その会社は、行政系の仕事を請け負うのだが、行政系というのは、独特の仕事の性質を持つ。その雇われた人は、とても活動的で、自分のカラーの強い人で、その会社の求めるタイプの人とは違ったのだろう。私に嘆いた経営者は、「なぜか、あの人の場合、どんな仕事をするか、全然試すこともしないで、雇ってしまったのよね」と。
が、その雇われた方は、自分の能力に自信があるから、給料の低いことや、自分の仕事ぶりに対して評価の低いことが我慢がならない。結局、さんざんもめて、決裂したようだ。
その時も、ちらりと思ったのだが、今回のNPOの争議でも思う。どちらも使用者側をよく知っているのだが、女性の労働力を搾取するような人たちではない。むしろ、女性の労働問題に、誰よりも、敏感な人たちでさえある。だからこそ、共に、がんばっていこう、と、仲間である女性たちを雇用したのだろう。が、その雇用した人が、使用者側から見て、「仕事ができない」人の場合、どうしたらいいのだろう。
このたびの労働争議も、使用者側の人は、ほとほと、疲れ果てている。
ずっと、話し合いをしようとしてきたのも知っている。が、仕事を頼んでも逆に叱りつけられ、言うことをきいてもらうどころか、反対に指示される始末だったのも、聞いている。 そして、それは、私にもわかる話だ。権力主義が嫌いな人は、自分よりも、立場の強い人の方に、強く出る。雇用される側であれば、使用者側に強く出る。結局、一般の社会とは、逆転現象が起こる。現場のことをよく知っているのは自分たちだ、という自負があったりするので、管理職の言うことをきいてくれない。むしろ、管理職が、気を使って、その指示で動くようなことになる。
私も現場の人の裁量を強くすることについては、賛成だ。が、それは、組織としての指示系統がきちんと認識されていなければ、成り立たないのだろう。現場の裁量権は、裁量権を与えた側の権限に裏付けられている、という認識が、なぜ、忘れられるのか? あの人たちは、頭が悪いの? 裁量権が与えられているから、といって、何もかも自分の権利だと思うほど、組織というものを理解していないの?
私の周辺の使用者は、使用者側に立つのも初めての、NPOで手弁当で、社会的に意義のある活動をしようとしてきた人たちだ。上からものを言う、というより、仲間意識でやっていこうとしてきた人たちだ。
が、それは通用しなかった。
自分の利益ばかりをはかる私企業の社長も、組合などうまくあしらってしまおうとする公務員の役職者も、自腹を切ってボランティアで動いているNPOの活動家も、「使用者」であることに変わりはない。労働者は、使用者に対して、相手の事情など斟酌せずに、ただただ、自分たちの権利を主張すればいいのだろう。
それなら、「仕事のできない」従業員をどうすればよいのだろう? 雇ったが最後、どれほど、不具合のある従業員でも、給料を払い続け、雇い続けなければならないのか。
人を雇用することのむずかしさ、社会的責任、などをつくづく感じる今日この頃。資本制社会に生きることを、働いてその対価として賃金の支払いを受け、支払われたお金で商品を買って生活をすること、という労働者としての立場から見てきたが、その労働者の雇用を通して労働者の生活資金を供給する側に、自分も立つかもしれない、というような時代がくるとは思わなかった。雇用して、その人の生活が成り立つようにすることの責任、ということを考えると、資本のない我々は、雇用してはならない、ということでもある。
知人の会社は、私も立ち上げのときに関わり、その後も、何度か、いっしょに仕事をした。私自身は、経営に参画しなかったが、それは、当時、とびぬけて若かった私には、資本金を負担する力がなく、経営側に立つことはできず、他へ稼ぎにいかないといけない状況にあったためだ。そこで、時折、頼まれた執筆の仕事などを引き受けたり、友人としてのつきあいを続けていたが、その頃、「どんなに忙しくても、人は雇用しない」と、彼女たちは言っていた。で、ワーカーズ・コレクティブとしての動き方を続けていたのだが、彼女たちメンバーがそろそろ引退を考える年齢にさしかかった頃から、一世代、若い人の雇用を始めた。
あるとき、その経営者の一人が、私にそっと嘆いた。やはり、私と同様、外部の友人の一人だった人を雇用したのだが、その人が「仕事ができないのだ」と。私は、そこの仕事を一緒にしてきて、そこの仕事の性質をよくわかっていたが、おそらくその人は、もっと違うタイプの人だったのだろう。その会社は、行政系の仕事を請け負うのだが、行政系というのは、独特の仕事の性質を持つ。その雇われた人は、とても活動的で、自分のカラーの強い人で、その会社の求めるタイプの人とは違ったのだろう。私に嘆いた経営者は、「なぜか、あの人の場合、どんな仕事をするか、全然試すこともしないで、雇ってしまったのよね」と。
が、その雇われた方は、自分の能力に自信があるから、給料の低いことや、自分の仕事ぶりに対して評価の低いことが我慢がならない。結局、さんざんもめて、決裂したようだ。
その時も、ちらりと思ったのだが、今回のNPOの争議でも思う。どちらも使用者側をよく知っているのだが、女性の労働力を搾取するような人たちではない。むしろ、女性の労働問題に、誰よりも、敏感な人たちでさえある。だからこそ、共に、がんばっていこう、と、仲間である女性たちを雇用したのだろう。が、その雇用した人が、使用者側から見て、「仕事ができない」人の場合、どうしたらいいのだろう。
このたびの労働争議も、使用者側の人は、ほとほと、疲れ果てている。
ずっと、話し合いをしようとしてきたのも知っている。が、仕事を頼んでも逆に叱りつけられ、言うことをきいてもらうどころか、反対に指示される始末だったのも、聞いている。 そして、それは、私にもわかる話だ。権力主義が嫌いな人は、自分よりも、立場の強い人の方に、強く出る。雇用される側であれば、使用者側に強く出る。結局、一般の社会とは、逆転現象が起こる。現場のことをよく知っているのは自分たちだ、という自負があったりするので、管理職の言うことをきいてくれない。むしろ、管理職が、気を使って、その指示で動くようなことになる。
私も現場の人の裁量を強くすることについては、賛成だ。が、それは、組織としての指示系統がきちんと認識されていなければ、成り立たないのだろう。現場の裁量権は、裁量権を与えた側の権限に裏付けられている、という認識が、なぜ、忘れられるのか? あの人たちは、頭が悪いの? 裁量権が与えられているから、といって、何もかも自分の権利だと思うほど、組織というものを理解していないの?
私の周辺の使用者は、使用者側に立つのも初めての、NPOで手弁当で、社会的に意義のある活動をしようとしてきた人たちだ。上からものを言う、というより、仲間意識でやっていこうとしてきた人たちだ。
が、それは通用しなかった。
自分の利益ばかりをはかる私企業の社長も、組合などうまくあしらってしまおうとする公務員の役職者も、自腹を切ってボランティアで動いているNPOの活動家も、「使用者」であることに変わりはない。労働者は、使用者に対して、相手の事情など斟酌せずに、ただただ、自分たちの権利を主張すればいいのだろう。
それなら、「仕事のできない」従業員をどうすればよいのだろう? 雇ったが最後、どれほど、不具合のある従業員でも、給料を払い続け、雇い続けなければならないのか。
人を雇用することのむずかしさ、社会的責任、などをつくづく感じる今日この頃。資本制社会に生きることを、働いてその対価として賃金の支払いを受け、支払われたお金で商品を買って生活をすること、という労働者としての立場から見てきたが、その労働者の雇用を通して労働者の生活資金を供給する側に、自分も立つかもしれない、というような時代がくるとは思わなかった。雇用して、その人の生活が成り立つようにすることの責任、ということを考えると、資本のない我々は、雇用してはならない、ということでもある。