凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

正義?

2011-06-13 10:33:58 | 組織・集団
 昨日は、私が関わっている団体の総会。次期役員を決める重要な会議。私は役員を下りると決めていたが、残る人もいる。そして、その残る人に役員を辞めろと主張し続けている人が、総会議決権のない会員二人を連れてやって来て、ことある毎に反対をする。

 本来なら、十分な議論を重ねて民主的な会議の運び方をするべきなのだろうが、既に、1年近く、その人をまじえた話し合いは重ねてきて、結局、その人の言い分は根本的には通っていない。多数のメンバーの考え方と、その人の考え方とは異なるのだ。

 多くのメンバーは、(私もそうだが)、意見の相違については自分の中で折り合いをつける。根本的な事項で自分の意見が団体の決定と異なるなら、自分が身を引くしかない。しかしその人は、自分の言い分が通るまでがんばる気らしい。そして、昨日の総会での決定で多数決を取って採決をしたが、その人の言い分は、「数の暴力」だ。多数決で採決を取る以外に方法のないこともある。議決権のない二人までも、反対意見に手を挙げ、メンバーの一人が、「あなた達に議決権はあるの?」と尋ねると、「会員だから」と言う。
 もともと、議決権のある会員とない会員との二重構造を作ったのは、その人達が支持する、今は退いた旧事務局長。その二重構造は理屈が成り立たないと私は指摘していたが、旧事務局長の説明では、会をつぶしに来るような人が議決権を持っていたら困るから、ということだった。
 旧事務局長が、ワンマンで仕切っていた会だったが、事務局長が変わったので、役員会議では体制について話し合い、この二重構造についても解決しないといけない、と話し合ってきて、継続審議事項だった。しかし、旧事務局長を支持する人で議決権のない会員であった人は、「この二重構造を旧事務局長が変えようとしていた」と言っていた。呆気にとられるようなストーリーに変わっている。

 すべてが、唖然となるようなストーリーに作り変えられている。これはよくあることだが、時間が経つと、ストーリーは変容していくのか。

 「数の暴力」を言い立てる人は、自分の主張が正義だから、それが通らないと、通らない世界は、すべて不正義な権力の世界になる。まさに昨日の友が今日の敵となっている状態だ。

 残念ながら、人権関係の運動では、この手のトラブルが多い。無理を通そうとする人の寄って立つ論理は、常に弱者の論理だ。弱者であることを武器に、攻撃を仕掛ける。自分の立ち位置を、弱者の位置に据えて一歩も動かない人は、自分が強者になる可能性というものから目をそらし続ける。誰でもが、弱者にも強者にもなり得る。「女」は、男性優位の社会の中で劣位に置かれている事実はあるが、また、違った局面では、いつでも強者の立場、上位の立場に立ちうる存在でもある。だからこそ、常に被害者であるわけではなく、加害者となる場合もあるのだ、ということは、フェミニズムの文脈でも、とっくに検証されてきたことだ。

 フェミニストを名乗る人にもいろいろいるが、常に「弱者」であることをアピールする人は、卑怯な気がする。常に、「被害者」になろうとする人は、その弱者の論理を歪めて利用する卑劣な人だ。「被害者」の皮をかぶった「卑怯者」だと言いたいくらい。

 昨日は、嫌悪感でいっぱいになった。ただ、その相手に堂々と抗弁した人は、ただ一人。ふだん、労働組合で闘っているから舌戦に強い。それに、自分のやっていることに自信があるから、ひるまない。
 実は、私はひるんでいた。なぜなら、相手の卑劣さ、浅はかさにはうんざりしているが、でも、その人を排除する(排除したい気持ちはわかるが)団体側の中枢の人の強引なやり方にも批判的だったからだ。実際、それについては、以前から意見を表明していた。しかし、その総会の場で、その反対者を勢いづかせることはしたくないし、その人は、私が団体のやり方について批判すれば勢いづいて、私の意見に乗っかってくるのは目に見えていたので、そこでは黙っていた。しかし、強引にその人の意見に振り回されないように会議を進めるやり方も、心地悪かった。一人、その日欠席した役員がいたが、実は私も出来ることなら欠席したかった。しかし、万が一、反対派がおかしなことをやり出した時に、役員が少ないのはまずいだろうと思って、気分を奮い立たせて出席した。
 案の定、その人が、わけもわからず味方についた議決権のない会員を伴って現れたとき、茫然とした。よくもわけがわからないまま、味方につくものだとは思うが、私も友人に「弱者」として頼られたら、守らないといけないと思って、同じ行動をとるかもしれない。

 まことに難しい問題だ。同じ志を持ち仲間であった人たちの分裂は悲しい。その日の夜、打ち上げに行った席で、「相手についてしまった、議決権のない会員二人は、これまで仲の良かった友だちだった」と嘆いている人たちを見て、フェミニズムもここまで来たのだ、と思った。もう、同じ敵と対峙して、一枚岩のように闘っていた時代とは違う。来るべき時代が来たのだろう。

 しかし、それにしても、この団体の騒動は、私の目からは、ヘゲモニー争いに負けた旧事務局長が、時代の変化に対応できず、自分の中で切り替えができず、自分は被害者だと主張して往生際悪く、外でおかしな画策を続けている図に見える。
 私が役員になったのは、その人に頼まれたからだが、その人にとって、頼みにしていた私にも裏切られた感が強いのだろう。しかし、筋の通らないことを指摘するのも、友だち甲斐だと思うのだが、その人は、自分のすべてを受け容れて支持するイエスマンしか要らなかった、ということのようだ。そして、それもまた、カリスマと呼ばれるリーダーにはありがちだ。こういう人は、回りが自分の言うことを聞いているうちに、自分の「正義」を相対化できなくなってしまうのだろうか。そして異なった言い分を抑え込んでいくうちに、いつの間にか、自分の回りには、イエスマンしかいない、という事態になってしまう。
 その団体でも、結局、旧事務局長側についたのは、実は旧事務局長自身が、決して頼みに思っていない、実は重要視していない、人たちだけだった。
 

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