そう、元旦くらい、一年の計だから良いことを考えればよいのだが、一夜明ければ人間性が変わる、というわけにはいかないから、相変わらず、うっとうしいことを考えている。ただ、もう一つの、友人たちにも公開しているブログでは、明るい話題を提供するが。
何を考えているかと言うと、私は、「女」というカテゴリーに属する側に生まれたことをまことに残念に思っている、ということを改めて確信して感じている、ということなのだ。FTMの問題に還元しようとは思っていない。FTMと、少し次元の異なる話なのではないかと(実は同じ構造上にある、という気はしているが)思っているので、同列に論じる気はない。
女である、ということは、この世で、主体たりえない、ということではないのかと思っている。男が獲得し、男が築き上げたこの社会の秩序において、女の果たす役割は男のアイデンティティの強化、男の人生の果実、男の装飾品、男の癒しであって、女は「男の」何かであって同列にはいない。それはもちろん、これまでのフェミニズムが喝破してきたことだ。今さら、言うまでもない。が、今私が思うのは、その男優位の社会に女が乗り込んで来た第二波フェミニズム以降のことなのだ。
確かに日本の政府ですら、「男女共同参画」というわけのわからない日本語を創作したにしても、「男女平等」を標榜するという時代にはなっている。とにかく、「平等」なのだ。それを盾に女たちは闘ってきた。
しかし、法制度上の「平等」とは違う場面で、女たちは男の「対象」でしかない。もちろん、そのことも第二波フェミニズムは喝破してきた。しかし、しかしなのだ。ヘテロフェミニズムは、男を指向する女の物語だ。男を指向する時、これまで主体でなかった女はどこに位置づくのだろう。男にとっての「女」であることを、どのように主体化するのだろう。
私にはわからないのだ。ヘテロフェミニズムが理解できない。男は「女」を得ることによって立つ。(勃つ、というようなしゃれを言いたいわけではない。)「女」は男を男たらしめる「道具」だ。ヘテロフェミニストは、その「道具」でありたいとは、微塵も思っていないだろう。が、ほんとうに、女は男と対を成しながら、自らがすっくと立っているのか?
私には理解不能だ。
私は、男といることによって、自分が何かの「手段」に落ちてしまったと感じる。いくら相手の男が私を望んだとしても、私が望まれた理由は相手の男が「男」であるために利するものに自分がなったのだと感じる。
「性欲」などは信じにくい。それは、最も、様々な物語と結びついてきたものなので、この世の掟を反映していると思っている。
だから、私は何か? と思うとき、男を喜ばせる、男を利する何かであるのはいやなのだ。「女」であることが、男の「手段」であるなら、私はそこから撤退するしかない。私は私でありたいからだ。
(しかし、これはわがままなのだろうか。人はそもそも、誰かにとっての何かであるしか、愛される理由はないのだから、私が私であること、など、あまりにも無意味なのかもしれない。)
私はこの世の主体でない生き物には生まれたくなかった、ようなのだ。だから、女であったことが頗る残念であるのだ。
男と女のラブゲームなぞに、およそ参加したくない。
じゃあ、どうするか? 女と女のラブゲームに逃げ込むか? それはしかし、この社会の「他者」と「他者」の出会いだ。この社会の「他者」である「女」には、「他者性」の美しさが確かにある。それを愛でることは不可能ではない。否、むしろ、好ましくさえ見える。しかし、「他者」と「他者」は出会うことに意味がない。「他者」は「主体」にとっての「他者」でしかない。ということは、「他者性」の美しさを賛美し、そこに関係性を見出すとすれば、それは、自分が「主体」性を帯びる、ということに他ならなくなる。つまり、私は「男」のアイデンティティを乗っ取ることによって、「他者性」の美を享受する側に回るのだ。
男は、概念として主体だ。主体としてしか「男」というカテゴリーは成り立たない。そして、現実を主体として生きざるを得ない。
自らの客体性に主体的人生を裏切られ続けた私は、主体としての男を指向するが、自分を愛玩する男を求めることができない。自分は愛玩されたくはない。では何を望むか? 愛玩されたくないが、誰かと関係をつくりたいと切望している。「愛」着し合う関係を得たい。では、客体として位置付けられた女性を指向する以外にないのではないか。男アイデンティティを乗っ取って、女性を対象とする以外に何ができるだろうか。
否、もう一つの方法があるかもしれない。それは、男アイデンティティを乗っ取った自分が、対象も男に求めること。どちらにしても、自分が客体化された「女」であることから逃れられる。
むしろ、女性を対象にする後ろめたさからも逃れられるから、男アイデンティティを乗っ取った自分が、男を対象にするのが一番楽な操作なのかもしれないと思う。
ひょっとして、BLとは、そういう表れなのか?
何を考えているかと言うと、私は、「女」というカテゴリーに属する側に生まれたことをまことに残念に思っている、ということを改めて確信して感じている、ということなのだ。FTMの問題に還元しようとは思っていない。FTMと、少し次元の異なる話なのではないかと(実は同じ構造上にある、という気はしているが)思っているので、同列に論じる気はない。
女である、ということは、この世で、主体たりえない、ということではないのかと思っている。男が獲得し、男が築き上げたこの社会の秩序において、女の果たす役割は男のアイデンティティの強化、男の人生の果実、男の装飾品、男の癒しであって、女は「男の」何かであって同列にはいない。それはもちろん、これまでのフェミニズムが喝破してきたことだ。今さら、言うまでもない。が、今私が思うのは、その男優位の社会に女が乗り込んで来た第二波フェミニズム以降のことなのだ。
確かに日本の政府ですら、「男女共同参画」というわけのわからない日本語を創作したにしても、「男女平等」を標榜するという時代にはなっている。とにかく、「平等」なのだ。それを盾に女たちは闘ってきた。
しかし、法制度上の「平等」とは違う場面で、女たちは男の「対象」でしかない。もちろん、そのことも第二波フェミニズムは喝破してきた。しかし、しかしなのだ。ヘテロフェミニズムは、男を指向する女の物語だ。男を指向する時、これまで主体でなかった女はどこに位置づくのだろう。男にとっての「女」であることを、どのように主体化するのだろう。
私にはわからないのだ。ヘテロフェミニズムが理解できない。男は「女」を得ることによって立つ。(勃つ、というようなしゃれを言いたいわけではない。)「女」は男を男たらしめる「道具」だ。ヘテロフェミニストは、その「道具」でありたいとは、微塵も思っていないだろう。が、ほんとうに、女は男と対を成しながら、自らがすっくと立っているのか?
私には理解不能だ。
私は、男といることによって、自分が何かの「手段」に落ちてしまったと感じる。いくら相手の男が私を望んだとしても、私が望まれた理由は相手の男が「男」であるために利するものに自分がなったのだと感じる。
「性欲」などは信じにくい。それは、最も、様々な物語と結びついてきたものなので、この世の掟を反映していると思っている。
だから、私は何か? と思うとき、男を喜ばせる、男を利する何かであるのはいやなのだ。「女」であることが、男の「手段」であるなら、私はそこから撤退するしかない。私は私でありたいからだ。
(しかし、これはわがままなのだろうか。人はそもそも、誰かにとっての何かであるしか、愛される理由はないのだから、私が私であること、など、あまりにも無意味なのかもしれない。)
私はこの世の主体でない生き物には生まれたくなかった、ようなのだ。だから、女であったことが頗る残念であるのだ。
男と女のラブゲームなぞに、およそ参加したくない。
じゃあ、どうするか? 女と女のラブゲームに逃げ込むか? それはしかし、この社会の「他者」と「他者」の出会いだ。この社会の「他者」である「女」には、「他者性」の美しさが確かにある。それを愛でることは不可能ではない。否、むしろ、好ましくさえ見える。しかし、「他者」と「他者」は出会うことに意味がない。「他者」は「主体」にとっての「他者」でしかない。ということは、「他者性」の美しさを賛美し、そこに関係性を見出すとすれば、それは、自分が「主体」性を帯びる、ということに他ならなくなる。つまり、私は「男」のアイデンティティを乗っ取ることによって、「他者性」の美を享受する側に回るのだ。
男は、概念として主体だ。主体としてしか「男」というカテゴリーは成り立たない。そして、現実を主体として生きざるを得ない。
自らの客体性に主体的人生を裏切られ続けた私は、主体としての男を指向するが、自分を愛玩する男を求めることができない。自分は愛玩されたくはない。では何を望むか? 愛玩されたくないが、誰かと関係をつくりたいと切望している。「愛」着し合う関係を得たい。では、客体として位置付けられた女性を指向する以外にないのではないか。男アイデンティティを乗っ取って、女性を対象とする以外に何ができるだろうか。
否、もう一つの方法があるかもしれない。それは、男アイデンティティを乗っ取った自分が、対象も男に求めること。どちらにしても、自分が客体化された「女」であることから逃れられる。
むしろ、女性を対象にする後ろめたさからも逃れられるから、男アイデンティティを乗っ取った自分が、男を対象にするのが一番楽な操作なのかもしれないと思う。
ひょっとして、BLとは、そういう表れなのか?
コメントありがとうございます。反応していただけると、また刺激になって思考が進みます。いろいろ考えたいので、遠慮なく何でも書いてくださいね。
触発されて違う角度からも考えたくなります。