凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

子どもがいるということ

2012-02-24 23:28:22 | 日々の雑感
 私たちの親の世代は、子どもに老後をみさせる、というはっきりとした目的があった。私にはきょうだいがいないが、一人っ子の私が女の子である、ということを、母の周辺の女の人たちは母に、「女の子でよかった。女の子は最後までみてくれる。男の子だったら、奥さんができたら終わり」などと、私という本人の前で平気で言っていた。母もまた、「女の子だから最後までみてもらえる」と、私に言ってきかせていた。つまり、私は、すでに生まれた時から、介護の担い手なのだった。
 私の親に限らず、そのような親がたくさんいただろう。子どもを育てるのは、見返りを期待してのことだ。ただただ、子どもの幸福を願う親というのは、あの世代にもいるのだろうか。

 そして、私は、子どもたちの人生の邪魔にはなりたくないので、老いてからどうしようと考えてしまう。子どもに負担をかけたくない世代の親だ。子どもたちの人生から自由を奪いたくないと思う世代の親は、どうして老いればいいのだろうか。

 そして、私の子どもたちには子どもがいない。子どもがいてもおかしくない年頃だが、子どもは持たないそうだ。私が今の息子の年には、息子はもう大学生だった。娘の年には、高校生の子どもがいた。が、二人とも、子どもを持たないつもりをしているらしい。だから、いつまでも、子どものままに見えることがある。自分の子どもを持たないから、自分が子どものままなのだ。他人に自分を明け渡したことのない人の人生というのは、どういうものなのだろう。特に、子どもを持っていないから未熟とも思わない。子どもを持っても未熟な人はたくさんいる。私の母などは、子どもを持っても、自分が子どものままだから、むしろ、子どもに大人の役割を求めていた。私が母を庇護しなければならなかった。だから、子どもを持ったから、人間が成長するとも思わない。

 子どもを持つとはどういうことなのだろう。長い間、私の実感は、自分がいない後も生き続ける人がいてくれる、未来への時間軸の広がりを感じられることだった。しかし、年をとってきて、子どもたちもそれなりに年を重ねて、その次世代がいないということは、何か時間の広がりがなくなった感じだ。閉じられる生命の感じがする。きっと、子どもを持たない人は、そもそも最初から、時間軸の広がりだかを感じることがないので、閉ざされた感じもないのだろう。

 なんだか、もう終わりたくなる人生だな・・・。