<世田谷区岡本公園民家園 長崎家コト八日の目籠の展示 2011/02/05>
私はコト八日という行事の原型は古代中国にあるのではないかと思うようになりました。
昨年の十二月八日にこのように書きましたので、そう考える根拠(文献)を示してみたいと思います。
そもそも古代中国に私の目が向いたのは、白川静氏の「文字講話」という講演DVDを見ていたときに、
鬼やらい(儺(だ))の話が出てきたからでした。
しかし、その前にコト八日(ヨウカゾウ、その他の別名もあります)とは何かの説明をしておかないといけません。
それには『コト八日』(大島建彦編、岩崎美術社、1989年)というタイトルの本があり、
大変参考になりましたので、まずはこの本から引用して、コト八日とは何かを概観してみます。
長くなるので●の見出しをつけてみます。以下で青字は引用文です。
●コト八日とは
(北島寿子「コト八日」、『コト八日』所収)
コト八日は一般には、二月八日と十二月八日に行なわれる行事としてとらえられている。
・・・東日本側をA地域、西日本側(青森県を含む)をB地域とすれば、
A地域は二月八日と十二月八日に行事があり、B地域は十二月八日だけに行事があるといえよう。(p.135)
・・・
コト八日には、各地で様々な来訪者を伝えている。
農事と関係があるので、山の神、田の神、作神、同様の性格を持つエビス、大黒、笹神、
あるいはもっと漠然とした八百万の神々といったものが挙げられる。
しかし、より広範囲にみられる来訪者は、妖怪変化の形をとっている。(p.137)
・・・
またコト八日には物忌みにもとづくと思われる謹慎が行われる。
仕事をしないとか、外出をしないとか、あるいは履物や洗濯物を家の中にしまったりすることは全般的に行われている。
・・・
柳田国男もすでに指摘しているように、物忌のきびしさが転じて妖怪変化の出現を伝えるようになったと思われる。
このようにコト八日は、春秋の農事の開始期及び終結期における重い物忌の日であったと思われる。
しかし、現在ではむしろ攘災を中心とする行事に変容している。(pp.137-138)
(大島建彦「解説」、『コト八日』p.262)
一般にコトと称するのは、コト八日という熟語にも示されるように、
二月八日および十二月八日の行事にあたるものと思われがちであるが、本来はこのコトということばは、
特に改まった飲食の意味に用いられており、ひろくハレの日の祭事とかかわるものといってよかろう。
●一つ目小僧がやってくる、目籠を掲げる
多摩地区や神奈川県では、コト八日の日にやってくる妖怪は一つ目小僧で、
これを追い払うために目籠を軒先に掲げるという例が多いようです。
目籠を掲げる意味について、山口貞夫氏は『コト八日』の中で折口信夫の説を紹介してこう書いています。
(山口貞夫「十二月八日と二月八日」、『コト八日』p.25)
(目籠)を掲げるのに竿頭高く結び付けて居る事は重要な点で、元は空からする神の招代であったのである
(折口先生、郷土研究、第三巻、第三号)
つまり。目籠を掲げるのは神様に降りてきてもらうための目印だとする説です。
一方、同書で小野重朗氏は次のように解釈しています。
(小野重朗「コトとその周圏」、『コト八日』p.247)
東部圏のコトは目籠のコトであり、西部圏のコトは箸のコトであると言われる。
これらのコトを特徴づけている目籠や箸は高い竿につけて掲げたり、戸外の木に掛けられるので、
ほぼ同じ目的をもつものと思われるが、この目籠と箸とはどのような意味をもつのであろうか。
先に奄美のカネサル(引用者注:p.230に、旧10月の頃の庚申(かのえさる)の日のことを言うとある)で
牛の肉を食べてその骨を村の入り口に掲げたり、ムーチー(粽餅)を食べてその葉だけを戸口に吊したりすることについては、
牛の肉や穀物の食物には人の身心を強固にする力があるとされていて、
災厄神の訪れるときにはそれを皆で食べて守りを固めること、
また、人々がそのようにして身を固め、家や村を固めていることを外から訪れる災厄神に示すために、
食べた証拠の品として骨や餅の葉を吊り掛けて示すのであるという理解を述べた。
コトの目籠や箸を戸外に掲げることも同じように解釈できる。
ここに記されている牛の肉を食べる例は、後に述べる古代中国の祭事との関係で興味深いと思います。
小野氏はまた、天草の例をあげて物忌みの厳しさが転じて妖怪変化の出現を伝えるようになったという説について異論を唱えています。
(小野重朗「コトとその周圏」、『コト八日』pp.216-217)
天草では現実に伝染病が流行してくる時などに、その災厄に対応する切実な処置としてコトを行っている。
祭りの物忌みといったいわば抽象的な観念から、さらに副次的に変ってできた厄神や妖怪を怖れる観念といった
複雑に紆曲したものではなくて、現実に災厄があり、それを恐れてコトによってそれから逃れようとしているのである。
・・・
災厄は不定期にやってくるものであってみれば、その災厄を防ぐコトも不定期に、
臨時に行うのが本来のものであったと思う。
●中国の影響
以上でコト八日について概観してみました。
いろいろな要素が入り込んでいて単純ではありませんが、
大きくは農事的な祭礼要素と厄除け的要素が中心にあるとみてよいようです。
『コト八日』では、中国との関係を述べている箇所が数カ所あります。
それはコト八日で豆腐を食べる風習が桃符と音が同じなのでここに由来するのではないかという指摘です。
(藤田稔「田の神信仰と二月八日の伝承」、『コト八日』p.90)
豆腐は桃符という音に通じ桃が悪魔除けの威力を存するからという支那古代の信仰が習俗化したともみられている。
●『荊楚歳時記(けいそさいじき)』
コト八日という行事の原型は古代中国にあるのではないかと私が思う理由は
この豆腐-桃符のことではありません。
まず宗懍(498-504ころから561-65)の著がもとになっているという『荊楚歳時記』から引用します。
『荊楚歳時記』(東洋文庫324 宗懍 著、守屋美都雄 訳注、平凡社、1978、p.232)
十二月八日を臘(ろう)日と為す。
『史記』陳勝伝に、臘日(月?)の言あり、是れ此れを謂うなり。
諺(ことわざ)に言う。臘鼓鳴りて春草生ずと。
村人並びに細腰鼓を撃ち、胡公頭を戴き、及び金剛力士を作り、以て疫を逐い、沐浴して罪障を転除す。
注釈がないと、正直なところこれだけでは私にはあまり意味がわかりませんが、
幸い「臘」については、訳者の詳しい註がついています。
臘日 後漢の応劭の『風俗通』巻八「臘」の条に「謹んで礼伝を按ずるに、
夏は嘉平と曰い、殷には清祀と曰い、周には大蜡(さ)と曰い、漢は改めて臘となす。
臘は猟なり。言うところは田に獣を猟取し、以て其の先祖を祭祀するなり」とある。・・・
・・・臘祭のとき獣の肉をささげることが不可欠のことと見られている・・・
つまり臘=古くは蜡=は原始時代における獲物を持ちよっての大饗宴を意味するものではなかったろうか。
(pp.233-234)
まずなによりこの臘祭の日にちが十二月八日であること、
鼓を撃ったり、像を作ったりして疫を逐うことや、
肉を捧げて先祖を祭祀するというあたりが大いに興味を引きます。
●物忌み
『荊楚歳時記』の本文ではありませんが、東洋文庫版『荊楚歳時記』六月の「伏日の湯餅」という項の註に、
『漢官旧儀』には「伏日、万鬼行く。故に尽日閉ざして他事に干らず」(p.175)
とあります。この伏日は臘日と関係ない項目ですが、
コト八日の物忌みというのも、「万鬼が行く」日なので、外に出ないで家の中にこもり静にして、
鬼の通り過ぎるのを待つという意味合いがあるのではないかと思えます。
●『四民月令(しみんがつりょう)』
続いて、後漢時代の崔寔の著した『四民月令』(東洋文庫467 崔寔 著、渡部武 訳注、平凡社、1987、p.141)から
十二月
(一)臈祭の挙行
十二月の[臈(ろう)]日、稲・鴈を薦(すす)む。期に前(さき)だつこと五日に、猪(ぶた)を殺し、三日に羊を殺す。
除に前だつこと二日に、斉(ものいみ)し饌(そな)え掃滌(そうでき)し、遂に先祖・五祀を臈す。
其の明日、是を小新歳と謂い、酒を進め神を降す。
其れ酒を尊長に進め、及び刺を脩(おさ)め君・師・耆老(きろう)を賀すこと、正日の如(ごと)くす。
其の明日、又た祀(まつ)る。これを蒸祭と謂う。
後三日して、冢を祀る。事畢(おわ)らば、乃ち宗族・婚姻・賓旅を請召して、
好(よしみ)を講じ礼に和し、以て恩紀を篤(あつ)くす。
農を休め役を息(やす)め、恵みは必ず下に浹(あまね)くせよ。
注には「臈は正式には臘に作る」と出ています。
どこまで理解できているかわかりませんが、要約してみると次のようになりましょうか
臈の日の数日前から、豚や羊を犠牲にささげる。二日前には身を清め、そなえものをし、掃除し、
当日に先祖と五祀を祀る儀式を行う。翌日酒を進めて神様に降臨していただき、
それから、長老や君主や師、老人などにお祝いをする。三日目には塚(墓のことか?)をまつる。
以上の祀の儀式がおわれば、一族や客を招いて親睦(宴席をもうけるのでしょう)する。
この日は農作業や仕事は休みとし下のものにも恩恵が行き渡るようにする。
豚や羊をと殺すること、先祖を祀ること、農事が休みになることなどが興味を引きます。
●朝鮮歳時記の記述にびっくり
民俗学で純粋に日本的なものを探り出そうとするなら、
東アジアの近隣諸国との比較が欠かせないはずです。
したがって隣国の、韓国・朝鮮の状況に目を向けないのは怠慢だと言えましょう。
幸い東洋文庫に『朝鮮歳時記』というピッタリの題名の本がありました。
この中の洪錫謨著「東国歳時記」を見てみますと、元日の項目の一つではありますが、
多摩地区のコト八日の言い伝えとびっくりするほど似た記述がのっています。
この「東国歳時記」は序文の日付が1849年9月13日となっています。
『朝鮮歳時記』(東洋文庫193 洪錫謨 他著、姜在彦 訳注、平凡社、1971、pp.28-29)
洪錫謨「東国歳時記」正月元日 夜光 の項
俗説に、夜光という鬼が、この日の夜に人家に降りてきて、
子どもの鞋(わらじ)をはいてみて、足にあうものを履き去る。
鞋を履き去られた主は、一年中不吉であるという。
そこで子どもたちは、これを畏れてみんな鞋をかくし、燈火を消して寝る。
そして篩(ふるい)を板間の壁か庭のきざはしにかけておく。
というのは、夜光が篩の孔を数えるうちに鞋を盗むことを忘れ、
夜明けの鶏鳴を聞いて逃げ去ると、伝えられているからである。
夜光がいかなる鬼かは知らないが、あるいは薬王の音が転じてそうなったのかも知れない
(夜光の朝鮮音はヤクワング、薬王のそれはヤツクワング)。
薬王像は大へん醜く、子どもたちをこわがらせるから、そうおもわれる。
「夜光」が「薬王」だとすると、この「薬王」とはだれなのでしょうか?
こういうときは南方熊楠に聞いてみるのがいいです。
南方熊楠全集の索引を見てみるとやっぱり「薬王」という項目がありました。
南方熊楠「十二支考 犬に関する民俗と伝説」『南方熊楠全集 巻1』平凡社p.502
その他犬が仙人に従って上天した例多く、韋善俊は唐の武后の時、京兆の人なり、
長斎して道法を奉ず。かつて黒犬を携え、烏竜と名づく。世謂いて薬王となすという。
韓忠献臆すらく、年六、七歳の時病はなはだし。
たちまち口を張って服薬する状のごとくして、いわく道士あり犬を牽き薬をもってわれに飼う。
にわかに汗して愈ゆ、と。よって像を画いてこれを祀る、と(『琅邪代酔編』五)
韋善俊という唐の武后(則天武后624-705)の時代の人が薬王といわれていたと熊楠は書いています。
これが「東国歳時記」の言及する薬王と同一かどうかなんら確信はありませんが、
薬に通じた仙人のような道士のような人であり、像も画かれているようですので可能性はあります。
仮にそうだとすると、ヨウカゾウの一つ目小僧や目籠の伝承は唐の時代の韋善俊という人にたどりつくかもしれません。
『琅邪代酔編』なる書にもあたってみる必要があります。
(2011/02/26 追記)
『清嘉禄 蘇州年中行事記』(顧禄 著、中村喬 訳注、平凡社 東洋文庫491、1988)の
巻四 四月に「薬王生日」という項があり、次のような注釈がついています。
薬王と称される者には、戦国時代の名医扁鵲(へんじゃく)(『史記』扁鵲伝)、
医書『千金方』を著した唐の孫思邈(そんしばく)(『酉陽雑俎』巻二(ゆうようざつそ))、
唐の名医韋慈蔵(『旧唐書』方伎伝)、
唐の武后期の人とされる韋善俊(『桐陰旧話』)、
唐の開元二十五年に天竺より来たという韋古道(『続列仙伝』)など、
また、仏教の二十五菩薩の一人である薬王菩薩がある。・・・
(2011/02/26 追記終わり)
ここまでで時間切れです。
なにか進展があったら次の報告は12月8日です。
誤りがあれば直ちに訂正します。
蛇足ながら、私にはコト八日の厄除けよりは花粉症対策が必要です。
(了)