失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

国分尼寺

2007年03月11日 | 残ってほしい風景
 武蔵国分寺の項で、尼寺地区は公園として整備されていると書きましたので、今回は国分尼寺跡と、その北側の旧鎌倉街道と中世の寺院の遺跡について取り上げてみます。

 はじめに、歴史公園としてどのように整備されているかの現状(2007年3月)です。

<金堂基壇 土盛があって、その手前の柱は、「幢竿」>
(幢竿跡:現地説明板によると「のぼり旗を吊るした高竿の跡と考えられる掘建て様式の柱穴。」とあります。)


<金堂基壇断面標本表示:上の写真の土盛の反対側に設置されている>

 北面塀は、柱跡に木柱が立てられ間が生垣になっています。板塀は、現地説明板によると、土塀から板塀か不明であるが参考として説明板を兼ねて板塀をここに表示した、とのことです。奈良の平城京跡の整備で、ところどころこうした手法(一部復元し、柱跡には木柱をたて、間に植栽を施す)がとられました。 

<尼坊跡(礎石の部分)と北面塀>

 現地の説明版はポイントごとに配置されていてありがたいのですが、文字部分が剥落して、さびが出ていたり、ひびが入っていたりするものもありました。せっかく整備しているのですから、このような部分の保守にも気を配って欲しい(劣化しにくい材料で作り変えるなど)と思います。
(追記:説明板の文字・図の部分は、詳しい材質はわかりませんが、プラスチック製のようで、文字の剥落部分はさびではありませんでした。通常では部分的に剥落するとは思えませんので、いたずらなどで石などをぶつけられて、破損し欠け落ちたのかもしれません。)


 続いて、尼寺跡の北側(国分寺崖線上)の旧鎌倉街道と、中世寺院跡です。

 
<旧鎌倉街道(北方向を撮影)> <崖線を登り雑木林の中から尼寺の方向(南方向)を振り返る>
 
旧鎌倉街道の切通しの東側に塚があります。古墳のように見えましたが、中世の寺院の修法基壇とのこと。現地案内板には「中世(14・15世紀)において種々の祈願の成就を得るために作法に則り本尊に対し祈祷するために築かれた修法壇跡で、伝祥応寺との関係を有するものと推考される。(国分寺市教育委員会)」とありました。伝祥応寺跡は、切通しの反対側(西側)にあり、雑木林に囲まれた中に礎石がいくつか残っています。
  
<写真左:塚(画面の奥で、鎌倉街道の左側の高くなっている場所に、さらに盛り上がって、藪に覆われている部分)。崖線上から南方向を写したもの。画面左端のフェンスの向こうには武蔵野線の線路が通っている。;写真右:祥応寺の跡、階段の上の平らな部分。塚の側から鎌倉街道をはさんで反対側を写した。>
コメント
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