ひさしぶりに、江戸名所図会の挿絵をとりあげてみます。
<『新訂 江戸名所図会 3』(市古夏生 鈴木健一校訂 ちくま学芸文庫、p434)より>
この絵に描かれている山はどこの山かというのが今回のテーマです。
図会では「日野津」となっている「日野の渡」ですが、現在の場所でいうと日野橋と立日橋の間にあったそうです。
日野側(多摩川右岸)には、日野市教育委員会の「日野渡船場跡」の案内板が、
立川側(多摩川左岸)には錦町下水処理場の脇に「日野の渡し」の碑が建てられています。
「日野の渡し」の碑のあたりから立川の柴崎体育館の東側を通る道に「旧甲州街道」の標識があります。
<日野の渡しの碑と旧甲州街道 立川側(根川緑道のあたり)>
<旧甲州街道 立川側(段丘を上がったあたり)>
山並みを撮るには、立日橋の下流ではモノレールの橋脚が邪魔になるので、立日橋の上から写真を撮りました。
<立日橋より多摩川上流方向>
図会の山並みがある程度写実的だとして、候補を探してみますと、だいたい下の2つくらいになります。
<山並み候補1:画面左の赤白の鉄塔の左に日野自動車の工場が見えている>
<山並み候補2:画面右の中央線の鉄橋の上あたり、一番奥の山並みは雁腹摺山>
図会の山並み線を写真に重ねあわせてみると、100%ぴったり合うわけではありませんが、上の候補1のほうが合っているように思えます。
(一番高く見えている山の2つとなりに、ふたこぶ型の山があることや山襞の感じがわりとあっているように思えます)
カシミールで展望図を作って、山名を入れてみるとこうなります。
図会に描かれている(と推定する)範囲は小仏峠の右側から堂所山の左あたりまで
のようです。
<『カシミール3D』(杉本智彦著 実業之日本社)を用いて作成>
以上から図会で一番高く描かれている山は「景信山」だと推定しました。
<追記>
図会に描かれている日野側に渡った甲州街道は、現在で言うとどのあたりを通っていたのでしょうか。
「日野渡船場跡」現地案内板にのっている地図(書籍では『日野市史 通史編二(中)』p.145)や、立日橋開通以前のすこし古い地形図、現在の地形図などを比べてみると、
現在の立日橋から都道256号(*1)(旧国道20号)につながる道路(*2)が、昔の道(渡船場道)と重なっているようです。
この立日橋から都道256号までの区間は大きな道路に変わっているので、立川側にはいくらか残っている旧道の雰囲気が、こちらにはまったくありません。
下の右側の写真は、都道256号との接続点の東側に残る狭い道です。『日野市史 通史編二(中)』p.156を見てみると、「万願寺の渡し」(日野の渡し以前にあった渡し場)へ向かっていた旧甲州道中のようです。
*1 2007年に変わっていたとは知りませんでした。詳しいことはwikipedia等を参照してください。
*2 立日橋の橋詰めから少し南に行ってモノレールと分かれて、日野警察署の西で都道256号に接続する。都道149号。
<左:都道256号に接続する部分。右:左の写真のすぐ右側に狭い道が残る。>
<立日橋下流の河原にて>
<『新訂 江戸名所図会 3』(市古夏生 鈴木健一校訂 ちくま学芸文庫、p434)より>
この絵に描かれている山はどこの山かというのが今回のテーマです。
図会では「日野津」となっている「日野の渡」ですが、現在の場所でいうと日野橋と立日橋の間にあったそうです。
日野側(多摩川右岸)には、日野市教育委員会の「日野渡船場跡」の案内板が、
立川側(多摩川左岸)には錦町下水処理場の脇に「日野の渡し」の碑が建てられています。
「日野の渡し」の碑のあたりから立川の柴崎体育館の東側を通る道に「旧甲州街道」の標識があります。
<日野の渡しの碑と旧甲州街道 立川側(根川緑道のあたり)>
<旧甲州街道 立川側(段丘を上がったあたり)>
山並みを撮るには、立日橋の下流ではモノレールの橋脚が邪魔になるので、立日橋の上から写真を撮りました。
<立日橋より多摩川上流方向>
図会の山並みがある程度写実的だとして、候補を探してみますと、だいたい下の2つくらいになります。
<山並み候補1:画面左の赤白の鉄塔の左に日野自動車の工場が見えている>
<山並み候補2:画面右の中央線の鉄橋の上あたり、一番奥の山並みは雁腹摺山>
図会の山並み線を写真に重ねあわせてみると、100%ぴったり合うわけではありませんが、上の候補1のほうが合っているように思えます。
(一番高く見えている山の2つとなりに、ふたこぶ型の山があることや山襞の感じがわりとあっているように思えます)
カシミールで展望図を作って、山名を入れてみるとこうなります。
図会に描かれている(と推定する)範囲は小仏峠の右側から堂所山の左あたりまで
のようです。
<『カシミール3D』(杉本智彦著 実業之日本社)を用いて作成>
以上から図会で一番高く描かれている山は「景信山」だと推定しました。
<追記>
図会に描かれている日野側に渡った甲州街道は、現在で言うとどのあたりを通っていたのでしょうか。
「日野渡船場跡」現地案内板にのっている地図(書籍では『日野市史 通史編二(中)』p.145)や、立日橋開通以前のすこし古い地形図、現在の地形図などを比べてみると、
現在の立日橋から都道256号(*1)(旧国道20号)につながる道路(*2)が、昔の道(渡船場道)と重なっているようです。
この立日橋から都道256号までの区間は大きな道路に変わっているので、立川側にはいくらか残っている旧道の雰囲気が、こちらにはまったくありません。
下の右側の写真は、都道256号との接続点の東側に残る狭い道です。『日野市史 通史編二(中)』p.156を見てみると、「万願寺の渡し」(日野の渡し以前にあった渡し場)へ向かっていた旧甲州道中のようです。
*1 2007年に変わっていたとは知りませんでした。詳しいことはwikipedia等を参照してください。
*2 立日橋の橋詰めから少し南に行ってモノレールと分かれて、日野警察署の西で都道256号に接続する。都道149号。
<左:都道256号に接続する部分。右:左の写真のすぐ右側に狭い道が残る。>
<立日橋下流の河原にて>
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