失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

(現代の)邪眼

2014年02月08日 | 民俗
2月8日のヨウカゾウは、一つ目小僧が来る日であったり、目籠を竹竿に掲げたり、
なにがしか目というものと関わりがあるように思います。
この風習の起源の一つをたどると中国の古代にまでさかのぼれるのではないかという推測を
私は数年前にこのブログで取り上げてみました。
白川静『漢字百話』を読んでいますと、「19神梯の儀礼」に「邪眼」という図が載っています。
「ヨウカゾウに目籠を掲げる起源はこれだ」などと言うつもりは毛頭ありませんが、
「まったく関係ない」と断言もできません。引用してみます。

白川静『漢字百話』(中公文庫版、p.60)
神梯のある聖地には、まず地下の隧を清め、地上に土型の土主をおいて犬牲を供え、
前方には邪眼を掲げて限界とし、また陥穴を設け、隅隈(ぐうわい)には畏るべき鬼魅(きみ)の類をおき、
周辺の堆土には書を埋め隠して陼(と)とする。みなこの梯立(はしだて)の神聖を保つためである。


<邪眼として載っている図(字) 白川静『漢字百話』(中公文庫版、p.60)>

このように『漢字百話』では、邪眼を掲げるのは「梯立(はしだて)の神聖を保つため」と書かれていますが、
別の本では限という字の説明として次のように載っています。

白川静『漢字』(岩波新書、p.71)
目は人の心のあらわれるところであり、邪眼はすぐれた呪力をもつものとしておそれられた。
限は邪眼をいう字である。限は神の陟降する聖地に邪眼をおいて、悪霊の侵すのを禁ずる意象の字であった。


こわい目で、ぐっとにらみをきかせて悪の進入を許さない、というまじないの意味が浮かび上がってきます。

このデザイン、現代の町中でもときどき見かけます。
「ちゃんと見張っているぞ」というメッセージ。「にらみをきかせて」悪を払いのけることを意図したデザイン。


しかし、現代の邪眼と呼ぶにもっともふさわしいものは、町中に設置された防犯カメラ・監視カメラでしょう。
抑止効果を考えるなら、邪眼ステッカーより防犯カメラ・監視カメラの方がはるかに高いことは間違いないでしょう。
デザインは心理効果だけですが、
防犯カメラ・監視カメラは記録機能によって「悪事を白日のもとにさらす」ことができるので。


今や都市部では、これらのカメラに捕捉されずに町中を歩くことは不可能でしょう
(確かめたわけではありませんが)。
あなたが清廉潔白ならどこで誰にみられてもかまわないでしょう、と言われたらどうしましょうか。
防犯という社会にとってプラスのはずの機能が、
監視社会化という暗黒を生み出しかねないというどこか逆説的なこの問題、
監視社会化にどこで歯止めをかけるのか、私の目には明確に見えているわけではありません。
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