失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

夜刀の神

2007年02月12日 | 民俗
このブログでも今まで「谷戸」「谷地」という言葉を何度か使ってきました。
「谷(やつ)」は、広辞苑によると「アイヌ語から」の言葉だそうです。
常陸国風土記にその名も「夜刀の神(やとのかみ)」という話があります。


                     <茨城県行方市>

『鎮守の森は甦る-社叢学事始』上田正昭、上田篤編 思文閣出版 p10-11に、この「夜刀の神」について興味深い解釈が載っています。
(引用開始)
三 縄文文化の名残り
 アマツカミといい、クニツカミというものは、いったい何であろうか。
 何千年もの昔、日本列島の山野は深い森で覆われていた。そこに小動物や魚を獲り、木の実や貝を拾う人々がいた。わたしたちの祖先の縄文人である。しかし、縄文末期から弥生時代にかけて、この国に稲作が普及するにつれ、日本列島の様相は一変した。平地部の森林がつぎつぎに切り倒され、あるいは焼き払われて田畑となっていったからである。とりわけ、古墳時代の初期に、大陸からやってきたとおもわれる天照大神を奉祭する「天孫族」がこの国土を支配するようになると、その勢いは決定的となった。アマツカミとは、これら 「天孫族」あるいはその子孫をいい、クニツカミとは、それ以前に日本列島に居住していた人々をいう。
 ただし、クニツカミといっても、古くからこの日本列島に居住していた縄文人と、紀元前三世紀ごろを起点として大陸からやってきた早期の弥生人とがいる。そして縄文人は一口に「森の民」といっていいが、弥生人はいずれも「稲の民」である。すると両者の生産方法は大きく異なり、したがってその文化もまた違ってくることが予想される。
 ところが、社叢が「土地の神の坐ます森」である、というなら、それは縄文人の文化に近い、と考えられるのではないか。なぜなら、縄文人の文化は森を基盤とするが、弥生人の文化は、その生業からいって、基盤とする自然は「森」ではなく「川」とか「泉」とか「稲」とかでなければならないからだ。では、どうして弥生人もみな「森」を奉祭したのだろうか。
 『常陸国風土記』に、そのヒントになるような話がある。継体天皇のころというから、すでにアマツカミの治世下の六世妃の始めのことであるが、縄文人と弥生人の関係を知るうえでの参考にはなろう。

 箭栝(やはず)の氏(うじ)の麻多智(またち)、郡(こおり)より西の谷の葦原(あしはら)を截(きりはら)ひ、墾開(ひら)きて新に田に治(は)りき。此の時、夜刀(やつ)の神、相群れ引率(ひきい)て、悉盡(ことごと)に到来(き)たり、左右(かにかく)に防障(さまたげて)、耕佃(たつく)らしむることなし。是に、麻多智、大きに怒の情(こころ)を起こし、甲鎧(よろい)を着被(つ)て、自身(みずから)杖(ほこ)を執り、打殺し駈逐(おひや)らひき。乃ち、山口に至り、標(しるし)の枴(つえ)を堺の堀に置て、夜刀の神に告げていひしく、「此より上は神の地と爲すことを聽(ゆるさ)む。此より下は人の田と作(な)すべし。今より後、吾、神の祝(はふり)と為りて、永代(とこしえ)に敬(うやま)ひ祭らむ。冀(ねが)はくは、な祟(たた)りそ、な恨みそ」といひて、社を設けて、初めて祭りき・・・。
(引用者注:常陸の風土記の一部について、岩波文庫「風土記」で補った)

このヤツノカミには蛇という注釈があるが、前後の状況から推して、縄文人と考えることができる。そして縄文人の住む山地と弥生人の住む平地とのあいだの山口に社をつくった、というのである。神社の成立を知る一つの話である。

(引用終わり)

 常陸国風土記には「夜刀の神」について「俗にいふ、蛇を謂ひて夜刀の神と爲す。その形、蛇の身にして頭に角あり。・・・」と註が付されているので、一般には「夜刀の神」は蛇とみなされ、人間が自然を開墾する際の摩擦、あるいはその後の住み分けの話のように考えられているようです。
 
 常陸国風土記には、この後に、後の時代のもう一つの「夜刀の神」の話が載っています。

(引用開始)
其の後、難波の長柄の豊前の大宮に天の下知らしめしし天皇の世に至りて、壬生連麻呂、初めて其の谷を占めて、池の堤を築かしめき。時に夜刀の神、池の辺の椎の樹に昇り集ひ、時を経れども去らざりき。ここに麻呂、声を挙げて大に言ひしく、「此の池を修めしむるゆゑは、民を活かすにあり、何の神、誰の祇ぞも、風化(ことむけ)に従はざる」といひて、すなわち役の民に令して曰ひしく、「目に見ゆる雑の物、魚蟲の類は、憚り懼るる所無く、隨盡に打ち殺せ」と言ひ了れば、応時、神蛇、避け隠れき。いわゆる其の池は、今椎の井と號く。池の面に椎の株ありて、清き泉の出づる所なれば、井を取りて池に名づく。
『風土記』武田祐吉編 岩波文庫 p.59
(引用終わり)

「長柄の豊前の大宮に天の下知らしめしし天皇」というのは孝徳天皇だそうです。

 私は、『鎮守の森は甦る-社叢学事始』の「神社の成立を知る一つの話である」という部分に大変興味を覚え、行方市(合併前の行方郡玉造町)の泉というところに、この「椎の井」と伝えられている場所があると聞いて、是非行ってみたいと思っていました。
多摩地区ではもう少なくなってしまった、風景が広がっていました。

 
             <椎の井>                     <壬生連麻呂の像>

     
       <湧出量も豊富>                  <底の砂が湧き踊る>

      
            <泉の上に愛宕神社があり椎の大木がそびえる>

この辺りには、中世の居館跡など興味深い史跡があり、後日もうすこし紹介してみます。
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