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失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

野火止用水 その2

2007年04月16日 | 流末探訪

<柳瀬川と新河岸川の合流点。奥左から新河岸川。志木市栄橋から下流方向を撮影。>

「清流復活」した野火止用水の水は、平林寺の横を過ぎて国道254号から先どこに行っているのか。
 新河岸川右岸側に流れ込む9箇所の水路(柳瀬川との合流点から、黒目川との合流点まで)の水質(電気伝導率)を測定してみましたが、結論が下せません。電気伝導率測定で結論が下せるというシナリオは、復活用水の電気伝導度率が周囲の水に対して高いはずという前提と、用水は途中で他の水と混ざることがないという前提を勝手に想定していましたが、前者の前提は実測で否定されたため失敗企画になってしまいました。また、ネットでざっと検索してみると、用水は新座市(例の国道を越えたところ)で下水管渠に入っているという内容の記述があり、そもそも新河岸川にあの流れがストレートに出ていないない可能性があります。あとは、文献をさがすかネットで検索を続けるか、所管自治体に問い合わせしてみるかしか目下のところ私には手がなくなりました。

 今回の水質測定結果の報告の前に、昔の野火止用水がどこを流れていたのかと、現在の「復活」用水の水がどこに流れ着いているのかを分けて考えておきましょう。まず前者をかたづけておきます。(暗渠は必ず昔の水路の下を通っているはずだという思い込みは捨てなければなりません。)
  
 野火止用水の流路図は、前回示した、案内板にも描かれており、流路の一つは、「宮戸村」「引又河岸」付近で新河岸川に出ています。(実はここで、さらに新河岸川を樋で越えて対岸の「宗岡村」に導水されていたのだそうです。)
 ちょうどここの絵が「江戸名所図会」にありました。

市古夏生 鈴木健一 校訂 ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会4』筑摩書房 pp.304-305

川田壽『近郊散策 江戸名所図会を歩く』東京堂出版には、この絵の解説として、
 「眼下の川は新河岸川である。荒川の内側にあるので内川とも呼ばれた。
  左の橋を引又橋、右はいろは樋(とよ)という。
  ・・・
  向うに伸びているは引又村、橋のこちら側は宗岡村である。」(p.186)

 「遠方の道路中央に見える水路は野火止用水で・・・
  新河岸川に向って流れる用水はやがて道の片側に片寄り、
  路面の傾斜に応じて水勢をより強める。」(p187)

 「野火止用水の余水は、新河岸川へ落としていた。
  当時、対岸の宗岡村を知行地にしていた旗本の岡部氏は、
  領地内の原野開発のため新河岸川をこえて水を得ることを考えた。」(p188)

とあります。

 現在柳瀬川と新河岸川の合流点のすこし上流を通る志木街道の「市場坂上」の交差点脇に、この「いろは樋」の一部(枡と登流)が復元されています。
 
 <いろは樋の一部復元展示。図会の向きとは逆方向:北東方向に向いて写しています。>

<坂の途中に時代を感じさせる建物が何軒かあります。といっても年代は知りませんが。>

 図会の絵では、坂は下って右に曲がっていますが、現在このあたりに、引又河岸跡の案内がたっています。
 
<左:引又河岸跡の案内 右:すぐ隣に引又観音堂がある。案内板によると、観音堂は昭和42年に建てられたものだそうです。観音像自体には、元禄十丁丑正月吉日引又村と刻まれています。>

 ここで一回区切って、水質測定結果は「野火止用水その3」に回します。
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