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08/26  「お好み焼き」と「もんじゃ焼き」

2013年08月26日 | 食・レシピ

【お好み焼き】
「お好み焼き」は、鉄板焼き料理のひとつ。水に溶いた小麦粉を生地として、野菜、肉、魚介類などを具材とし、鉄板の上で焼き上げ、調味料をつけて食するものであるが、焼き方や具材は地域によって差が見られる。「関西風お好み焼き」と「広島風お好み焼き」の2種類の調理法が特に代表的であるが、その他の地域にも同じような料理は多数存在する。

『歴史』
お好み焼きの歴史は、安土桃山時代の千利休が作らせた「麩の焼き」であると言われている。その後、麩の焼きを起源として江戸末期から明治にかけ、味噌の代わりに餡を巻いて作る「助惣焼き」が生まれる。
この食べ物は東京の麹町で生まれ、明治時代には「もんじゃ焼き」、「どんどん焼き」が生まれた。
1923年の関東大震災の際には主食的位置を占め、昭和になると東京ではウスターソースを使用する「もんじゃ焼き」や「一銭洋食」が食料不足を補う方法としてもてはやされるようになる。
それらが大阪にも伝わり、コンニャクや豆の具を入れた醤油味で食べる「ベタ焼き」、「チョボ焼き」が誕生し、それらが各種鉄板焼きへと派生、関西地方や広島県において現在「お好み焼き」と呼ばれるスタイルに発展したと言われる。

『関西風お好み焼き』
大阪を中心とするお好み焼きには様々な調理法があるが、最もポピュラーな形としては、小麦粉の生地に刻んだキャベツや魚介類などの具材を混ぜ合わせて、鉄板の上で焼く調理法をとる。
全国においてはこのスタイルのお好み焼きを、一般に「お好み焼き」と呼んでいる。なお、生地の中にナガイモを混ぜ込み食感を軽くする工夫が行われることも多い。因みに地元の関西では「お好み」と略して呼ばれる事もある。
それ以外の調理法としては、鉄板に生地を薄く敷き詰めその上に具材や多量のネギを載せて焼く「一銭洋食」のスタイルや、同様に鉄板に薄く延ばした生地に多量のキャベツと具材を載せてさらに上から生地を少量かけながら焼く広島風スタイルもある。

『広島風お好み焼き』
戦争で小麦粉が不足した戦後に作られた野菜を多く使用したお好み焼きが始まりであるが、戦前に子供のおやつだった「一銭洋食」を元にしている。近年では「ご当地グルメの代表格」ともいわれ、2006年現在、広島市だけで800軒以上、広島県内には2000軒あるといわれる。
1950年頃に発生した屋台街で開業した「みっちゃん」の井?井三男と「善さん」の中村善二郎が広島風お好み焼きの元祖といわれる。その他、初期のお好み焼きの屋台の流れをくむ店は「蘭ちゃん」「へんくつや」などがある。1950年当時のお好み焼きは「ネギ焼き」に近い物であった。
戦争や原爆で夫を亡くし、自宅の土間を改造して店を始めた女性も多く「◯◯ちゃん」という屋号が多いのはその名残りである。また、1963年に中国地方を襲った昭和38年1月豪雪で、中国山地の農村から一家で離村し、高度経済成長期の広島市に移住した農家の主婦が住宅地に開業した例も多い。
昭和40年頃までは、家から卵や肉を店に持っていって入れてもらう事も出来た。現在は肉や卵は当たり前に入っている事が多いが、昔は野菜とそばだけ、或いは野菜だけのお好み焼きも珍しくない。
広島風お好み焼きの焼き方は、昔から今まで一貫して重ね焼きである。当初は肉の入っていない野菜の重ね焼きで、二つ折りにして新聞紙に包み提供されていた。キャベツや揚げ玉などは入れられていたが、この頃はまだ、蕎麦等は入れられていなかった。このクレープのような生地に二つ折りにして挟むというスタイルは現在でも残っており、円盤状のものに比べて場所をとらず、またやり方によっては、片手で食べることも可能になるので、焼き蕎麦と玉子焼きを挟んだものが広島県内のスーパーマーケットでよく売られている。
戦後の食糧事情により、季節により供給量が左右されるネギを、単価が安く年間通して手に入りやすいキャベツに変えた。昭和30年代になると、中華麺やうどんを入れるようになる。これはその頃発売されたインスタントラーメンの影響とも言われている。
広島風お好み焼きも、最初の頃はウスターソースを使っていた。多くなった具に対応するために蕎麦を焼き蕎麦のようにソースで味付け、さらに表面にも塗っていた時期があった。地区によっては、ソースはお好み焼きソースに変わったが、、作り方自体は今に残っている所もある。
具材が増えたことでソースの味を濃くする必要があったためにソース会社に意見を出し、ソースを作る際に出る沈殿液を使うようになり、さらに甘く味付けしたり、とろみを付けたりしたことで、現在のお好み焼きソースに発展した。
見栄を良くするために二つ折りを円盤状にした。当初おやつ程度だったのが、主食に変化して行った。そうして、1955年頃に現在の広島風お好み焼きになった。
お好み焼き突然完成形が出来たわけではなく、当時は屋台営業の為に他店の手の内が分かりやすく、互いに影響を与えながら現在の形に進化していった。
名前についても、当初は決められた名前は無かった。好きな具材を入れて焼くことで「好み焼き」、しかし、この名前では良くないのではとなり、頭に「お」を付けてお好み焼きになったらしい。今となっては何が嘱矢であるか正確には分からないが、自然発生的に「お好み焼き」という名前が現れ、それが一般に定着し今に至っている。

大坂風お好み焼き

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神戸モダン焼き

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広島風お好み焼き

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【もんじゃ焼き】
「もんじゃ焼き」は、小麦粉を主体とした、いわゆる「粉もの」料理の一つで、材料を鉄板で調理して食べる。「もんじゃ」と呼ばれる事も多く、「もんじゃやき」「ぼったら」「おいの」と呼ぶ地域もある。もんじゃ焼きを食べる地域は日本各地にあり各地の特徴がある。

『概要』
もんじゃ焼きは、お好み焼きの原型となった料理で、駄菓子屋などで間食として食べられていた。
もんじゃ焼きの原型は、安土桃山時代に千利休が作らせた「麩の焼」てある。
「麩の焼」とは、巻いた形が巻物経典を彷彿させる事から、仏事用の菓子として使われていたもので、「秋の麩」の和菓子であり、茶会の茶菓子として千利休が作らせていた。
その「麩の焼き」が江戸時代に伝わり、江戸時代末期に「麩の焼き」に使われていた味噌に替えて餡を巻く「助惣焼」が出来た。この「助惣焼」は東京の麹町で生まれ、明治時代には「助惣焼」を原型に「もんじゃ焼き」が生まれた。
その後、「もんじゃ焼き」が大阪、広島など各地に伝わり、現在の「お好み焼き」に枝分かれ発展したと伝えられている。
「もんじゃ焼き」は、小麦粉を溶かす水の量が多く、またソースなどの調味料を一緒に混ぜ込んでしまうのが特徴である。鉄板にコテで押さえつて焼ながら食べるので、鉄板に接する外部は食感がパリッとしているが、押さえつけか足りない部分どはトロッとしている。
現在は、東京の下町と埼玉県南部・東部、群馬県東部と栃木県南部に店が多い。

『駄菓子屋ともんじゃ焼き』
東京・田町の駄菓子屋には、昭和初期から昭和40年代頃までは大抵、もんじゃ焼きの鉄板があった。昭和20年代は物資が欠乏ていたため、単にうどん粉を水で溶き、味付けしただけのものが多かったが、昭和30年代中頃を過ぎると、キャベツはもちろん、切りイカなどの具の種類も増えていった。
もんじゃ焼きはかって、下町を中心とした子供達に親しまれていたが、近年は食文化の変化、駄菓子屋の減少から子供達に食べられなくなってしままった。
近年、もんじゃ焼きは東京下町の伝統的な食べ物として全国的に認知されるようになった反面、その客層が観光客やサラリーマンなどに代わり、酒のお供として食されるようになった。

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